番外編① 〜 Mélodie et Harmonie 〜 ※
飲酒描写があります。
公務員というものは、未だに古い因習がある。
忘年会もそのひとつだし、飲みの席に《そういう職業》の女性が着くこともある。
花吹自身は一人で飲みたいタイプだ。
気心知れた相手と上手い酒があれば楽しく飲める。
ただし、壮年を過ぎた男性たち——仕事に忙殺されて容姿も衰え、若い女性たちから見向きもされなくなった——哀れな子羊たちは、美しい毛並みの女狼にチヤホヤされて飲みたいらしい。
「花吹先生、二次会! 行くよ!」
「いやですよ、もう帰ります」
「おねがいっ!」
数人の同僚たちにガッシリ掴まれて、酒臭い息がかかってくる。
「花吹先生は強制参加です!」
「だって花吹君がいるだけで、女の子たちの態度が全然ちがうんだもん!」
(だもんって、オイオイ……)
ほんとのハラスメントはこういうのだぞ、と青田に言ってやりたい。
しかし、職場というものは持ちつ持たれつである。
自分が助けてもらう場面も多々あるしなぁ、と思いながら、花吹は大人しく連行された。
教頭行きつけのスナックだという気楽さもあった。
(まぁ、たまには上司の顔を立てましょうかね)
酔った頭でそう判断したことを、花吹は数十分後に後悔する。
*
「こんにちはぁ、ユナです〜」
「センセ、ずいぶんご無沙汰でしたやん」
昭和の雰囲気とバブルの残り香ただようスナックだ。
教頭ご贔屓の店なので、同僚にはキープボトルを持つ常連もいる。
「わぁ、花吹センセ、来てくれはったん!」教頭の隣に座ったママが、嬉しそうに手を叩く。「あんたら、今日は役得やで!」
ママが後ろを振り返ると、隅の一角でスマホをいじっていた三、四人の女性たちが立ち上がった。
「やばい、イケメン!」
「モデルさんかと思いました〜」
次々と名刺が渡されるなか、奥の女性は「このあと指名入ってるので」と再びスマホをタップし始めた。
なんとなくその女性が気になって、花吹は視線を残す。
巻いた黒髪のボブに、黒いラメのドレス、シースルーの長袖にミニ丈。ついつい男のサガで値踏みしてしまう。
(雰囲気、わりと好み)
だけど可哀想なくらい、腕も脚も痩せこけている。
(……苦労してんのかな)
花吹の思索を押しのけるように、女性たちが賑やかす。
「ご一緒してもいいですかぁ」
「ああ、どうぞ。俺、吸っていいかな」
「はい! お酒、何にされます?」
「ん、ブランデーある?」
「えっとぉ、ママぁ、今お店に何ありましたっけ」
「なんでもいいよ。あるので適当に」
「えっ、やさしい〜」
花吹君ばっかり贔屓しないでよ、と冗談めかして同僚たちが言う。
店のママさんが誘うままカラオケが始まり、酔った大人たちが歌い始める。
少し離れた場所に移動して、アイコスをふかす。
(一杯付き合ったら帰るかな)
花吹が腕時計を見たそのとき、玄関がカランカランとひらく。
すでに出来上がった風の会社員が、「アヤちゃ〜ん、来たよお」と猫撫で声を出している。
(——アヤ)
聞き覚えのある名前と、見覚えのある顔が一致するまでに、少しのタイムラグがあった。
振り返ると、先ほど「指名がある」と言っていた女性が、おしぼりを渡しに行っている。
(ん? あれ……見間違い?)
男性の腕を組んで、「ママ、ご案内しまーす」とハイヒールを鳴らし行き過ぎた女性は——たしか、教え子と同い年——花吹の頭から血の気が引く。
(オイオイオイオイ)
ジョジョかよ、と自分にツッコミながら注意深く観察する。
しかし、やっぱりどう見ても。
(彩じゃねえか!)
気もそぞろに相槌を打つあいだ、隣りに座る女性が次々入れ替わっていく。
一杯だけで終わるはずが、どうしてこうなってしまったのか。
酒は二杯、三杯と進み、とうとうカラオケまで歌う羽目になってしまった。
彩のほうは、よほど太い客なのか、かれこれ一時間半はべったりである。途中にママさんが挨拶に行ったり、ヘルプが着いたりもしているが、客は彩を離そうとしない。
それどころか、アフターの交渉までしている。
正直、心配で身がもたない。
(あーっクソッ!)
花吹はお客がトイレに立った隙を見計らって、彩の行く手を塞いだ。
彩は静かに目を伏せて「お手洗いでしたら、あちらです」と大人びた声で言う。
夏のコンサートで多津にきゃあきゃあ言っていたときとは大違いだ。
「彩さん、源氏名もアヤなの」
リップ付きのくちびるが悔しそうに歪む。
「アンタもこんなところ来るんだ」
「付き合いだよ」
「可愛い女の子に囲まれて、マンザラでもない顔してたじゃん」
「それはおまえが——」
背後のトイレで水を流す音が聞こえた。彩は慌てて新しいおしぼりを取りに行く。
これでは立ち話もできやしない。
彩と客の後ろ姿を眺めながら、花吹はポリポリと頭を掻いた。
(仕方ねえ。業に入っては業に従えっていうしな)
こういう場所での話のつけ方は決まっている。
「あの、ママさん。ちょっと頼みがあるんですけど」
「あらぁ、めずらし」
「黒いドレスの彼女、場内指名できますか?」
ママはちょっと難しい顔をして、「あのお客さん、相当アヤちゃんに入れ込んではるしなぁ……」と、整った指先を頬に添える。
「ちょっと話せるだけでもいいんですけど」
「せやったら、アヤちゃん相手にボトル入れてくださったら……」
「あっちのお客様にも入れましょうか」
「まあぁ、ややわぁ、太っ腹! そこまでして頂いたら、場内指名も断れしまへん」
「じゃあ決まりですね。いま俺が飲んでる銘柄、入れてください」
「えらいおおきに。でも、なんでそこまで?」
問われて花吹は言い淀む。
彼女の年齢を、この店の人々は知っているのだろうか。
(はーあ、いらんことに首突っ込んじまったなぁ)
花吹のボトルがコールされ、店内が盛り上がる。
冷やかしてくる同僚は適当にいなして、彩の移動を待った。
「——ボトル入れてくださって、ありがとうございました」
彩が渋々といった様子で隣りに座る。
「こうでもしなきゃ、話せねえだろ」
「別に、ほっといて良かったのに」
「ばかやろ、おまえ、アフター行きてえのか」
「それは大事なお客さんだし……」
「男の立場から言うと、あれは完全に下心アリアリの顔だな」
彩はちょっと黙って、グラスのマドラーをくるくると回した。
「なあ、おまえ、どうしてこんなとこで働いてんのかしらねえけど、今日はとにかく避けろ。最悪、酒で潰されてホテルに連れ込まれるぞ」
花吹はテーブルの下で、走り書きのメモを彩の手に握らせた。
「……なんで、こんなこと」
「見てられるかよ。俺だって本当はもっと早く帰りたかったんだ」
「そうなの?」
驚いて見上げてくる彩の顔に、なんだかムズムズして、目線を逸らした。
すると——
「げ、おまえの客がこっち見てる」
あちらも追加でボトルを入れそうな勢いだ。
「いいか、俺は先に出てる。男には生理中で体調悪いとでも言っとけ」
「ばっ——」
真っ赤になった彩をかまわず、花吹は握った手に力を込める。
「いいか、店がはけたら絶対来い。流されんじゃねーぞ」
*
深夜営業のファミレスで待っていると、日付が変わった頃に、彩がやってきた。
ドレスの上にカジュアルなパーカーを羽織っているのが、妙にちぐはくで、花吹の良識を鈍く刺す。
「腹、減ってる?」
「あんまり」
「ならドリンクバーだな。嫌いなものとか、アレルギーはあるか」
「……ふつー、好きなものをきくんじゃないの?」
「それを聞くと、いつまで経っても決まらねえだろ」
「……遊び慣れてそう」
「ざけんな。ステイ先で仕込まれたんだよ」
彩はしばらく黙ってから、「あったかい紅茶なら飲める」と答えた。
花吹は自分のドリンクバーのお代わりと一緒に取りに行く。
「さて」
二人分の飲み物を置いて、花吹は頬杖をつく。
「まず確認したいんだけど、あの店でおまえ、自分の年齢サバ読んでるよな?」
彩は紅茶を口にして、答えない。
「アルコール飲んでんのか?」
「……あたしに説教するつもりなら、帰るけど」
「しねえよ。問い詰めるつもりもない。いち社会人として訊いただけだ」
花吹もホットコーヒーを飲んだ。
「……あの客、よく撒けたな」
「あんたが場内指名なんかするから、大変だったんだよ。泥酔して喚き散らして迷惑だったから、ママとお客さんたち——あんたの職場の人たちが——なだめて、タクシーに押し込んでくれた」
「そうか」
「同僚さん、いい人たちだね」
「伝えとくよ」
彩はカップをソーサーに置いて、息をついた。
「それで? あんたのアフターに付き合えばいいの?」
「ばか言うなよ。歳下は守備範囲外だ」
「じゃあ何、いずみママの真似でもして、ボランティアごっこ?」
「ちがう」
花吹もカップを置いた。彩の顔を真正面から見つめる。
「ほっとけなかったんだよ」
「ほっといてって言ったよね」
「おまえ、素直じゃねえな。青田の隣りにいたときは、あんなに楽しそうに笑ってたのに」
仏頂面だった表情に、急に感情があらわれた。
「……沙夜には、言わないで」
彩のリップはもう取れて、蒼白なくちびるがあらわになっている。
「あの子に幻滅されたら、もうほんとに、生きていけない」
花吹の目の前に座る、大人とも少女とも形容し難いいきものは、氷が脆く崩れるように、涙を流した。