1話 17歳の初夏
放課後の渡り廊下、並ぶガラス窓のアルミサッシが光を受ける。
小走りに過ぎる人影ひとつ、初夏の陽射しを受けてゆれる。
頭の後ろ高く結わえた髪のした、セーラー衿に臙脂のスカーフ翻し、内履きパタパタ響かせ向かう、突き当たりの古い音楽室。
ガラッと扉をあけて、青田沙夜は声をあげた。
「こんにちは!」
「こんにちは、青田さん」
呼べば返ってくる、ぶ厚いレンズの眼鏡のした、控えめなほほ笑み。
沙夜はぎゅっと目をつむった。これ以上見たら心臓がとまる気がする。
友人が言うには、「さーやの趣味はちょっと変わってる」らしい。多津先生のどこが可愛いのか聞かれて、指折り始めて数えると、握りこぶしが二つできた。
(だって、指十本じゃ足りないよ)
先生のチャームポイントは今日も変わらない。
(冴えないボサボサ髪)
(たまにどもるところ)
(廊下でプリントぶちまけちゃったり)
(でも、笑った顔がすごく可愛い)
(それから——)
「おーい青田ぁ、発情すんなー」
トキメキを堰き止める、それは煩わしくも心地よいテナーの声量。
「花吹先生! それセクハラ!」
「失礼なご挨拶どーも」
この音楽室のヌシ・花吹教諭は、ピアノの背もたれを抱えて座っていた。その足もとにゴザを敷いて、筝のまえで正座する田津教諭。いつもの放課後の景色がある。
「青田さん。今日は、なに聞く?」
声は小さいけれど、やさしく包みこむような話し方。
それだけで胸の奥がきゅっとなる。
憧れのような、癒やされるような——そんな気持ちを感じながら、沙夜は元気いっぱいに答えた。
「《浜辺のうた》!」
*
「それでね、歴史科のおじいちゃん先生が言ったんですよ」
多津が筝をていねいに片づける横で、沙夜は進路希望の紙とにらめっこしている。
花吹も多津もこちらを向いてはいないが、耳を傾けてくれていることはわかるので、話を続けた。
「大人が子どもを守れたのは、前世代までの話です、って」
——コロナ禍や戦争に災害、大人がどれだけ戸惑っていたか、あなたたちは覚えているでしょう。いま、君たち未成年を保護するはずの大人たちは、みな自分のことに手いっぱいで、わが子さえ満足に守ることができない。
「だから武器をとれ、って言われました」
「おー、フランス革命じゃないか。市民たちよ、武器をとれ!」
きょとんとした沙夜に、花吹が鼻白んだ。
「おい、ベルばらを読んでないのか? あれは少女漫画の登竜門だぞ」
「漫画、あんまり読まないんです」
「なにぃ? あ、あれか、ガリ勉タイプとか、意外とミーハーにアイドル派?」
「それもあんまり」
「えっ……なに、おまえ、無趣味?」
露骨にショックを受けている花吹教諭に、沙夜は少し決まりがわるい。
「ひと聞きのわるいこと言わないでください。ほら、邦楽同好会ってことで、ここにいるし」
「いや、にしたって部員一人だろ。何か大会に出るでもなし」
ええと、と沙夜は言い淀んだ。
それには家庭の事情があるのだが、花吹教諭には知られていない。
ただ、多津教諭は知っている。一年前から知っていて、黙認してくれている。
沙夜の戸惑いをどう受け取ったのか、花吹は大変憐れみを込めたまなざしで、息をのんだ。
「おまえ、まさか、ぼっち……!?」
花吹のシャツ衿を多津が無遠慮に引いた。
「そこまで」
小声ながら決然とした言い方に、花吹も鼻白らむ。
「引っぱるなよ!」
「干渉しすぎ」
「なんだ、妬いてんのか?」
多津がにっこり笑う。
「青田さんを《おまえ》呼ばわりは、ちょっとね」
「多津ー、そういうとこだぞー」
沙夜が「そういうとこ?」と訊ねると、花吹教諭は口の中だけでもごもご言った。
聞き取れなかったが大差ない。
二人のこうして戯れている姿を見るのが好きだ。
沙夜が笑うと、アラームが鳴った。防水仕様の腕時計は、デジタル表記でタイムリミットを知らせている。
「行かなきゃ」
進路調査のプリントをクリアファイルに入れる——白紙のままで。
「じゃ、先生たち、さよーなら!」
「青田! 次来るまでに『ベルサイユのばら』読んどけよ! あとガラスの仮面もだ! いいか、少女の登竜門だぞ!」
「んー、少女ってなんですか?」
引き戸に手を掛けて、沙夜は振り返った。
「少女——お、乙女?」
花吹教諭は胸のまえで両手をクロスさせながら、視線を泳がせた。
ちょっととぼけた宣教師みたいだ。
「花吹せんせー、《少女》に夢見すぎです!」
後ろ手に閉める古い扉の溝が軋む向こうで、多津教諭も笑っている。
それを聞いて、沙夜も嬉しくなる。
多津教諭の口数は少ない。
だけど笑ったり、しかめっ面をしたり、表現は豊かなのだ。
(だから演奏も、あんなに響くんだろうなあ)
心地よい。
なにを訊ねるでもなく、押しつけるでもなく、ただ気まぐれにアイスクリームを買ってくれるような感覚で、弦をつまびく。
沙夜は心のなかで、またひとつ指を折った。
(わたしも、ああいう大人になりたいな)
沙夜は階段を降りながら、鞄に押しこんだプリントを思い浮かべた。
進路希望の回答欄。
罫線でつくられた虚無な箱。
まるでそこになにもないことを見透かすように。
(武器、か)
——もう、大人は子どもを守ってやれない。だから、じぶんの生きる道をじぶんで歩くための武器が必要です。どのように食べ、どのように身を守り、どこが安全な場所なのか、知っておく必要がある。
(わたしは、なにも持ってない)
悲壮も感慨もなく、ただ淡白に、それだけを思った。
*
「青田さんの声、風鈴みたいだよね」
突拍子もなく言った男が、眼鏡を外して度のないレンズを拭いている。
多津の教員採用が決まったとき、花吹が「小道具でも使って、ちったぁ老けろ」と贈ったものだ。
——多津絃二。
この男、癖者である。
「そのでっけえ黒目、早く隠せ」
「はいはい、童顔だってんだろ」
多津が自分の顔つきを苦く思っているのは知っている。
ただし、それ以上に問題なのは——
「今日も青田さん、元気だったね」
「アオタサン、そんなに好きかよ」
「うん。憧れてる」
照れる様子もなく返ってきた答えに、花吹は盛大にため息をつく。
「おまえなぁ、それ、ほんっと、気をつけろよ。いくらおまえが童顔で下手すりゃ制服似合うとしても、だ」
「失礼言うなよ」
幼馴染は、おおきな黒目にふさふさの睫毛を乗せて、こちらを見つめてくる。
「相手は未成年の女生徒で、おまえは成人のアラサー教師」
びしっと人さし指を突きつけて、「間違っても変な関係に至るなよ」と釘を刺す。
いつもと同じ牽制球を、ここ一年、何度投げたかわからない。
それなのに、多津は何度も同じ言葉を返す。
「大丈夫、なにもないよ」
「ぬわーにが『なにもないよ』だ! 息するように『青田さん』『青田さん』言いやがって! おまえは男子中学生かっ!?」
「ははっ、確かに」
「確かに、じゃねえよ!」
このやりとりすらヒヤヒヤする。寿命が縮む。
花吹の脳裏に、教育委員会や保護者会、などなど、関係各位のご面々が過ぎてゆく。さながら走馬灯だ。
「な、絃二」
首をぐいっと前に出して、多津の長い前髪のした、その瞳の奥を探ろうとする。
「ほんっっっとに、恋愛感情とか、そんなんじゃねえんだよな!?」
「うんうん、違う違う」
「くっそ信用できねぇぇぇ!!」
音楽室に怒号が響いた。