14話 18歳の冬
早朝の薄暗い階段下から、鷹也は四角い盆を持って二階に上がる。
盆のうえには、湯冷ましの入ったグラスと、鍋敷きに置かれた小さい土鍋。
——鷹也くん。
静けさの中、階段を踏みしめる音が妙に響く。
——ぼくは、青田さんが好きなんだ。
それを「ただのロリコンじゃん」と嗤うことができなかったのは、沙夜を本気で想っていることが伝わったからだ。
(正直言って、そこまでとは思わなかった)
それに、沙夜も。
二学期が終わるまではいつも通りに見えたが、冬休みの繁忙期を終えた途端、熱を出して寝込んだ。
食堂が年末年始の休みに入ったこともあって、市販薬とポカリだけを持ちこんで、部屋に閉じこもっている。
「沙夜、入るぞ」
鷹也の母が「ドアの鍵は開けておきなさい」と言ったことを律儀に守って隙間を残した扉。その訳を後から訊ねると、「もしもの時に備えて」と言っていた。
もしもの時、とは、どういう時だろうか。
ノックして鷹也は室内に入った。
(まだ寝てる……よな)
沙夜は眉間にシワを寄せて、何かうわごとを呟いている。
「——さ、ん……」
「ん?」
「か、さん……」
《お母さん》。
聞き取った言葉に、鷹也は喉が詰まった。
沙夜の母親の夢を見ているのだろうか。
「沙夜。起きろ」
「ん……?」
「水持って来た」
「た、か、に……」
「ちょっと、我慢しろよ」
鷹也は沙夜の肩を抱き起こして、口もとにグラスを運んでやった。
カサカサのくちびるが不器用に縁をつかまえて、湯冷ましを飲む。
ゆっくり半分ほどまで飲むと、沙夜は首を振った。
「も、いい」
「食欲は? 粥つくったけど」
「いらない」
沙夜は心底気だるそうに、布団のなかに潜りこむ。
生気のない顔つき。ただ息をしているだけの生き物。
まるで、昔の沙夜に戻ってしまったみたいだ。
「なぁ……」
鷹也は途方に暮れて、とうとう口火を切った。
「アイツのこと、そんなに好きだったのかよ」
自分で口にすると、余計に胸に刺さった。
「オレがおまえのいちばん近くにいると思ってたんだけど、違ったのか?」
病人を責めるようなことをしてみっともないと、我ながら思う。
守りたいと言いながら傷つけている。そんな矛盾に今さら気づいた。
布団からのぞく沙夜の顔が、ゆっくりと鷹也を見上げた。
「オレは、沙夜のことが——」
自分の喉から出たとは思えない、何かを細口に入れて絞りだすような声。沙夜の誕生祝いに作ったホールケーキを思い出す。
クリームで成形するときの、あの感覚に似ている。
息をとめ狙いを定めて、絞りだす。
「好きだ」
声がかすれた。
口に出した途端、この気持ちが通うことはないのだと、わかった。
そんな感覚も初めて知った。
「——タカ兄の、ことは……」
大好きだよ、と、沙夜が言う。
その声は小さくて、ささやきのようだった。だけど鷹也の自責を止めるようにやさしく響く。
食堂の子どもたちに向けられる、その声が店じゅうに届くのを、厨房で聞いている時間が好きだった。
「オレのほうが、もっと好きだよ。おまえとは違う意味で」
沙夜は小さく頷いた。
わかった、ということだろうか。
「悪かった。おまえとアイツのこと、引き離すような真似して」
「……ん」
「沙夜のことを守りたかった」
「うん」
「でも、おまえがこんなになるほど、アイツのことが好きだって、知らなかった」
喉が詰まって、鼻が詰まる。
行き場をなくした何かが、目の端からあふれ出た。
「オレじゃダメかよ」
こぼれた涙を情けなく思いながら、Tシャツの袖で拭う。
そんな自分から目を逸らさない沙夜のことを、また好きだと思った。
「タカ兄」
「……なんだよ」
「お粥、食べる」
沙夜が身体を起こすのを手伝って、盆を布団の上に乗せてやる。
「いただきます」
それが沙夜のやさしさだとわからないほど、鈍くはない。鷹也はかすかに笑った。
(あーあ)
(おまえのほうが、よっぽど大人だな)
「……後で、下げに来るから」
匙が動くのを見届けて部屋を出る。階段を下り、その最下段で鷹也は座り込んだ。
心臓が遅れて、ドクドクと打ち始めた。
(たぶん、無理だろうな)
一緒にいた時間の長さがあったから、沙夜が今考えているだろうことも、手に取るようにわかる。
鷹也は堪らなくなって、ガシガシと髪を掻いた。
「はぁ……」
諦めるには早い会話。だけど気持ちを知るには十分だった。
悔しさが募る。
どうしてオレじゃないんだろう。
理性と感情が混ぜこぜになって分離する。混ざってこなれたように見えても、まだ納得はできていない。
(それに《賭け》のこともある)
厨房に入ると、母親がカウンターで話していた。
気安い相手なのか、スマホのスピーカーから声が聞こえた。
『——そういう訳で、保護お願いします』
「簡単に言われますけど、犬猫じゃないんだから……」
『でも、放っておけないでしょう』
相手が笑う。どうやら花吹の声だ。
「まったく——嫌な相手」
罵っているにも関わらず、顔は嬉しそうだ。
母親は息子に気づいて「あ、鷹也」と声をあげた。
「彩ちゃん、見つかったって」
「どこで?」
「さあ。道端で保護したらしいけど」
『とにかく、頼みますよ。俺ができることは、ここまでなんで』
花吹の突き放したような言い方に、「なんでだよ」と割って入る。
『おお、食堂男子じゃねえか。ちょうどいい。青田のことばっか見てないで、彩さんにも目ぇ向けてみろ』
「ばっ」
『おまえの周り、なんでそんな良い女ばっかりなんだ。ライトノベルかよ』
「——っかじゃねえの!!」
デリケートも何もない、何重にも失礼で地雷踏みまくりの提案に、鷹也は反射で怒号を張った。
『なんで、真面目な話だよ。あの子を保護しようと思ったら、まず父親から離さなきゃならんだろ』
そこが難しいのよね、と泉もうなずく。
「あの親子は金銭も暴力も依存し合ってるから、沙夜ちゃんみたいな保護はできないのよ。できたとして、家出したときに匿ってやるくらいが関の山」
『それだけでもかまいません。ヘタな家出先見つけられても困ります』
「でもねえ……」
母親の視線の先には、電卓と何枚かの領収書。
「ウチだって支援金はあるけど、沙夜ちゃん一人食べさせるので精いっぱいなんです。正直な話、彩ちゃんを何年も匿う余裕はありません。残念だけど」
ここまで来れば鷹也にも話がわかる。
つまり《法的に彩を保護することが難しい》ということだ。
「年齢的にも、後見人はもう立てられないしね」
『そうですね。養子縁組か、それこそ結婚でもしなきゃ離せませんよ。だから真面目な話をすると——』
「やっぱ鷹也の出番かぁ」
豪快に膝を打つ母親の暴言に、鷹也は鼻白む。
「母さんまで何言ってんだよ……」
「やだ、冗談よぉ」
けらけらと笑って、泉は含み顔でスマホに口を近づけた。
「でもね、先生。そんなに気になるなら、いっそ貴方が保護なさいませ。つまり《法的》に」
『……うーん、あのじゃじゃ馬を乗りこなす勇気はねえなぁ』
「あら、案外と意気地なし」
母親もズバズバ言うタイプだ。
正直この二人の会話は、聞いていると冷や汗が出る。
「拾ったなら、最後まで面倒を見るとしたものでしょう。それに貴方みたいな風来坊、彩ちゃんみたいにしっかりした子じゃないと縄はつけられないわ」
『——ん? それ、俺がじゃじゃ馬ポジションですか?』
「馬にしろ騎手にしろ、主導は常に雌が持つものよ」
そういう母の顔には、なんというか、妙齢の女性ならではの貫禄がある。
『はいはい、所詮男は亜種ですよ』
「わかればよろしい」
花吹の勢いが弱まったところで、ようやく鷹也は思い出す。
「なぁ、多津のことだけど」
『おう』
「今でも連絡取ってる?」
『まぁ……そうだなぁ。十回送って一回返信来るって程度かな』
「じゃあ言っといてください」
これは牽制じゃない。直球勝負だ。
「オレ、今さっき、沙夜に告白しました。だけど賭けはまだ有効だから、ちゃんとそっちが落ち着くまで待つ、って」
『あ? なんのことだ?』
「いいんだよ。そう言ってくれれば通じるから」
切っていい? と母親を振り返る。
その表情は、なんだか眩しそうで、嬉しいとも寂しいとも言えないような、だけど何か感じるものがあったのか、そんな——ほほ笑みを浮かべていた。
「じゃあ、花吹さん。良いお年を」
『良いお年を』
大晦日の朝、扉を叩く音が聞こえる。
遠慮がちに小さく、だけど確かな決意を持ってガラス戸を叩き、SOSを出している。
それに応えるのがこの《子ども食堂いずみ》だ。
鷹也と泉は顔を見合わせ、ひとりの家出少女を——ただし、そんな簡単な言葉では表せないほど傷ついた彼女を——迎えに出た。