12話 18歳の夏休み(後編)
カウンターで盛大なため息が聞こえて、泉は振り返った。
「どうしたの、沙夜ちゃん」
「多津先生、久々に来てくれるチャンスだったのに……」
そうねえ、好きな人が来てくれないと残念よね、と思いながら、口には出さない。
「ごめんなさいね。最終的には、私がジャッジしました」
泉が事情を知ったのは開店前だった。
情緒不安定になっている彩は二階で休ませ、彼女のスマホだけを借りて、鷹也が説明した。
その《コト》自体は、泉には「さもありなん」という程度の内容だったが、鷹也にとっては違ったようだ。
——沙夜を守りたい。
まだまだ半人前だったはずの息子が、一人前の男の顔で、ハッキリと口にした。
(母親としては、よく言ったァ!って誉めてやりたいところだけど)
さて。
「いずみさーん」
沙夜がしょんぼりと肩を落とし、泉のシャツの裾を引く。
「なんでタカ兄行かせちゃったんですか……」
「うーん、まぁ、男同士には色々あんのよ」
一方で、この少女は守られることを望むだろうか。
「沙夜ちゃんは強いものねえ」
母親の自死に遭っても生き抜いてきた、健気でしぶとい、青草のようなサバイバー。
そのちいさな頭をなでると、沙夜はきょとんとして泉を見つめた。
「さ、ちゃっちゃと片付けちゃいましょ」
わざと明るい声を出しながら、泉はパチンと手を打った。
心配するべきはむしろ彩のほうだと、長年の支援経験が警報を鳴らしている。
(〆終わったら、様子を見に行かなきゃね)
*
「これ、多津さんですよね」
食堂から徒歩五分の居酒屋。半個室で仕切られているテーブルに、男三人が座っている。
飲みの席に不似合いなスマホの液晶。
動画を埋め尽くす悪意の言葉たち。
『プロ失格』
『多津絃二おわったな』
『これは跡取りムリゲー』
『チケ代返してほしい。ほんとに』
『評>>>技巧に走り過ぎた結果、曲の奥行きが失われている』
淡白に頷いて、多津はずりずりと背もたれに滑った。
「懐かしいな、思い出しちゃったよ」
花吹が「大丈夫か」と口に出す。
「いいよ……うん、だいぶ……思ったより」
「じょあ俺、行くな」
「ん、青田さんにお詫びしといて」
「オイ、少年」
花吹は立ち上がり、鷹也の肩にやさしく手を置いた。
「今回は俺がクッションになれたからいいけど、こういう誹謗中傷は、本人に見せるもんじゃねえぞ。どれだけ昔のことでも」
「……すみません」
花吹の背中と目の前の鷹也に向けて、気を遣わせてごめん、と多津が口をひらく。
それを聞いて花吹が簾の向こうに消えた。
多津は鷹也のくしゃくしゃの眉間が痛々しくて、「食べよう」と割り箸を渡す。
「ほんとに、なんか大丈夫。鷹也くんこそ、こういう話振るの、勇気いったよね」
鷹也は苦笑して、「余裕っすね」と箸を受け取る。
「オレ、もっと嫌な顔されるかと思ってました」
「ぼくも意外と平気でびっくりしてる。きっと、初夏にステージで弾いたことが大きかったんだろうな」
「……あのときの演奏は、オレも素直に、凄いと思いました」
箸を割ったにも関わらず、突き出しに手を出さず、鷹也はうつむいている。
「だけど、それとこれとは、話は別で——特に、沙夜にとっては」
一瞬、店の喧騒が消えたかと思うほど、鷹也からの圧を感じる。
「アイツは自死遺族なんです」
去年の秋、音楽室で聞いた声がよみがえる。
——私の母は自殺してるんです。
「うん……聞いたよ」
「そのへんの事情、知ってますか?」
「知っているというか……」
——薬飲んで、お酒飲んで、その勢いでドアノブ使って……
「あまりにも淡々と話されるから、逆にストップをかけたくらいだよ」
鷹也は少し意外そうに、目をみはる。
「沙夜がそこまでするなら、多津さんがよっぽど、沙夜の内側に入ってきたってことですね」
「どうかな。いま思えば、踏み込まれすぎないための、青田さんなりの防衛ラインだったのかもしれない」
(自分の傷を、恥を、あえて開けっぴろげに話す人がいる。それと同じだ)
好奇心を持つな、同情するな、哀れむくらいならいっそ笑え、と言わんばかりに。
気丈に見える彼女にもそんな歪みが、痛みがあったのか、と今さら気づく。
「鷹也くんは、当事者だったの?」
「いや——母親同士が知り合いで、巻き込まれたっていうほうが、正しいというか——」
とにかく、と鷹也は声を低くした。
ここからが本題のようだ。
「沙夜の母親は、インスタ炎上して、自殺してるんです」
一歩踏み込んだ事情の重さ。
多津は反応に迷う。
「えっと、そういうことは……」
「わかってます。こんなこと、本人のいないところで、ベラベラ話すもんじゃない」
だけど、と鷹也が苦しそうに言う。
「多津さんは知らない。いっときは、見ていられないくらい酷かったんです。なに話しても無気力で、かと思ったらいきなり泣き出すし」
(……急性期、か)
目には見えなくても、心は血を噴くほど傷ついているとき。
たとえるなら救急車を呼んで、人工呼吸器をつけて、輸血をしなければならない——それが《急性期》。
そんな状態は多津自身にも覚えがある。
無気力な日々。
訳もわからず涙が流れてとまらない。
息苦しくてたまらなくなって、じぶんを傷つける。
(腕から流れる血を見て、ようやく呼吸ができた)
呼吸ができてホッとした。
自傷行為は、急性期の応急処置だった、と今なら思う。
(だけど、それでは治らない)
応急処置は、繰り返せば繰り返すほど、その効果を失っていく。
気力も、体力も。
自分でもどうしたらいいのか、生きたいのか、死にたいのか、わからなくなってしまったとき、彼女は、言葉というかたちの薬をくれた。
——勲章です。
まだ生々しい傷、弱いことを隠すことすらできない男に。
——死にたい気持ちと闘っている証拠だって、聞きました。
闘っている、と。負けてはいないと。
(どれだけの痛みを背負って、あの言葉をくれたんだろう)
多津は、たまらない気持ちになって、唇を噛んだ。
「……話してくれて、ありがとう。ぼくは高校生の青田さんしか知らないから」
ふるえる語尾を必死に隠す。
それを知ってか知らずか、鷹也はビールを一気に煽って、勢いそのままテーブルに置いた。
「オレはアイツのこと、小学生から知ってます。だから言わせてもらいますけど、もしこれから先、多津さんにも、炎上とか、そういうことがあれば、沙夜はまた傷つく」
(青田さんの、あの表情……)
——ちょっと記憶あやふやなんです。寒くて、雨が降ってたことは覚えてるんですけど。
せっかく癒えかけていた傷に再びナイフが刺されば、傷はより深く、治りにくくなる。
トラウマの再現だ。
(……痛い言葉を、刺されたな)
ここまで来ると、相手の言いたいことがわかる。
「——鷹也くん、は」
「はい」
「ぼくに、青田さんと関わらないでほしい、と」
「……はい」
「ぼくがこの先、表舞台に立つことはなくても?」
「ネットに残ったものが、またどんな形で出てくるかわからない限りは……やっぱり、不安です」
「そうだよな。ぼくが君の立場でも、きっと同じことを言う」
困ったな、と思う。
それでも離れたくない、と思う。
——愛することを絶つならば、この命を絶たねばならない。
(さすが花吹。おまえのアドバイスは的確だよ)
もう会えないのかと思うと、息が詰まる。
(やっと弾けたのに)
肺が痛いのか心臓が痛いのかわからない。
(やっと、生きていけると思ったのに)
涙が出そうになって、多津は慌てて天を仰いだ。
居酒屋らしくホコリじみた照明がぶらさがっている。
「鷹也くん」
上を向いたまま、片手で視界を覆う。
はい、と鷹也が応えた。
「ぼくは、青田さんが好きなんだ」
「……それって——」
「愛しくてたまらない」
目を閉じる。
すでに表面張力いっぱいだった水分が、ひと粒あふれた。
(ぼくが健全な男なら)
(ここで引き下がったりはしないだろうな)
塞いでいた手を外し、鷹也の顔を真正面から見る。
あふれた雫が頬を伝う。
「は、ごめん、みっともなくて」
「——や、そんな……」
多津を見つめる鷹也は、戸惑いながらも真摯な表情だ。
誠実で気持ちのいい青年だと思う。
自分なんかとは比べものにならないくらい。
「ぼくは、うつ病を患っていて……一時期よりは、だいぶマシになったんだけど」
(君のように、健全じゃない)
(だけど、病んだからこそ知っていることもある)
「急性期の苦しさは、経験した人にしかわからない。ぼくはそれを知ってる。何より——いつ復たどんなきっかけで再発するかわからないっていう、恐怖も」
それはまるで時限爆弾のようなもの。
愛しい相手に備えられた爆弾の、そのスイッチに、自分がなり得るというなら——
「答えは一択だ」
どんなに愛おしくても。
手放したくなくても。
だからこそ、置かなければならない距離がある。
「今は、ね」
これじゃ負け犬の遠吠えだと、多津は自分を嗤った。