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13話 18歳の秋

 まだ暑気の残る音楽室。

 沙夜はぼんやりと、ゴザも筝弦もない——いつもやさしく笑いかけてくれた人もいない——空っぽのスペースを眺めた。


「よ、青田」


 バインダーで頭を小突かれて、その相手を見あげる。

 花吹教諭だ。


「なんだ、覇気のないカオしてんなぁ」

「……タカ兄の言ったこと、本当だったんだな、と思って」

「話、聞いたんだっけか」


 黙ってうなずく。

 あまりに勝手なおとこたちの会合を知ったのは、彩の様子の急変からだった。


「あーちゃんの過食嘔吐が再発して、家に戻っちゃって」


 また殴られるかもしれないのに。

 彩は「こんな状態でみんなといるのは申し訳ないから」と言って、静止を振り切り出ていった。


「タカ兄の様子もおかしいから、問いただしたら、ようやく、話してくれました。まとめサイトのことも、多津先生に、私と関わらないでくれって伝えたことも」


 口調に、少しずつ怒気がこもる。


「花吹先生も、どうして教えてくれなかったんですか」

「多津がそう決めたからだよ」


 花吹教諭はバインダーをピアノの上に放って、いつもの椅子に腰掛けた。前のめりで、膝のまえで両の指を組み、沙夜を見上げてくる。


「おまえは、どうする」

「どうって——」

「青田はどうしたい」


(どうしたい、なんて)

(そのまえに……)


「なにか言えるほど……多津先生のこと、まだ、知らないんです」


 最後はかすれ声になった。

 自分が知っているわずかな多津教諭は——いや、多津絃二という人は、非常勤講師で、箏楽師で、うつ病で——いったい、他にどんな顔を持っているのだろう。


「教えてください、先生のこと」


 知らずこぼれた涙のしずく。

 沙夜の顔近くに、ハンカチが差し出される。

 それと同時に、残酷な言葉も差し向けられる。


「おまえを傷つけたくない、と思って、多津は言わなかったんだよ」

「傷つくかどうかなんて、私が決めます」


 タカ兄にもそう言った。

 言い捨てて二階に逃げた。タカ兄は追っては来なかった。


「まあ、そうだよな」


 花吹は沙夜のとなり、窓の桟に腰を預けて、スマホをひらく。


「これ」

「なんのサイトですか?」

「全国邦楽器組合連合会。略して全邦連」

「ゼンホウレン……」


 花吹教諭はタップして、組織図のページを出した。


「ここに全国の組合が並んでるだろ。それを取りまとめる理事会ってのがある。この理事長が、多津のじいちゃん」

「えっ」

「——だったんだけどね」


 次にスマホが映したのは、集合写真というか、バーベキューをしているスナップ写真のようなものだった。


「これ、オレが音楽学校時代に、気の合う仲間と撮ったやつなんだけど——」


 枚数が多いのか、スクロールのペースが早い。


「学科の別なしに集まって、そこで多津と会った」


 スクロールの指が止まった。

 青空を背景に、キャンプをしているようだ。

 六人の男性が映っていて、多津の姿は難なく見つけられた。


「昔から変わらないんですね」

「ん、あいつ童顔だから。その隣りはアレだよ、こないだドラムやってたやつ」

「えっ、全然わかんない。髪型が——アフロ?」

「すげーだろ」


 花吹教諭が、ふいに少年のように笑った。


「トムって呼んでた。富武(とみたけ)っつーんだけど、まあ面倒見のいいヤツなんだよ。たぶんこんとき、多津は無理やり誘われてたな」


 沙夜の脳裏に学生時代の多津がよぎった。

 気だるそうに小声で断りながらも、あえなくアフロの陽キャに連行されてしまう様子。想像して、ちょっと可笑しくなってしまう。


「多津のじいちゃんが全邦連の理事長さまだったから、音楽やってる奴からしたら、チート級の才能と後ろ盾みたいなもんだよ。嫉妬を買って仲間はずれにされるのも当たり前だった」


 あいつも暗くて人見知りだからよ、レアキャラ扱いなわけ、それをトムが気長に声かけて——と、楽しげに紡がれる思い出話を、沙夜は黙って聞く。

 ふと、なつかしそうに話していた花吹が、声を落とした。


「このあと、多津の爺さまが亡くなったんだ」


 ふいに、多津教諭の声が胸のなかに反響する。


 ——あの……僕の祖父は、プロの箏楽師で、詩吟を趣味にしていたんだ。だから、古典とか歴史とか、ちいさい頃から興味があって……


 嬉しそうに、はにかみながら語られた記憶たち。

 沙夜は口を両手で覆った。


(きっと、おじいさんのことが大好きだった)


「それで途端に、調子崩したんだよ。跡目争いとか、理事会のゴタゴタとか、色んなものに多津は巻き込まれてた、らしい」


 オレはそのときフランスに留学中で、帰ってきてから知ったんだ、と花吹が言い添える。


「……弾けなくなっちゃったのは、この頃ですか?」

「いや、弾けてはいたけど——まあ俗に言う、スランプってやつだな」

「そんな、ひと言で片づけられるほど……」

「そう。甘くない」


 花吹は、どことも知れぬ場所を見つめながら、頭の後ろで手を組んだ。


「なんにでも、冬の時代ってのはある。何をやってもうまくいかない負の悪循環。ただ、あいつの場合、面倒だったのは、感動を売る職業だったってことだ」

「感動は……売るものですか?」

「おお、哲学的だな」


 まあその問いは、今は置いといて、と花吹は続ける。


「ちょっとミスったとか、ド忘れしちゃったとか、そういう失敗とは次元が違うんだ。一席何千円、下手すりゃ何万する、たった小一時間の演奏が、ある人にとっては一生に一度のものになるかもしれない。大切な人と隣り合って聞く、貴重なひとときかもしれない」


 プロとはそういうものだと、花吹の表情が語っている。


「明日への活力が欲しい人、演奏が終われば笑顔で会場を出て行くはずだった人々が、『こんなものを聞かされるぐらいなら家で寝ていたほうがマシだった』と、ため息混じりで帰って行く。それを青田さんに、想像できるかな……」


 できない。

 少なくとも、今の自分には。


(だけど、花吹先生には理解できるんだろう)


 だからきっと、こんなに顔をしかめてでも、話してくれる。


「胸は潰れそうに苦しいし、何を口にしても砂を噛むような心地だ。あいつは、そういう風評に三年耐えた。彩さんが見つけた炎上の一件も、そのひとつにしか過ぎない。あんなことはザラにあった」


 花吹は、ゆっくりと深呼吸して、沙夜を見た。


「うつ病を発症したのは、そのあとだよ」


 沙夜も窓にもたれかかって、彼の姿を思う。


(入学式で聞こえた、さくらさくら)

(初めて食堂に来た日は、ボロボロに泣いて)

(それからずっと、来てくれて——)


 だけど、自傷は止まらなかった。

 今の沙夜では無理なのだ。たとえそばにいることができたとしても、彼の繊細さを支えて受け止めることはできない。

 どれほど気持ちがあったとしても。


「……泉さんとも、カウンセラーの人とも、話しました」


 自死遺族は、生涯に渡って、その傷を癒していく必要があること。

 自分はまだ学生で、社会から守られるべき立場なのだということ。


「だから、わからなくもないんです。タカ兄の気持ちも、多津先生の気持ちも」

「そりゃ凄い」


 どこかからかうような調子で、花吹教諭は言った。


「食堂にも、もう行かないらしいけど?」

「距離を置くなら当然ですよね」


 ものわかりの良い言葉とは裏腹に、ふつふつと怒りが募る。


(いいよ、そんなの、好きにすれば)

(だけど多津先生は知らない)

(思い知らせてやる)


 沙夜は黙って、紙の束を無造作に、花吹教諭の胸に押しつけた。


「これ、食堂のレシピです。今まで多津先生が食べたもの、思い出せるだけ書きました」


 目をぱちくりさせている花吹に、突きつける。


「私のつくった食事以外、食べられるはずない!」


 駄々をこねる子どものように。


「これ以上、多津先生の薬になるものなんてない。どうせもう来てくれないなら、このレシピ通り手間ひま惜しんで作ってみて、私の気持ちを分かればいい!」


 ——私の、気持ち。


(口に出して初めてわかった)


「私が多津先生のこと、どれだけ大切に思ってたか……!」


 それだけ言うのがやっとで、沙夜は走って音楽室を出た。


(こんなに、好きだった)



 *



 花吹はふうと息を吐いて、準備室のドアを開けた。

 所狭しと並べられた楽器の隅で、ちょんと体育座りをしている人物がいる。


「ったく、俺はおまえの保護者かよ」

「——ごめん」


 多津は腰をあげた。


「まさか青田さんが来ると思わなくて」

「珍しく電話きたから、焦ったよ。くだんねー理由で呼び出しやがって」


 ヒマじゃねんだぞ、と多津の肩を小突く。


「まあ、間に合って良かった。今の青田に会ったら、確実に殴られるか泣かれるかしたはずだからな」

「……それは、痛い」

「惚れた女に泣かれるのはキツいよな」


 小娘の平手なんて痛くはない。

 あの朗らかな笑顔が哀しむ姿を想像したとしたら、それは胸痛いだろう。


「俺たちが何話してたか、聞こえなかったか」

「そうだね、詳しくは……ここ防音だし」

「青田いわく、おまえにこれ以上の薬はねーんだと」


 花吹は、今しがた押しつけられた紙の束を多津の目のまえで振った。

 それを受け取って、紙に書かれた字を愛おしげになでる多津の表情は、読み難い。


「……胃袋、掴まれちゃったなあ」

「おまえ、学生時代はゼリーとかカロリーバーしか食べてなかったもんな」

「食事に興味がなかったんだよ。そんな余裕なかったし」

「——おまえ、あの子と離れて、本当に大丈夫か?」


 多津は苦笑しながら、大丈夫じゃないよ、と紙束をたたんだ。


「またカロリーバーの生活に逆戻りかもしれないし、自傷もするかもしれないね」

「おい、脅すなよ」

「だけど、このままじゃ終われない。青田さんにもらったいろんなもの、無駄にしたくないんだ」


 多津の瞳に、静かな決意を感じて、花吹は訊ねた。


「おまえ、これからどうすんの」

「うん……まずは、ちゃんと自分の立場に向き合うよ」

「——本家に戻るってことか?」

「そうなる」


 また、あの閉鎖的な巣窟で病んでいくつもりか。


「教員の仕事はどうすんだよ」

「派遣の契約は今年度いっぱい務める。だけど全部事務のリモートになる」

「じゃあ……ここには戻って来ないのか」


 多津がうなずく。

 ああ、だからか、と花吹は思う。

 この場所に別れを告げたくて、多津は来たのだ。


「……青田のことはどうするんだよ。諦めるなんて土台無理だろ」

「そうだねえ」

「あの食堂男子に()られても知らねえぞ」

「鷹也くんとは、賭けをしてきた」

「は?」


 多津は照れくさそうに頭を掻いて、「青田さんが知ったら、くだらないって怒るだろうけど」とうつむいた。


「だけど、そんなくだらない賭けでもしなきゃ、鷹也くんは牽制できないと思って」

「ほォー……女のことには奥手だったおまえが、成長したじゃねえか」

「失礼言うなよ」


 だって、距離置いてるあいだに、ひとつ屋根の下で、とかなんとかブツブツ呟きながら、内心のたうち回っているだろう相手に、花吹は思わず吹き出してしまった。


「そりゃ、そんくらい足掻かなきゃ、恋した甲斐がないわな」

「——おっまえ、そういう恥ずかしいこと、よく言えるな」

「少女漫画育ちなもんで」


 ドレスの貴婦人のように、エア扇子を仰いでみせると、多津もようやく笑顔を見せた。





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