15話 7歳の冬
すきま風が入り込む冬の公営住宅。
灰色の空は、昼間なのに薄暗い。
団地に住む小学生たちの、弾ける声を羨ましく聞きながら、7歳の沙夜は息をひそめた。
(おかあさん、またないてる)
スマホの液晶から片時も目を離さず、お酒を飲みながらタバコを吸って、その合間に動く指先が不気味で——だけど、そんな気持ちを伝える言葉を知らなかった。
(おとうさんがいたときは、こんなふうじゃなかったのに)
おぼろげな記憶、三人手をつないで歩いた公園の並木道。あたたかい手のひらにつかまって、ぶら下がっては遊んだ。
(おとうさん、もどってきて)
そう願いながら、望む人が戻らないことを知っている。
(だって、しろい《オコツ》になったんだもの)
(それから、おかあさんが、だんだんおこりっぽくなった)
酒を飲み、タバコを吸うようになった。
仕事に行くのは昼間ではなく夜になり、沙夜は母親といたいがために、小学校にも行かなくなった。
とつぜん、母親が長い髪のあいだから、沙夜を見つめた。
沙夜は身を強張らせる。
こういうときは怒られるか、泣かれるか、どちらかだ。
——……おかあさん?
おずおずと呼んだ沙夜の声に、母親はそろりと手を伸ばした。
——ごめんね。
沙夜は黙っている。
いつの間にか、今の、18歳の姿になっていた。
母親のつむじが見下ろせた。
——ふつうの《お母さん》になれなくて、ごめんね。
母の両手が沙夜の首にかかる。なにをされるのかはわからなくても、言い知れない恐怖が沙夜を襲った。虫という虫が背すじをざざっと駆け上がってくるような。
そして、首が絞められる。
——おかあさん、やめて。
苦しい中から必死に訴える言葉が届かない。
止められない。
頭がぼうっとして、なんだかどうでもよくなってくる。
——おか、さん……。
息をしようとしても、声にならないうめき声が出るだけ。
意識が沈んでいく。頭痛がする。
だけど遠くからかすかに、幽玄な音色が聞こえてくる。
聞き覚えのある曲。
(さくら、さくら……?)
箏の音に導かれて、暗い部屋を出た。
明るい方へ、明るい方へ。
さあや、と呼ぶ声がする。
(ああ、夢だったんだ)
(もどらなきゃ……)
「さーや!」
目を覚ますと、彩と泉さん二人の、心配そうに覗き込む顔が見えた。
「あ……ちゃん……?」
まだ息苦しい。首や胸をさすると、泉さんが沙夜のひたいに手をあてた。
「過呼吸、起こしかけてたわ」
はーっと深いため息に、よほど心配をかけたのだと知る。どこかに連絡するところだったのか、スマホを両手で持っていた。
「鍵開けといてもらって正解だった」
「さーや、こんなに元気なくなっちゃって……」
「あーちゃん、こそ」
沙夜はそっと、彩の頬に手のひらをあてた。
「こんな痩せて……」
「——いつもひとのことばっかり……!」
彩の細い、薄っぺらい手が、沙夜の手を意外なほどの力で握り返す。
そのあたたかさが、心にしみる。
(手を引いて、戻してくれる)
沙夜は、じぶんの冷えた心がじんわり暖かくなっていくのを感じた。
「ありがと、あーちゃん」
彩はふるふると首を振った。泉さんを振り返って頭を下げる。
「いきなり出ていって、ご迷惑をおかけしました」
「そうよ、心配してたんだから」
泉さんは苦笑して、それでもやさしい声で言う。
「沙夜ちゃん髪はベタベタだし、彩ちゃんの化粧はボロボロね。ひどいから二人まとめて洗ってきなさい」
タオルと着替え取ってくるわ、と部屋を出る背中を、沙夜は頼もしく見上げた。
*
昼間っからの長風呂許可令が出されたので、二人は大喜びで浴室に入った。
先に洗い終えた彩が、浴槽に腕をもたせかけて首をちょいと傾げる。
「さーやはさぁ、いい身体してるよね」
ザバッとお湯を流した背後から、彩が言った。
驚いて、口の中にお湯が入り込む。
「げほっ、けほっ」
「肌つやつやでぇ、健康的でぇ」
「じろじろ見ないでクダサイ」
しっしっと浴槽を開けるように手を動かして、沙夜も湯に浸かる。
「はぁ、気持ちいー」
「あんたシャンプー二回してたじゃん。そんなに風呂入ってなかったの?」
「うーん、覚えてない」
「めずらしく病んじゃって」
「そうだね、ちょっと悪い夢、見てたし」
「なんの?」
「お母さんの」
それで察したのか、彩は口をつぐんだ。
沙夜は「なんかさ」と言葉を続ける。
モヤモヤした気持ちも、今なら表現できるような気がした。
「多津先生がいなくなっちゃって、急に、なんだろ……自分のためにはがんばれない、って思って」
「あー、なんか、わかるかも」
「お母さんには『いらない』認定されちゃったからさ」
ちょっと自虐ぎみだったかな、と彩の顔色を伺う。
視線を外したまま、ちゃんと耳をすませてくれていることがわかる。
「多津先生のためなら、がんばれると思った」
(繊細で傷つきやすくて)
(でも、私のこと、真っ直ぐ見てくれた)
「放っとくとすぐ食べなくなっちゃうからさ、いつでも美味しいご飯つくっていたいと思ったんだよね」
「あーあ、あたしが男なら絶対、さーやのことお嫁さんにするのに」
「しちゃう? してください」
「いやいや、鷹也さんを恋敵にまわすのはしんどい」
「……そうだね。って、え?」
「ん?」
「あーちゃん、なんで知ってるの?」
「あれ、ていうか何、気づいたの?」
再び顔を見合わせる。
「……タカ兄に、告られた」
「うおぉ、まじか!! やったな鷹也さん!」
「えっ、あーちゃん知ってたの? タカ兄の気持ち!」
彩は、しまった、という表情で舌を出したが、悪びれずに言った。
「泉さんも子どもたちも、だいたい知ってるよ」
「うそぉー」
「ほんと。気づいてなかったのさーやくらいだよ」
「うわぁ鈍すぎ……」
「そ、鈍すぎ。ようやくわかったか」
沙夜はたまらなくなって、湯船に顔をつけた。
呼気がぶくぶくと泡になっていく。
「さーや、息してる?」
「ぷはっ」
「なんの修行だよ」
「うーん、自分を見つめる修行……」
「ガチだった」
笑う彩に、沙夜は自分の気持ちをゆっくりと話す。
「タカ兄には感謝してるし、大好きだよ。でもそれは泉さんも、あーちゃんも一緒なの」
「……さーやは、たづセンセのために、がんばりたかったんだね」
「うん、そう」
《がんばりたかった》。過去形だ。
初夏のコンサートで感じた気配、悪寒の正体は、それだった。
ずっとそばに居てくれた人の、様子が変わってどんどん遠くに行ってしまう既視感。
母親が変わっていく、あの頃と一緒だった。
「だから、先生が箏楽師に戻るって聞いたとき、まるで『もういらない』って言われたみたいでさ」
彩がうなずいて、深くため息をついた。
「わかるよー。何も知らない人はさ、簡単に『自分のためにがんばれ』とか言ってくるじゃん」
「それ施設の人がよく言ってた」
「だけど、あたしにその価値ないでしょって思う」
「そうなんだよね。一回捨てられてるんだもん」
しかもいちばん捨てられたくなかった人に。
「それな!」
彩も共感してくれることが嬉しい。
「親ですら大事にしてくれなかった自分のために、どーやってがんばれっつー話よ」
「あーちゃんは、ああいうお父さんのこと見離さずに、お金稼いでえらいよ」
「いや、えらくなかった。たぶんまだ期待してたんだわ、どっかで」
「期待してたんですか」
「やっぱ親だしね」
二人は顔を見合わせて笑った。
「なに、この会話」
「女子高生の会話じゃない」
「はあ、人生しんどいね」
「うける」
*
浴室できゃあきゃあと話す声が、脱衣所の外まで聞こえる。
泉は廊下の壁にもたれて、天井を仰いだ。
(若者のほうが、たくましいわ)
泉の手には古びた封筒が握られている。
その表書きは弱々しい筆致で「沙夜へ」とある。
(これを渡す日は、そう遠くないのかもね)
泉はポケットからスマホを取り出して、画像一覧をスクロールする。
その中に保存された、一枚のプリクラ写真。
古い友人——沙夜の母親と一緒に撮った、若き日の思い出にしばらく浸る。
それぞれ結婚してから疎遠になったとはいえ、同じ市内にいながら、その苦しみを知ることができなかった。
(あえて知ろうとしなかったのかもしれない)
泉自身、離婚と非営利団体の立ち上げが重なって、大変な頃だった。
「言い訳には、ならないんだけどさ」
プリクラの中で意気揚々としている彼女に向かって、話しかける。
すると、スマホの着信通知が鳴った。
液晶の表示に《多津さん》と出る。
「はい」
『彼女、落ち着きましたか?』
「ええ、なんとか」
『……よかった』
心から安堵した声。
泉も気がゆるんで、おどけて返す。
「まさか、通話口でお箏弾き始めるとは思いませんでした」
『すみません、とっさに——収録中で』
スタジオに居たもので、と恥ずかしそうな応えが来る。
『《さくら変奏曲》を練習していたんです』
「お仕事は順調そうですね」
『……そうでもありません。一度レッテルを貼られると、なかなか……』
「信用回復は難しいですか」
『はい。でも、さっき鷹也くんからの檄を受け取ったので』
「ああ、花吹先生経由で?」
『おまえ出遅れてるぞって、焚き付けられました』
泉が笑うと、多津も笑った。
「花吹先生こそ、ひとのこと言えないでしょうに」
『何かありましたか?』
「いえ、こちらの話」
おっと、と思って自分の口を塞ぐ。
「多津先生ならすぐ、周りの見方もお変わりになると思います」
『だといいのですが……。どちらにしろ、僕は自分に出来ることを地道に重ねていくだけです』
「そうですねぇ。私も、行政との折衝やら何やら、もう少しがんばらないと」
『ご無理なさらず』
「はい。多津先生も」
それだけ言えば互いに通じる。
泉は液晶の通話終了をタップした。
(多津先生とは同志のようだわ)
闘い続けている。
容赦なく傷つけてくる色々なものと向き合って、居場所を勝ち取るための闘い。
そんなことを周りに言えば《狂っている》と思われかねない。
もっと楽に生きればいいのに。
がんばらなくても生きていける。
真面目すぎるよ。
ありふれた無責任な励ましに、表面だけで感謝することはあっても、この闘いの厳しさを分かち合える相手は少ない。
(失うものがなかった頃とはちがう)
惰性に流されるままでは、守れないものがある。
泉は胸いっぱいに空気を吸い込んで、一気に吐いた。
「よっしゃ!」
両頬をパチンと叩いて、厨房に向かった。