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番外編③ 〜 Mélodie et Harmonie 〜

『了解。こっちはもうすぐ出る』


 ワル巧み仲間に返信をして、花吹教諭はスマホをしまった。

 すでに式次第は卒業生退場に差しかかり、吹奏楽部が蛍の光を奏で始めた。


(青田、雰囲気変わったな)


 髪を短くしたことで、凛とした首すじがよく目立つ。

 少女然とした空気は消えて、自分の道を歩み出す横顔が眩しい。


(羨ましい)


 多津はきっと、彼女に想いを告げるのだろう。

 初めて恋を知った男子学生のように。

 ひとつひとつ、二人で進んでいく。

 大人らしい距離を保った恋愛ではなく、真っ正面からぶつかり合う、そんな相手と出会えたことは稀有(けう)な喜びだ。


(ガラにもなく感傷的だな)


 式の片づけを終え、玄関の靴箱に向かうと、外で多くの生徒たちが別れを惜しんでいる。

 自分も見送ろうかと教員玄関に出ると、そのすぐ脇の茂みのそばで、ちょこんと座り込む少女の姿があった。

 見慣れたジト目は野良猫のようだ。


「彩じゃねえか」

「プランC、失敗しました」

「え?」

「あの二人ったら、こっちの気も知らずに——もお、知らない!」

「どうした」

「あたしたち、ちゃんとSNS対策したじゃないですか!?」


 保護者のいない卒業式に、せめて大切なひとを連れて行きたい——そう言ったのは彩だ。

 これがプランB。

 沙夜が出てきたら真っ先に捕まえて、人目につかないよう写真を撮って、それであとは解散。そういう段取りだった。

 それがプランC。


「なんだ、多津が公開告白でもしたか?」

「逆ですよ!」


 沙夜が多津を見たなり、卒業証書も放って駆け寄り、しっかと抱きしめたのだという。


「たづセンセはびっくりして眼鏡も花束も落ちるし、そういう二人が人目につかない訳ないじゃないですか!? ぜんぶあたしが拾って、トムさんの車に押し込みました!」


 花吹は笑いを堪えて聞いていたが、続く「あれで撮られて炎上しても文句言えないと思う!!」という彩の啖呵(たんか)に、とうとうくちびるが開いた。


「はっはっは!」

「あたしのスパイ並の用意周到さを、ぜんぶブチ壊してくれました」

「くっくっく……」

「もうアレで《推し》とか言ってる資格ないからね!? 推しは抱きつくものではなく、遠くから愛でて応援するものであって——」

「ははっ、いいじゃねえか」


 花吹は笑いすぎて出た涙を拭いながら、呼吸を落ち着けた。


「これからも多津の背負うもんは変わらねえよ。青田もそれくらい渡っていけなきゃ、続かない」


 彩は頬を膨らませた。その頬のふくらみに、「お?」と思う。

 一瞬、言いかけたものを弾き飛ばすために、考えて、自分の横っ面を張った。


「えっ!?」

「いや、ちょっと煩悩がな」

「なにそれ!」

「さーて、それよりもー」


 露骨に話を変えることにする。


「音楽室でも見てくか?」


 花吹の誘いに、彩はぱあっと顔を輝かせた。


「見る!」



 *



「ベートーヴェンの目って動いて見えるんでしょ!」

「黒板に五線譜がある!」


 はしゃぐ彩の言葉に違和感を覚えた。


「おまえ、わりと音楽の知識ある?」

「知識ってほどではないけど……お母さんが出て行くまでは、ピアノ、習ってたから」

「母親、出てったのか」

「ん。不倫したって、オヤジは言ってるけど」


 でもねえ、あんなクズ()じゃ逃げたくもなるよね、と、歳に合わない話をする彩。

 どうして娘である自分を置いて行ったのか、その戸惑いはもちろんあるだろうに。


(可哀想だ)


 それはなるべく、思わないようにしている言葉だった。

 どんな人生を送っていても、その人にとって満足ならそれで良いし、自分に誰かを哀れむほどの甲斐性などないからだ。


「彩」


 意味もなく名を呼ぶ。

 そうすれば、彼女は自嘲ぎみに話すのをやめてくれる。


「なんか、聞きたい曲、ある?」


 花吹にしては珍しい申し出だった。

 女子生徒にねだられることはあっても、自分から弾きたいと思うことは、なかなか無い。

 彩は素直に喜んで、「何曲まで?」と聞き返す。


「ほーお。一曲いくら払ってくれんの?」

「あっ、ぼったくられる!」


 憎まれ口を叩きながらも嬉しそうな彩は、なにがいいかな、としばらく思案して、照れくさそうに言った。


「沙夜がうなされてるときに、泉さんのスマホから聞こえてきた、さくらさくらのメロディ。あれ、ちょっと羨ましかった」

「ああ、さくら変奏曲か」

「変奏曲?」

「ピアノでも弾ける」

「えっ、そうなの!?」


 花吹はピアノをあけて、ボルドーのシルク布を巻きあげながら答えた。


「懐かしいな、初めて多津がここに来たとき、二人で合わせて弾いたんだよ」

「うぇ、豪華ァ……」

「いやそれが、お互いの個性潰し合って最悪のセッションになってな。笑ったわ」


 花吹の指がメロディを奏で始める。

 最初はスタンダードに、聞き慣れた「さくらさくら」のイ短調。

 そして小気味よくリズムを刻み、次は華麗な装飾音がつく。

 VRのように広がる、音楽の情景。

 ピアノのソロならペダルも使い分けて、さまざまな表現ができる。

 花吹自身が旋律を楽しみ、余韻を味わっていると、彩がぱふぱふと気の抜けた拍手をした。


「すご……プロ?」

「一応、音楽教師なんで」

「音楽教師って皆こんな感じ!?」

「は、驚きすぎ」

「だってすごかったよ!? なんか、迫力っていうのか、音の響きが迫ってくるっていうか……ピアノ教室でも聞いたことない音だった」


 両手のジェスチャーたっぷりに語る彩が可愛くて、花吹も照れくさくなってしまった。


「一応、プロ目指してたので」


(げ、頬熱い。赤くなるなよー、俺のぶ厚い面の皮)


「やっぱりプロなんじゃん!」

「ちがう、目指してただけ」


 この話をし始めると、自分の青臭い恥ずかしい何やらを引っ張って来なければいけないので、できればスルーしてほしいのだが。

 彩はまっすぐに見つめてくる。

 この眼差しには、参る。

 《大人の(ずる)さ》を許さない、そんな雰囲気がある。


「……プロになりたくて、フランスの音大に留学してたけど、チャンスを掴めなくて、日本に戻ってきました」

「それ、そんな気まずそうに言うことなの?」

「カッコわるいだろ。意気揚々と海超えて、そしたら自分より上手くて才能あるヤツなんてザラにいて、努力するでもなく挫折して、って」

「あー、まあたしかに?」


 彩がいたずらっぽく笑う。そこに嫌味はまったくない。


「だからさ、なんか日本に帰ってきたときは、もう懲り懲りっていうか、音楽に関わるつもりはなかったんだけど」

「そうなんだ」

「だけど——多津の音、聞いてしまって」


 雑踏の中、それはCMに使われているたった数秒の旋律。


「それだけでもう鳥肌立ってさ。なんだこの音は、って」


 真剣のように切れ味の鋭い、恐ろしいほどの硬質な音。

 もがき苦しみながら手に入れたとでもいうような、殺気のこもった旋律。

 まるで弦に斬られたようだった。


「これほど音と闘ってるやつがいるのに、俺が逃げてていいのか、って思った」


 それが旧知の奏者だと知ったのは、彼が病んで相談に来てからだ。

 教員免許は持っているから、どうにか食い扶持を稼げるほどの仕事はないかと頼ってきた。

 あの瞬間が、花吹にとってどれほど報われたような気持ちになったか、彼にさえ話していない。


(俺は、どうしてこんな話を、まだ若い女の子にしてるんだろうな)


 目のまえで真摯に話を聞いてくれる彩が、急に、見知らぬ女性のように見えた。

 それは彼女自身の仕事のうえで身につけた聞き上手かもしれないし——その他の理由は、認めるには少し、抵抗がある。


「こんなオッサンの、自分語り聞いてくれて、ありがとうな」


 彩はあからさまにムッとする。


「べつにオッサンとか、自分語りとか、思ってないし」

「じゃあどうして、聞いてくれたんだ?」

「大事な話なんでしょ」


 アンタにとって——と紡ぐくちびるの動きを止めたくて、ちいさな(おとがい)を、そっと親指で捕まえた。


「ゆたか」

「ユタカ?」


 彩は首をわずかに傾げる。


「《優しい》のユウって書いて、《ゆたか》って読む」


 あ、と気づいて、彩が応える。


「アンタの……名前?」

「そう。花吹(ゆたか)

「……変わってる」

「そう。だから、本当の読み方を知るやつはなかなかいない」


 彩の、嘘を許さない眼差しが、花吹を捉える。


「どうして、それをあたしに教えるの?」

「さァ……なんでだろうな」


 彩のあご先にふれている指を、離さなければならないと思いながら、それでも離せない。


「呼んでみてほしい」

「……これ、何も知らない人が見たら、完全にセクハラだと思うんだけど」

「まぁな」

「……クソ教師」


 明るい赤のリップをのせたくちびるが、「ゆ」と動いた。

 だが、止まってしまう。

 そのまま待ってみたが、彩は花吹の手を離して息をついた。


「……言えないよ」

「なんで」

「あんた、大事に育てられてんでしょ。留学行かせてもらえるとか、相当じゃん。そういう、親が大事につけた名前を、あたしなんかが軽々しく呼んじゃいけないと思う」

「子どもだなぁ」

「うるっさいな。どうせガキだよ」


 花吹を振り払おうとする彩を、両腕のなかに抱きしめる。


(あー、やっちまったな)


 でも仕方がない。もう離せない。


「彩」

「やめてよ……」

「俺がおまえの名前呼ぶたびに、どんな気持ちになるかわかる?」

「——知らない」


 花吹は、すこし身体を引いて彩の顔を見た。


「いろどり。あざやか。俺の音楽のすべて」

「は!?」

「才能も技術もない俺の演奏の、唯一の誇り。色彩感」

「どゆこと!?」

「つまり、好きな名前だと思ってる」


 彩は困惑して眉をしかめている。その表情が愛らしい。


「なあ。《ゆたか》は好き?」


 彩の頬が、今度は真っ赤になった。

 花吹はおもわず笑ってしまう。


「名前のことだよ。好きか嫌いか」

「べつに……」


 彩は言い淀んでから、何かを思い切ったように「良いと思う」と答えた。


「あんたそのものって感じ。色々持ってて……優しくて」

「誉め言葉?」

「嫌味に聞こえるんなら、耳鼻科に行ったほうがいいと思う」

「くっ……ははっ」


 楽しい。気分がいい。

 生意気で可愛い少女の耳に、「あや」と名を呼びくり返す。


「……まえに、歳下は守備範囲外って言ってたじゃん」

「そのはずなんだけどなぁ」


 おまえ歳サバ読んでるだろ、と言うと、後頭部をゲンコで殴られた。





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