11話 18歳の夏休み(前編)
——多津先生。
彼女は頬に涙のつぶを乗っけて、はにかみながら近づいてきた。
その姿が、あまりにいつもと違うので、変にドギマギした。
秩序に添った制服ではなく、見慣れたエプロン姿でもない。
——先生、こんなに嬉しい誕生日、初めてです。
バラ色に染まった頬には《かわいい》ではなく《美しい》がふさわしい。
——すごく嬉しい。ありがとうございます。
無垢な笑顔は、まるで……
*
「天使かとおもった」
惚けたことを言っているのは、久々に音楽室に来たにも関わらず、箏をまえに体育座りで、ぼうっとしている派遣教師だ。
花吹は夏期講習の採点をしながら「頭を豆腐の角にぶつけて来い」と返す。
「ぶつけたら、この頭、治る?」
「……豆腐より、除夜の鐘にぶつけたほうがいいかもな」
「百八回はぶつけないとだめだ」
「煩悩消える前に死ぬぞ」
「いや、あれは反則だよ……煩わせ悩ませるものだよ……」
なにをこの男はブツブツ言っているのか。
無理やり話を逸らしたくて、花吹は別の話題に水を向けた。
「溜まってた雑用は片づけたのか」
「粗方は——だけど、教務室にいたら、いつの間にか青田さんが来てて」
(振り出しかよ)
花吹の腹の底からため息が出る。
これはもう、徹底的に聞いてやるしかない。
「そりゃあ進路相談、遅かったからな。夏休みも返上だろーよ」
「……そっか、それで」
「お疲れさま、ぐらい、声かけたのか」
「いや……なに話したらいいかわかんなくなって、気づかれる前に逃げてきた」
「——それ、ほんとに気づかれてねえの?」
花吹の読みは当たり、「こんにちはー!」と引き戸がひらいた。
ガタガタっと大げさに驚いた多津がゴザに滑って肘をつく。
「えっ、多津先生、大丈夫ですか!?」
「う、うん……ごめ……」
花吹はフンと鼻を鳴らす。
(あーあ、見てらんね)
見ていられないがしかし、教員としての監督責任を考えると、この場にいてやるべきか。難しい問題だ。
(ただの男子中学生と化した男を、女生徒と二人きりにしていいものか)
答えは否である。
自分で出した結論に、花吹はガックリとうなだれた。
多津は首すじが真っ赤になっている。
そんな男たちの懊悩も知らない沙夜は、するりと多津のまえに座って、「どうかしました?」などと真剣に心配している。
茶番もいいとこだ。
「多津先生、最近ぜんぜん食堂来ないし。なんなら花吹先生のほうが来てくれるくらい。ちゃんと食べてます?」
「食べてるよ、それなりに……」
「嘘つけ」
心の中で言ったはずが、おもわず声に出ていて、花吹は口もとを覆った。多津がメガネの奥からジト目で睨んでくる。
「あっ、やっぱり!」
わが意を得たりとばかりに、今日の定食は冷やし中華だの、サッパリしていて食べやすいはずだのと、多津を口説きにかかっている。
ついでにダメ押しのひと言まで。
「お願いします。来てください。先生の顔見ないと、勉強がんばれない」
「青田さん、脅してる……?」
「脅しますよ。私がなんのために今の進路選んだと思ってるんですか」
「え?」
「あっ」
(ハイ、墓穴)
赤くなって急にモジモジし始めた二人に、いい加減呆れた花吹が折衷案を出す。
「俺と一緒に行くんなら、いいだろ」
言外に、二人きりにならないようにしてやるよ、と匂わせてみる。
この初心な男は、きっと恐れているのだ。
自分の中にある感情のおおきさと、彼女が美しく花ひらく早さのギャップに戸惑い、ちょっとしたパニックを起こしている。
多津は安心したように、「それなら……」と消え入るような声で言う。
「よかった! 美味しい冷やし中華つくって、待ってますね」
心底嬉しそうな笑顔は、男ごころを簡単にくすぐる。
加えて胃袋をつかむダブルパンチだ。
(やるなぁ、青田)
おまえそれ無意識か? と思いながら、退室する女生徒のセーラー襟を見つめる。それすら、どことなく弾んでいるようだ。
「……しよう」
「あ?」
「可愛すぎて息とまる」
「ははっ」
「笑いごとじゃないよ……」
実際にシャツの胸もとをぐしゃぐしゃに掴んでいる旧友に、それなり場数を踏んできた花吹は、ひとつお節介をしてやる。
「《Il faudrait que je cessasse de vivre pour cesser de vous aimer.》」
多津がぽかんと驚いた表情で花吹を見る。
「フランス語? そういえば、留学してたんだっけ」
「そ。だから基本的には、恋愛には寛大なスタンス」
「ちがうよ、青田さんには、そんなんじゃ……」
笑っててほしいだけなんだ、とか細い声で紡ぐ男。
敏感で傷つきやすい多津絃二という一人の人間は、自分の感情が彼女を傷つけるものになりはしないかと、恐れている。
(恐いのはわかる。年をくうと余計に)
だけど自分は、ひとりの大人でありながら、多津という男の数少ない友人でもある。
軽く背中を押してやるくらいはかまわないだろう。
「さっきの意味な、《愛することを絶つならば、この命を絶たねばならない》ってことなんだけど」
うつむいていた多津の顔が、あがった。
「息がとまるほど可愛いなら、それはもう恋すら超えて、愛おしいってことなんじゃねえの」
少なくとも俺は青田相手に息はとまらねえよ、と言い添えると、多津は困ったように眉をしかめた。
「そんなこと言われても……」
「いっぺん、正面から自分の気持ちに向き合ってみな」
「どういうことだよ。おまえ、さんざん『立場を考えろ』って言ってたじゃないか」
「そりゃ立場は考えろ。情を出すのは弁えるべき」
「難しいことを……」
「けどさ、そこまで惚れ込める相手がいるってのは、人生で一度、あるかないかのことだと思う」
自分の命と天秤にかけられるほどの相手。
そんな出会いがあったことは、少し、羨ましい。
「ほら、丸つけ手伝ってくれ。早く終わらせて、冷やし中華、食おう」
*
ボイラーの音が響く厨房で、鷹也はキュウリをすっている。
千切り用のスライサーにこれでもかというほど押し当てて、キュウリに八つ当たりでもしているようだ。
本当に千切りしてしまいたいのは、自分のモヤモヤした気持ち。
(沙夜の、あのカッコ)
(別人みたいで、急に——)
スーツを着た多津と……《大人の男》と、お似合いに見えた。
(だいたい、あの男だってずりぃよ)
いつもはヨレヨレした格好で、寝ぐせも分厚い眼鏡もかまわないくせに、あんな勝負どころを仕掛けているとは思わなかった。
年齢の差を見せつけられて、自分の若さ、青さが恨めしい。
もっとあんなふうにスマートに、出資も段取りもさらっと本人には気づかせず、ただ純粋に喜ばせてみたい。
(くっそ!)
カン、とスライサーをボールの端に叩きつける。
(ケーキは喜んでくれた。だけどそれは……なんかちがう)
ちがう。
喜ばせるまえに、自分は沙夜を守りたいのだ。
ああ見えて気丈に振る舞ってはいるが、夜、一人で泣くことがあると知っている。
それをあの男は知らないだろう。
(沙夜が今まで傷ついてきたこと、苦しい思いで乗り越えてきたこと)
それを知っていることは鷹也のアドバンテージだ。
千切りを終えたキュウリに塩を揉み込みながら、つい手に力が入る。
(絶対に、超えてやる!)
「鷹也さん」
「あ?」
振り返ると、彩は言いにくそうに、エプロンを両手で掴んでいる。
「ちょっと、聞いてほしいんだけど……」
彩の手がふるえている。
最近はメンタル安定してたはず、と思いながら、鷹也は手を止めた。
「あの、たづせんせーのことなんだけど……」
今まさに恨み骨髄の名前を聞いて、鷹也は顔をしかめた。
「そォいう話なら沙夜が来てからにしろよ」
「ちがうの」
言えないんだよ……と彩が呟いた。
「これ、見て」
彩が差し出したスマホが映しているのは、どうやらTikTokのようだ。
鷹也はタオルで手を拭き、その液晶を注意深く見つめた。
「こんな——は?」
いや、ちょっと待てよ、と思う。
「これ、フェイクニュースじゃねえの?」
「うん。あたしもそう思って、ちょっと調べてみたんだけど、元動画はあったの」
「コメント荒れてるけど、これもマジもん?」
複数のアカウントを使って炎上を偽装することもある。
それを彩も知っているらしい。うなずいて液晶をスクロールした。
「まとめサイトで、当時のSNSのスクショ上がってた。あと雑誌を撮ったのも、あって……スキャンじゃなかった」
「……それならフェイクじゃねえな。少なくとも、報道は実際にあったってことだ」
彩はすでに瞳いっぱいに涙をためている。
「どうしよう。沙夜、きっと知らないよね」
「あほう」
鷹也は彩の頭をポンと叩いた。
「考えなしに知り合いの検索なんかすんなよ」
「……ごめんなさい。つい、癖で」
彩は摂食障害者のアカウントを多くフォローしていて、どうもそのあたりの瑣末な呟きに左右されることがある。
しかし、今回のこれはさすがに、慎重に確認したようだ。
「タカ兄、あーちゃん、ただいま〜」
裏玄関から届く陽気な声に、二人は顔を見合わせた。
「オレが事実確認するまで、待っとけ」
沙夜にはまだ言うなよ、と念押しすれば、彩は不安そうにうなずいた。
鷹也はスマホを取り出して、先日知ったばかりの、ある連絡先を呼び出した。
コールを二回、三回、と待てば、「はい」と電話の相手が応えた。
「花吹さん、ちょっと、聞きたいことあるんすけど」