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番外編② 〜 Mélodie et Harmonie 〜

 彩は、いま飲んだばかりの紅茶を吐いてしまいそうな気がして、口に手をあてた。


「大丈夫か」


 差し出されたハンカチを見ると、アイロンを当てられた真っ直ぐな折り目に、清潔な石けんの香り。

 それが彩を安心させた。

 自分の家には絶対ないものだ。


「これ……誰が洗濯してるんですか」

「俺だよ」

「うっそだぁ」

「他に誰がいんだよ」

「そういうことしてくれる(ひと)がいるんでしょ」

「いてもいなくても、自分のハンカチくらい自分で面倒見るだろ」


 彩は目を瞬いた。


(そういうものなの?)


 今まで彩が父親から言われてきたこととは違う。


「だって……うちのオヤジは、そんなこと、しないよ」

「オヤジってなんだ。父親か?」

「洗濯だって、料理だって、あたしに押しつけてばっかりで」


 言葉は途切れとぎれ、涙は絶え間なく、ほとほとと溢れている。


(きっとファンデも崩れて、ひどいカオになってるはず)


 こんなときでさえ——自分の話をするときでさえ、見た目が気になって仕方がない。

 相手に不快を与えていないだろうか。

 みすぼらしく見えないか。

 そんなことが脳にこびりついたように離れない。


「うん、それで?」


 彩がハンカチを受け取らなかったからか、花吹が直接腕を伸ばし、涙を拭ってくれた。

 やわらかい布地が頬にふれ、すぐそばにシャツの袖口が見えた。カフスボタンも、きちんと留められている。


「パチスロばっかやってるくせに、あたしに稼ぐことまで無理やりさせて」


 花吹の動きが止まった。


「——それは……つまり」

「うん、まあ、想像におまかせします」


 くそ、と花吹が悪態をつく。


「働いてんのはあの店だけか? 裏引きもしてんのか?」

「あんまり訊かないで。自分でもクソだと思ってるから」

「ちがう、それはおまえの父親だ」


 ふと見上げると、花吹のまなざしが、痛ましそうに歪められていた。それでさえ自分のせいなのかと、邪推をしてしまう。

 彩はとっさに謝ろうとした。


「ごめ——」

「おまえは真っ当だよ」


 予想外の言葉に、「うそ」と、声がふるえて出た。


「だってこんな、汚すぎて……」

「何がだ。べつに肥溜めに突っ込んだ訳でもあるまいし」

「コエダメってなに?」

「うわ、通じねえのかよ」


 スマホで調べろ、と言う花吹の通りに、その単語を検索してみる。


「え……? これ、江戸時代?」

「いやいや、現代でも普通にあるから」

「畑の肥料にするって……おじいちゃんじゃん!」

「おまえ、いま全国の農家の皆さまを敵にまわしたぞ」


 まさかクソ繋がりで笑わされるとは思わなかった。

 なんだかばかみたい。可笑しくてたまらない。

 けらけらと笑い声をたてる彩に、花吹が言う。


「可愛いな」


 彩の喉がむせた。


「ごほっ、なに、」

「なんか雰囲気。可愛い」


 二回言われた。

 彩は一気に頬が熱くなって、どう反応していいのか、困ってしまった。


(いつもお客さんたちが言うのは、ああいう席の挨拶みたいなものだった)


 一度も素直に受け取れたことがない。だって自分の醜さはわかっている。

 でもだからといって、花吹の言葉を素直に受け取れるかというと——


「この酔っ払い……」


 そんな返ししか、できない。

 彩が気まずく黙っていると、花吹が歌うように言った。


「《On ne voit bien qu’avec le coeur.》」


 驚いてぽかんとする彩に「酔っ払いは歌うもんだろ」と花吹が笑う。


「《L’essentiel est invisible pour les yeux.》」

「どういう意味……?」

「ほんとうに大切なものは目に見えないってこと」


 花吹はテーブルの端から紙ナプキンを取って、手持ちのボールペンで何かを描き始めた。

 彩は黙ってそれを見つめる。

 出来上がったものは——たぶん、帽子。ツバが広くて頭の真ん中がへこんでいる。


(なんか、ひと昔まえに流行った……なんだっけ、アレ)


「テンガロン・ハット!」

「なんだそりゃ」

「え、ちがうの?」

「いやまぁ、違わなくはないけど……要は、帽子だよな?」

「そう、あのカウボーイが被ってるみたいな」

「それそれ」


 花吹はその帽子をちょんちょんとペン先でつついて、「だけど実はこれ、帽子じゃあないんだよ」と言う。

 もったいぶってみせるのが憎らしいけれど、なんだか楽しくなってきた。


「待って、当てるから」

「ほう」

「あの、ほら、アレ」

「アレじゃわかんねえよ」

「楽器のさ、バイオリン? を半分に切ったやつ!」


 花吹が吹き出した。


「ひでえ。バイオリン職人が泣く」

「ちがうの?」

「切ったという意味では、いい線いってる」

「うーん、じゃあ、洋梨半分をまた切ったやつ? ちょっと串刺しになってるけど」

「あー、そう見えるっちゃあ見えるな」


 ハイ時間切れー、と花吹が言うので、彩は口を尖らせた。制限時間があるなんて聞いていない。


「これな、ヘビなんだわ」

「ヘビ!?」

「そう」


 花吹は絵のなかに、何か……4本脚か、5本脚のものを書き加えた。それはちょうど、帽子の頭部のように見えたところに、おさまるように描かれている。


「これは、ゾウを飲み込んだヘビの絵」

「ゾウが下手すぎない!?」

「うるせえよ」


 花吹は咳払いをして、話し始めてくれた。


「これは『星の王子さま』って本に出てくる挿絵(さしえ)なんだよ。原作では『ウワバミ』って書かれてんだけど——」


 そして語られる、ちいさな王子さまの話。

 彼は友だちを探してやって来たこと。

 入り日を見るのが好きなこと。

 ちょっと高慢な一本のバラを愛していること。


(声が、心地いい)


 彩は聞きながら、そんなことに気がついた。

 酔っ払いは歌いたがるし、語りたがる。

 花吹もその例に洩れないが、自分を誇示するためではなく、美しい世界地図を広げるように話してくれる。

 その声量が心地いい。

 やわらかに包み込むような、低くて安心できる声。



 *



 いつの間にか眠っていた。

 肩には花吹のコートがかけられ、窓の外には薄く明け方のもやがかかっている。

 花吹も寝ていたのか、彩に気がついて、あくびをしながら言った。


「腹へった。モーニング頼むけど、おまえも食う?」


 久々の食欲を感じて、彩はちいさくうなずいた。



 朝食を終えて店を出る。

 冬の朝はびっくりするほど寒くて(すが)しくて、昨夜の酒と煙のにおいを消してくれる。

 伸びをしている花吹の背中に、精いっぱいの気持ちを伝える。


「……あの、ごちそうさま、でした」


 花吹は振り返って、小脇に下げていた厚手のショールを彩の肩にふわりとかけた。


「そんな脚出してたら風邪ひくぞ」


 言われて無意識にスカートを下に引っ張る。

 ゴツゴツでブヨブヨの両脚が、朝日にあてられてどんなふうに見えるのか恐ろしい。

 一方、花吹は彩の困惑もつゆ知らず、ショールをくるくると巻いて彩の口もとまで埋もれさせた。


「おまえがややこしい問題を抱えてることはわかったよ。だけど、頼る相手を間違えんな」


 花吹は真摯な瞳で「一旦、泉さんのとこに戻れ」と言った。


「無理だよ」

「なんで」

「だって、もし店の在庫とか、食べちゃったら——」


 業務用の冷蔵庫から、ハムや作り置きの常備菜、手当たり次第に暴食する自分を想像して、彩はぞっとした。

 泉さんは、沙夜は、どんな目で見るだろうか。


「できないよ……幻滅されたくない」


 花吹は「それはおまえが、あの食堂の人たちを大事に思ってるからだろ」と応えた。


「大事に思ってるから迷惑をかけたくない。それもわかる。だけどそんなのはお互いさまだよ」

「お互いさま……?」

「おまえが思うほど青田は気丈じゃない。逆に支えてやんな」

「あんたの言ってること、よくわかんない」

「一から十まで説明する義理はないね」


 とりあえず、と花吹はショールの端をつかまえて屈み、目線を少し彩に合わせた。


「父親のとこには戻るな」

「……ん」


 そんなことができるだろうか。

 今まで何度も家出しては帰って、殴られて。


(あたしはあの男の所有物だ。きっとどっちかが死ぬまで)


「あと、これは返してくれ。次に俺が食堂行くとき」

「は?」


 花吹の口もとが、ニヤッと端をあげた。


「言っとくけど、俺は泉さんの連絡先を知ってる。おまえがどうしたかなんて情報筒抜けだからな」

「脅し!?」

「そう、脅し。もしおまえがいなかったら、これからもあのスナックに通い続けるし、金欠とアル中になって俺の人生お終いだ」


 そこまで言うか。

 彩は呆れるやら笑えるやらで、肩の力が抜けてしまった。


(変なひと)


 ふざけているのか、真面目なのかわからない。


「ありがと、センセ」

「げ、やめろよ。おまえが教え子だったらハゲるわ」

「いいじゃん、ハゲても。あんたならきっと似合うよ」


(——カッコいいから)


 飲み込んだ言葉に動揺する。

 それはうっかりすると(こぼ)れてしまいそうなくらい、自然に心の中から湧き出た気持ちだった。





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