青の君を探した報い
——青を探しているのだ。
何度も聞かされた、甘ったれの言葉。あるいは婚約を境になりを潜めるかと思われたそれは、むしろ煌々と燃え上がるように強く主張するようになっていった。
「今、なんと?」
「……この婚約を、無かったものとしていただきたい」
一見して辛そうに。言い難そうに。あたかも憚っているように口にされた言葉は、しかし滞りなく何一つ後悔も罪悪感もともなっていない。それは自らの正しさを信じる者にのみ感じる特有の愚直であり、赤の他人が何を言っても決して揺るがない確固たる意志だ。
私の名は、フランシスカ・ステリア・クレイトン。誉れあるクレイトン侯爵家の長女であり、その名は一族の開祖たる魔術師フラムに因んだものだ。さらに先王陛下から賜った星の人の名を戴く国内唯一の女性であり、何より王位継承権第二位であるローレンス王子殿下の婚約者である。
そして、今そのローレンス殿下が目の前にいる。
「君はよく知っているだろう。私には、この人と決めた想い人がいるのだ。一度は諦めかけたその想いではあるが、しかし忘れる事は終ぞ叶わなかった……。だから、私との婚約をなかったものとしていただきたい」
あまりに勝手な申し出である。私の都合を何一つ考えない、自らの権力をかさにきた横暴。当然ではあるが、決して許すわけにはいかない。
「この事を、国王陛下はご存知なのでしょうか?」
「父上にはこれからお許しをいただく。母上と二人で」
「…………」
母上。
現王妃殿下は、大変な子煩悩である。実子であるところのローレンス殿下は、その愛を一身に受けて育ってきた。それこそ、蝶よ花よと。仮にローレンス殿下が私に手を上げたとしても、王妃は口を出さないだろう。国王陛下はきつい仕置きを用意するかもしれないが、王妃は間違いなくローレンス殿下の味方をする。
これまでもそうだったし、これからも変わらない。
なるほど。『貴方の思うままになさい』などという腑抜けた言葉を吐く美女が目に浮かぶようだ。『悪い事など起こりません』と。『私がなんとかします』と。
しかし、無論全ての人間がそこまで殿下に甘いわけではない。そして、私もそうでない者の中の一人である。
「殿下との婚約が解消されては困ります。それは家名に泥を塗る行為ですし、私はもう嫁の貰い手がないでしょう。7歳から共に生きたにしては、あまりの仕打ちではありませんか。この目では、一人で生きていく事などできないというのに」
「そ、それは……」
私の目は、二度と光を映さない。十二年前のある夜、暴れ馬に遭遇して瞳を傷つけたのだ。命があったのは、せめてもの幸いだった。当時の陛下が私に光を思わせる名前を下さったのも、光を失った私を想っての事だった。
「しかし、私は青を探しているのだ!」
それは聞き慣れた、馬鹿馬鹿しいロマンチストの言葉である。
「私が9つの頃だ。私を乗せた馬車が、大変な嵐に見舞われた。車体は横転。車輪は用をなさず、馬の半分が怪我を負って命を落とし、残ったうちの半分が逃げてしまった。あるいは、あの時私は死んでいたかもしれない」
「存じております」
「私は雨に濡れた疲労で気を失うように眠りについた。しかし、神は私を見捨てなかったのだ! あれが神の使いだったのかそれとも女神自身だったのかは分からないが、後から従者に聞けば偶然に通りかかった馬車に助けられたらしい」
「何度も聞きました。ええ、何度も」
「私はほとんど眠っていたが、朧げに覚えているのだ。助けられた馬車に揺られながら見た、この世のものとも思えない鮮やかな青色を! 瑠璃にも似た美しい青だ! そして、その青を伴った自分と同じ歳の頃の少女の姿を! その美しさに安堵し、私は事故の直後とは思えないほどに安らかな眠りにつけたのだ!」
「ええ、しかし、その顔を覚えておられない」
「いいや、必ず見つける!」
見えはしないが、殿下はどうやら立ち上がったらしい。
「必ず見つけて、この思いを伝えない事には気が収まらないのだ!」
「殿下は盲目でいらっしゃいます。目の開かない私よりも遥かに」
「いいや、これは使命だ! 王家の名にかけて、恩に報いないわけにはいかぬのだ!」
なんと、愚かしいのだろうか。使命などと、恩などと。そんな大仰な言葉を使いながら、私を蔑ろにする事に何の躊躇もない。
その義にもとる言動を取り繕うために並べられた言葉の、なんと薄っぺらな事だろう。
「殿下、私は今年で19になります。適齢を過ぎた、傷物の女なのです。殿下の御心のために、私の人生を棒に振れと、そう仰るのですか?」
「それを言うなら私は21だ。今を逃せば、二度と青を探す機会は巡ってこないだろう」
「しかし、その青が何なのかもご存知ない。それが宝石なのか、調度品なのか、あるいはそれ以外なのか、幼き殿下は覚えておられなかったと聞いております」
「それでも探すのだ! この国の全ての青をさらってでも!」
幼き日の幻覚に魅せられた、哀れな少年がそこにいる。目は開かずとも、確かに視える。彼はその日から一歩も進まぬまま、体ばかりを大きくしてしまったのだ。
哀れとは思わない。それは、自らが望んだ事なのだから。
「……分かりました」
「おお! 君なら分かってくれると思っていた! 真摯に話しさえすれば!」
真摯に。
殿下の態度の、どこにそんなものがあったのだろう。どれほど誠実な態度を示したとしてもまるで手応えのない問答に、ほとほと疲れてしまっただけだというのに。
「陛下へのご報告は一緒に参ります。私の今後にも関わる事ですので」
「おお、確かに。その通りだ。そのようにしよう」
あまりに呑気な返答だ。自らの愚かさを理解していれば、決してそんな態度はとれないというのに。
陛下への報告は、殿下が思っていたほど微笑ましいものにはならなかった。当然の事ではあるが烈火の如く怒り、思いつく限りの罵倒を殿下に浴びせた。普段は我が子をこれでもかと甘やかす王妃殿下をして、口を挟めないほどの有様だった。
「貴様の如き愚物にクレイトン侯爵令嬢は釣り合わん! 二度とその身に近付く事を禁じる!!」
その言葉を最後に、陛下がローレンス殿下を息子と呼ぶ事はなくなった。王位継承権は剥奪。一応城の中に住んではいるものの、実質的な勘当処分である。
これには王妃が涙まで流して抗議したが、陛下の決定が覆る事はなかった。
対して私には、手厚い待遇が約束された。
結婚の相手と見舞金。それ以外にも、私が何か困り事に見舞われた際には決して力を惜しまず協力してくれる。領地問題、夫婦間の不仲。私の幸福な生活には、常に陛下が寄り添ってくれた。
そして記念日には、必ず何か贈り物がなされる。血の繋がりはなくとも、まるで実の娘であるかの如く厚遇だ。
そして、三度目の結婚記念日。私達夫婦は、いつになく盛大に祝う事とした。長く子宝に恵まれなかった私達の間に、ようやく授かり物があったと分かったからだ。
これには、国王陛下も大変喜んでくれた。贈り物はもちろん、その気持ちが嬉しかった。喜んだ顔こそ見えないが、陛下のお気持ちが確かなものであると条件なく信じられたからだ。
しかし、たった一つだけ不幸があった。
「ふ、フランシスカ。おめでとう」
「…………」
顔は見えない。それでも、たった一言で誰か分かった。
十二年も連れ立って、まさか忘れるはずがないのだから。
「ローレンス。お久しぶりです」
偶然、私は侍女と二人でいたところだ。夫はいない。あるいは、その時を見計らって現れたのかもしれない。
「えっと……幸せそうでなによりだ」
「ありがとうございます」
平坦な声は、きっと冷たく聞こえた。何の心もこもっていない、まるで飯事をする時のような声だ。この祝いの席にあって、酷く不似合いな様である。
「ローレンス。他に何もなければ私はこれで」
「いやぁ、待て。待つんだ」
多分、一歩近付いた。それにともない、私は一歩退く。
「私は、この三年間随分と寂しい思いをした。城から出てはならず、今こうしてここにいるのも母上の計らいだ。きっと、次に同じ事はできないだろう」
「そうですか」
「結局、青の君は探せていない。探すために君と別れたというのに。これでは何のために覚悟を決めたのか分からない!」
「そうですか」
「だが、君は私ほど悲しんでいないようでなによりだ。ああ、本当に結婚おめでとう」
「そうですか」
一言ごとに一歩。ローレンスが近付いて私は離れる。その危うさを肌で感じ、その愚かさが耳で聞こえる。
言葉に対して、彼が私の幸福を面白く思っていない事は明白だった。声色は低く、婚約時代には感じた事のないほどに乱暴だ。
そう、それは今にも手を上げられそうに。
「私は! ただ心に従っただけだというのに!!」
最後には、ほとんど叫んでいるようだった。そして、もう手が触れるほどに近付いている。もしかしたら、暴力を振るう寸前なのかもしれない。
だが、そうはならなかった。
「妻に何か御用ですか?」
「……っ!」
聴こえていた。知っていた。夫の足音が、すぐ近くまで来ていたから。
彼の名前は、ギルバード・ラクウッド・マクガヴァン。陛下の紹介で出会った、国内に二つしかない公爵家の嫡男である。そして、私のたった一人しかいない旦那様だ。
「我々の祝いに参じて下さったのならありがとうございます。しかし、どうやら招待状はお持ちでないらしい。土産を用意いたしますので、今日のところはお引き取りください」
「……そうだな。そうさせてもらおう」
ローレンスは、悔しそうな顔をしているだろうか。辛そうな顔をしているだろうか。それとも怒っているだろうか。
ただ一つ。夫が微笑んでいる事だけは分かった。出会ってから一度も顔を見た事のない夫だが、その余裕のある声色がそう感じさせる。
何も恐ろしくない。彼と共にあれば。三年よりも前には、感じた事のない感情である。
「フランシスカァ!!」
帰り際、ローレンスが叫ぶ。
「私の不幸の上で享受する幸せはさぞかし心地よいだろうな!」
吐き捨てる物言いだ。自らの行った事の報いであるなど、ほんの少しも思っていない。もしも陛下のご厚意がなくては、私はこんな幸せになど暮らせなかったというのに。
「ローレンス。こちらを向いていますか?」
「は?」
「私は見えません。だから、こちらを向いているか聞いたのです」
「……向いていたらなんだと言うのだ。この悪女め。私が青の君に向ける想いに、醜くも嫉妬した売女の分際で!」
「見ているのですね、私を。私の目を」
開く。ローレンスと共にあった時には開いた事のない目を。二度と光を映さない目を。
それはもはや元の役割を成さず、閉じようと開こうと変わらない無用の長物である。それが仮に、かつて瑠璃にも例えられた碧眼であろうとも。
「十二年前の夜。私の馬車は嵐に見舞われました。このままでは危ないと走らせるのをやめて立ち往生をしていたのですが、その時に暴れ馬が数頭現れてそのうちの一頭が私の頭を蹴ったのです。そして、大慌てで街に戻ろうとする途中で同じく立ち往生をしている馬車を見つけました。とても走れる状況ではなく、我々は彼らも拾って助ける事としたのです」
「は……?」
「私は馬車の中で、なんとか状況を知ろうとしました。後から思えばもう目は見えていなかったのですが、痛みに耐えて見ようとしたのです」
「は? いや……は?」
「ローレンス。あなたの見たものは、宝石でも調度品でもなかったのですよ」
見えない。ローレンスの見開かれた目も、閉じられない口も。
「フランシスカ!」
「お客様がお帰りだ。お連れしなさい」
夫の言葉で、警備が駆けつける。
ローレンスはどうやら何かを叫んでいたが、その内容はよく分からなかった。聞くに耐えず、だから聞いていなかったからだ。
「……怖かったです」
「そうかい? とても堂々としていて素敵でしたよ」
「あなたがそばにいたからです。一人なら震えていたでしょう」
こうして誰かに寄り添ってもらう事の温かさを、私は初めて知った。そして、寄り添う幸福も。
相変わらず、私の目は見えない。
見えないが、私の世界は美しく視えた。
これからもそれは変わらないだろうと、私は確かに信じている。