10話 18歳の初夏(後編)
室内照明が消えて、ブザーと共に緞帳が上がる。
ステージがパッと明るくなった。
今までにないほどの高揚を感じる。
中心にはドラマー、その右側に尺八の奏者が二人、左側に箏の奏者が三人。
(あれ……多津先生、いない?)
体調でも崩したのだろうか。
心配する沙夜をよそに、始まりの音が一斉に閃いた。
流行のJ-POPのアレンジで、観客席も誘われて熱くなる。
まるで邦楽とは思えないようなビートの刻み、リズム感。
疾走してゆく音の粒たち。
弾けて、並んで、飛び出して、合わさって、あっという間に駆け抜ける旋律の遊び。
(何これ——楽しい!)
それが短めのオープニングだとわかったのは、司会者が出てきてグループ紹介を始めてからだった。
沙夜はハッと我に返って、隣の花吹に耳打ちする。
「多津先生、いないですよね……?」
「なに言ってんだ、あれだよ。一番でかい箏弾いてるやつ」
すでに次の曲が始まっている。
今度は年代問わず楽しめる合唱曲のアレンジだ。さっきよりリズム抑えめのドラムに添って、箏の低音を奏でている人。
前髪が目元にかかる長さで切り揃えられ、うなじはスッと通り、硬質なピアスがキラッと光った。
「ああしてみると、どっかの韓流俳優みたいだよな」
「えっ!?」
よく見ると、弦を押し込むときの腕の感じや、琴柱を滑らせる指先が、たしかに——
「なんで……眼鏡は? 寝ぐせもない!」
そこかよ、と花吹教諭が苦笑する。
呆気にとられる沙夜の耳に、彩が小声で、しかし興奮を隠し切れずに言う。
「ちょっと待って、カッコ良すぎん!?」
うんうんと頷きながら、沙夜は心臓が爆発するかと思った。
「アイツ、昔から舞台映えだけはいいんだよな」
言葉のわりに、花吹教諭も誇らしそうだ。
舞台の上にいるのは、沙夜が今まで、あれを弾いて、これを弾いてとおねだりしていたやさしい先生ではない。
まるでストイックなアスリートのようだ。
男性にしては華奢で、しかし長い両腕が、美しくしなっては箏のうえを縦横無尽に弾きまわる。
(知らない人みたい……)
曲目がまた変わって、今度は親子向けのアレンジ。周囲では手拍子が鳴り、しかしそれも忘れて、沙夜はたった一人の奏者を見つめた。
ぼうっとのぼせるような感覚と、同時に、胃の底が冷えるような……仄暗いものがある。
だけどその部分には、まだ蓋をしておきたい。
(今はただ、音の響きと先生の活躍を、応援していよう)
*
プログラムが終了して、アンコールに応えたあと、舞台袖でリーダーが言った。
「いや、エグいわ、おまえ」
「あ、わるい。弾きにくかった?」
「ちがうよ、逆。完全に喰われた」
今度は違うメンバーが、スポーツドリンクを手渡しながら言う。
「あの転調、即興?」
「ああ……うん。聞き馴染みのある曲でも、ちょっと変化あったほうがいいかなって」
「冷や汗ドッと出たわ」
「それな、オレらじゃねえと、たぶん演奏崩れてたぞ」
「そこはまあ、信用してた」
「信頼って言えよ」
学生時代からの旧知である。
「にしても多津の音、変わったなあ」
「そうかな」
「ん、リハのときから思ってたけど、今日はさらに軽くなって、明るくなった感じ。いい意味で」
「昔、そんなに暗かった?」
「暗かったぞ〜。何をそんな悩んでんだってくらい張り詰めてて、まあ逆にその緊張感がウケてたんだろうけど」
リーダーが「はい、そこまで」と手を入れる。
「楽屋に用意してあるんだろ? 行って来いよ」
彼が気を利かせてくれたことに感謝して、多津は踵を返す。
歩きながら、両手の指を握り込んだ。
(暗かった、というなら確かに)
(今まで一度だって、自分から弾きたかったことはなかった)
だけど持って生まれた技術のせいで、業界の坩堝に引きずり込まれた。
日ごろはやさしい爺さまが、会場を歩くときだけ足早になった。
後ろをついて歩く、まだ小学生にもならない自分のうえに、大人たちの影が覆い被さってくる。
——オマエは、ここに居てはならん。
爺さまは苦々しく言った。
——逃げろ。
(だけど、逃げ方を知らなかったんだ)
干渉され、監視され、嘲笑されて。
この指先を何度もなんども切り裂きたいと願い、立ちあがることもできないほどに疲れ果てて、それでも捨て去ることはできなかった音の欠片。
ボロボロになった音を、あたたかくてやさしい手が拾ってくれた。
(初めて、自分から弾きたいと思った)
彼女が喜んでくれるなら、たった一音でも、どんな難曲でも弾きこなす。
指が音を出すんじゃない。
音に指がついていく。
こんな感覚は初めてだった。
(握った手は、もう離せない)
楽屋に入ると、依頼していた通りの準備がなされていた。
*
「ちょっ、あーちゃん、待って! あや!」
「なにを今さら。なんのためにメイク直しまでしたと思ってんだ」
「会うの、久しぶりだし、こ、心の準備が——」
「遅いわ」
二人で狭い通路を押し合いへし合いして、彩にひっぱり出されるかたちで扉をひらいた。
「みんな、来たよ〜!」
「ハッピーバースデー!」
クラッカーがたくさん——確かに三つ以上は——鳴り響いて、沙夜は呆気にとられた。
「えっ」
予想外の顔ぶれである。
(タカ兄と、泉さんと、花吹先生まで……)
加えてもう一人。
「久しぶり、青田さん」
はにかむ笑顔を見て、ようやく本人だと実感した。
沙夜はおもわず口を両手で覆った。
なにか、表に出してはいけない感情が、漏れてしまいそうだ。
多津は気恥ずかしそうに腕を奥に差し向けた。
「これ、鷹也さんと、泉さんが作ってくれた」
ホールのバースデーケーキ。
大きなロウソクが真ん中に一本、その周りを、八本の小さなロウソクが灯って、やわらかにゆれている。
「私の……?」
初めてだった。
こんなふうに特別に、誕生日を祝ってもらったことは今までなかった。
病んだ母親はもちろん、養護施設では月末に他の子どもたちと一緒だった。今の環境になってからも、食堂が忙しくて遠慮していた。
そのうちに、じぶんの生まれた日にさえ、無頓着になっていた。
堰きとめていた気持ちが溢れ出す。
(お母さんがあんなふうになったのは、私が生まれたせいだと思ってた)
その思いは変わらない。
だけど、今、みんなが笑顔でそばにいてくれる。
「沙夜が泣いてる」彩が嬉しそうに言う。「初めて見た」
泉さんがやさしく沙夜の肩を抱いてくれた。
「ぜんぶ、多津先生の発案なの。それを花吹先生が連絡係になってくださって——鷹也と私で、ホールケーキなんて初めて作ったわ」
口に合うといいけど、と、やさしい声が言う。
「沙夜、早く吹けよ。ロウが落ちる」
タカ兄のぶっきらぼうな口調は、きっと照れ隠しだ。
涙が次から次に溢れて、みんなの顔が見えない。肩も喉もしゃくりあげて、とても息を吹くなんてできそうにない。
「ハッピーバースデー・トゥーユー!」
明るく歌い始めたのは彩。
それに花吹教諭のテノールが重なる。良い声過ぎる。
泉さんはささやくように。
(多津先生はちいさな声。きっと歌は苦手なんだ)
沙夜が口に出してはいないのに、後ろから「多津、声小せえぞ!」とヤジが飛んできた。
一緒に演奏していたグループの人たちが来たようだ。
「楽しいことは皆で分け合おうぜ!」
ポン、と何か弾ける音がして、その場に歓声が響いた。