16話 卒業の春(前編)
「多津、めずらしいもん飲んでんじゃん」
バンドリーダーの富武——通称トムに言われて、多津は顔をあげた。
「ああ、これ?」
多津は飲んでいるゼリーの表示を見た。
「タンパク質がいいって聞いたから」
「おまえ、最近自炊もしてんだって?」
「そう。卵焼きが作れるようになった。焦がしちゃうけど」
はにかみながら答えると、トムはニカッと八重歯をみせて笑う。
「おまえがそういう顔で笑えるようになって、嬉しいよ」
「いつも心配かけて、わるい」
「水くさいこと言うなって。お互い様だ」
お互い様、というのは、多津の顧問弁護士を紹介したことを言っているのだろう。
トムはコンビニの惣菜パンを開けながら、「名誉毀損系って、あんまり受けてくれる人いないじゃん」とぼやく。
「特にこんなマイナーバンドだとさ。だけどやっぱり、多津宗家の名前があると違うわ。助かります」
「お役に立てて何より」
多津が淡白に答えると、トムはにじり寄ってきた。
「で、進展は?」
「なんの?」
「とぼけんなよ。この艶福家」
多津の頬にカッと熱がのぼる。
「そんなんじゃ……」
「この期に及んでごまかすなよ。箏のこと以外興味なかったやつが、楽屋まで使って誕生祝いしたり、過去の炎上案件ひとつひとつ対応してったり、すでに別人だわ」
そうかな、と小声で応える多津に、トムは朗らかに言う。
「恋でヒトが変わるとこ、初めて見た」
「……もう勘弁してクダサイ」
「ちなみに言うと、音も変わってるから」
その言葉には、多津もトムと視線を合わせた。
耳の良さには定評のある男だ。
変わったというなら、どう変わったのか、知りたい。
「『技巧に走りすぎた薄氷の演奏』が、どう変わった?」
「おぉ、そんな評もあったっけか」
「まじめに」
トムは顎をさすりながら、はにかんで言う。
「弦で遊んでるみたいだよ。いい意味な」
「遊んでる?」
「ん。技術のうえに、さらに遊び心が上乗せされたってーの? なんか俺らまで童心に返って、やんちゃしたくなる」
——青田さん。今日は、なに聞く?
——浜辺のうた!
そうして繰り返した、音楽室での遊びを思い出す。
「ああ、そうか……」
過ごした時間も含めて、愛おしさでいっぱいになった。
「青田さんのおかげだな」
ひえー、とトムが作り声を出す。
「今の、おまえに憧れてる奴らに聞かせてやりたいよ」
「いないだろ」
「いるいる。俺、兼業で邦楽科の非常勤講師やってんだけど、おまえの演奏聞いて箏始めたってやつ、けっこういるよ」
多津が複雑な気持ちでため息をつくと、「自己評価低いのは相変わらずか」とトムが言う。
「はいはい、おまえと違って陰キャですよ」
「卑下すんのもそのへんにして、そろそろ許してやれば?」
「なにを」
「まえの音も、鋭利で硬質で、良かったよ」
(まえの音)
(青田さんに会うまえの、音)
初めて出会ったのは入学式の日だった。
あの頃は何もかもが鬱陶しくて、ぜんぶの音を、モヤモヤした気持ちの捌け口にしていた。
だから彼女が泣いてしまったのも、一瞬、自分のせいかと焦った。
——あんまり、きれいじゃない、かも。
どもりながら渡したハンカチを受け取って、彼女はなにが面白かったのか、ふふっと笑った。
(あのときからだ)
少しでも慰めになればと、できる限り弦をやさしく、まるい音が出るように爪弾いた。
何も知らない無垢な観客。
だから自分も無心に弾けた。
「……会いたいなぁ」
「惚気か。会いに行け」
「無理です。完全な僕の一方通行です」
せめて今ある訴訟は落ちつけてから、と呟く多津に、トムはニヤニヤと口の端をあげた。
「ヘタレんなよ。収録のときはあんな色っぽい音出しといて」
「え?」
「さくら変奏曲。あれは反則だな。強引にキスでもするような艶っぷりだった」
「——な……っ!」
多津は勢い余ってゼリー飲料を握り潰してしまった。中身が飛び出てシャツを汚す。
「うわっ!?」
「あの音でよく《一方通行》とか言えるもんだ」
「やめ——まだ学生だから!」
「もう卒業すんだろ」
あたふたと溢れたゼリーを拭う多津に、トムが軽い調子で続ける。
「卒業祝いの花束くらい、渡してもいいんじゃね」
「……トム。アフロやめてモテるようになったからって、調子乗るなよ」
「あっ俺の黒歴史! 言うなよ!」
「バラす、ぜったい流出させる……」
「おい! わかった、わるかったって!」
それならこうしよう、と、お詫びに提示された案は、アイデアマンのトムらしい内容だった。
「一考の価値がある」
「お気に召してなにより」
「動画編集よろしくお願いします」
「ほんっとおまえ、そーいうところだからな」
*
桜のつぼみはまだ固く、だけど風に春のにおいを感じる頃、沙夜はサッパリと髪を切ってショートにした。
首がスースーするけれど、気持ちいい。
今日で最後の制服に腕を通す。
セーラー衿を整えて、鏡のなかの自分を見る。
(今日は、卒業式)
泉さんが寝ぼけまなこで見送ってくれた。
「本当に、一緒に行かなくて大丈夫?」
「いいんです。彩は?」
「何か用事があるんですって」
「めずらしい」
「ねえ」
(行ってきますって、言いたかったのに)
ちょっとふてくされながらも学校へ向かった。
若葉やわらかな風をうけて自転車をこぐ。
校門まえには、写真を撮る親子の晴れ着姿が目にあざやかだ。
「げ、ほんとに来やがった」
花吹教諭がブラックスーツ姿で立っている。
「それ、卒業生に向かっていう言葉ですか?」
「心配してんだよ。大丈夫か」
「うーん」
沙夜は首を傾げて手を広げた。
三年前、入学式でのパニック発作を知っている泉さん、タカ兄、花吹の面々は、口を揃えて「やめておけ」と言っていた。
「昨日、彩が励ましてくれたから、大丈夫です。それに……」
今日は《お守り》もある。
スマホを両手で大切に取り出し、キープしてあるリンクをタップした。
「それ、見たのか」
花吹教諭の声には、かすかな配慮の色がある。
「トムのバンドのYouTubeだろ?」
「大丈夫です。限定公開にしてくださったみたいで」
再生がはじまると、花吹教諭も画面を覗き込んだ。
メジャーな卒業式のBGMに合わせて、子ども食堂の常連たちが顔を見せる。
『沙夜ちゃん、卒業おめでとー!』
『おねえちゃん、おめでとうございます』
『さやねえちゃんのオムライス、また食べたい!』
タカ兄、泉さん、そして——
『青田さん、ご卒業おめでとうございます』
彼がバンドのメンバーたちに囲まれながら、照れくさそうに、カメラからは視線を外して、口にした。
その伏せた睫毛が、ふわりとひらいて、おおきな瞳をこちらに向ける。
『レシピ……たくさん、ありがとう』
フレームの外から、卵焼きが出来るようになったそうでーす、と野次が入った。
一緒に見ていた花吹教諭が、「あいつ、律儀に作ってたのか」と感心する。
『えっと……泉さんから、聞きました。春からは都内の専門学校に行くって……』
演奏するときは饒舌な指さきが、今は寄る辺なく、くちびるの端に添えられている。
目もともだんだん赤くなってきて、沙夜は初めてこの動画を見たとき、たまらず布団のうえでゴロゴロしてしまった。
『青田さんのことを応援してます。がんばってください』
ぴょこんと下げられた頭には、相変わらずの寝ぐせ。
「はぁ〜可愛い……尊すぎませんか?」
「なんだそりゃ」
「推しに名指しで応援してもらえるとか……異次元」
「俺にはおまえの言ってることが異次元だよ」
花吹教諭は呆れたのか、ふうとため息をついて、沙夜を見下ろした。
「専門学校、二年制だって?」
「はい。資格取ったら、早く働けるようになりたくて」
ふいにおおきな手のひらが下りてきて、沙夜のつむじ辺りをくしゃくしゃと掻きまぜる。
「きっかけは多津だったかもしれないけど、結局は自分で、自分の進路を決めたんだ。おまえはえらい」
どんな祝辞よりも心に響く、真っ直ぐな言葉。
「ありがとう、ございます——」
この二人の教諭の、何気ない優しさが好きだ。
押しつけがましくない。
だけど心から案じて、こんな十代の戸惑いを軽々と包み込んでしまえる、二人の空気。
(先生たちみたいな大人になりたい)
そんな願いは、とても口には出せないけれど。
まだ進路もなにも考えられなかった頃の、鞄に押しこんだプリントを思い出した。
進路希望の回答欄。
罫線でつくられた虚無な箱。あのときは、そう思った。
でも違った。
何もないということは、なんでも乗せていけるということ。
虚無な箱ではなく、あれは自由なキャンパスだった。
——もう、大人は子どもを守ってやれない。だから、じぶんの生きる道をじぶんで歩くための武器が必要です。
(必要なのは、武器じゃなかった)
この胸のなかから湧きあがる、勇気の灯火。
それがどんなに頼りない、今すぐに吹き消されてしまいそうな炎でも、その熱は、たしかに心をあたためる。
たとえ大人が守ってくれなくても、応援してくれる人々はたくさんいる。
(私の居場所はちゃんとある)
そう思えることが、何より自分を強くしてくれる。
まだ世の中のことを全く知らないし、挫折の波はきっと何度もやってくる。
だけど居場所がある限り、何度でも立ち向かえる。
それこそが、生きていくために必要なもの。
「卒業証書、授与!」
沙夜は一番に名前を呼ばれ、立ちあがった。
*
ひと気のなくなった校門まえで、パーカー姿の彩が仁王立ちしている。
「今ごろは、たぶん式が始まった頃ですね」
「本当は列席したかったんだけど……」
「だめです! もうわりと有名人なんだから!」
彩が睨む先には、多津絃二。
仕立てのいいスーツに、数輪だけの、ちいさな花束を持っている。
春の青空のように淡い、ブルーの百合とカスミ草。
彩は花屋で「バラにしたらいいじゃないですか」と口を出したが、「それは恥ずかしすぎる」ともごもご反駁された。
(まぁ、そういうところが、らしいっちゃらしいよね)
心のなかで、今まさに式の最中であろう沙夜に、話しかける。
(なんとなくわかるよ。このひとを好きになったさーやの気持ち)
彩はスマホを取り出して、ワル巧み仲間にメッセージを送った。
『プランB、OK!』