東京 その3
もう、深夜3時近くになっていた。
菅原さんと仕事をすると結構、雑談が長くなる。
これも、いつもの事だが・・・
「もう、こんな時間だな、帰るかなぁ」
撮影機材を撤収し、まとめて菅原さんと担いでコインパーキングに置いてある僕の自動車まで運ぶ。
エレベーターで重い撮影機材の入ったバッグをひとり1個づつ担ぎ1階まで降りた。
外に出ると南池袋の街は完全に寝静まっていた。
街灯だけが煌々と明るく、人気などまったくないのである。
もうすぐ、5月だというのに風が冷たい。
「でも、菅原さん 偉いね、ちゃんとお母さんの誕生日、覚えているんだもんね」
重い機材を担ぎ歩きながら僕は言った。
「そうかなぁ・・・信治はお母さんの誕生日とか、何もやらないのか?」
菅原さんも僕よりは少し軽いが機材を運んでいる。
「うん、なんか送ろうとか思ってはいるんだけど、気がついたら誕生日とか母の日とか、終わってるって事が多くて、結局 何もしていない」
菅原さんは僕の返答が聞こえないのか無表情に歩いている。
僕たちの足音だけが、静かな池袋の街の闇と街灯の明かりに響く。
ほんの少しだけ欠けた月が昇っている。
「俺、計算したんだよ」
結構真面目な顔で菅原さんがいきなり言ったので、僕には何の事だかわからない。
「え?何の事?」
訳がわからないので、聞き返した。
「あぁ、すまん。 ウチのオフクロが80歳まで生きたとして、1年に1回 秋田に帰ったとすると、あと5回しか会えない計算なんだよ、これが」
えーと、僕も計算した。
ウチのオカンは、今75歳だから、80歳まであと5年・・・
1年1回だと・・・あらぁ、僕も会えるのは5回だ。
「ウチもあと5回しか会えない計算だ」
僕は小さな声で返答した。
正直、少しショックだった、そんな事考えたこともなかった。
現代人の寿命が延びたとは言え、寿命80歳は妥当な歳だろう・・・
85歳まで生きたとしてもあと10回しか会えないのである。
90歳ならば、15回・・・いくらなんでも、そこまでは生きれないかも・・・
「いつまでも あるとおもうな おやと かね」
菅原さんはいつもの様にワントーン高い声でオチャラケて言った。
「昔から、そう言うだろ。 そういう事だ。」
今度は真面目な顔で言葉を継ぎ足した。
「それがわかっているんなら、菅原さん、田舎に帰れば?お母さんもきっと喜ぶよ」
と言いたかったが、言わなかった。
菅原さんは全てをわかっていて帰らないのである、自分自身の中に何かが引っかかっているのだろ、それを僕の思いつきの言葉で汚す事の様な気がしたのである。
「淳ちゃんの事もあると思うけど、両親に会えるうちに田舎に帰った方がいいぜ」
菅原さんは更に言葉を継ぎ足した。
淳ちゃん とは 僕の奥さん 村野淳子である。
なかなか言いにくい事だけど、ウチの奥さんは精神病患者である。
幼い頃から両親が不仲で、父親と母親の狭間で板ばさみにされ育った事もあり、主にそれが原因で統合失調症になってしまった、今では両親との間に大きな確執がある。
統合失調症 幻覚や妄想などの症状を呈し従前の生活能力が失われてしまう病である。
つまり、点いてないTVから映像が見えたり、盗聴器が部屋のどこかに取り付けられていると思ったり、見ず知らずの他人が自分の悪口を言っているように思ってしまう病気である。
彼女の田舎は京都で、僕の田舎の大阪と非常に近い。
しかし、彼女は関西方面に帰省する事を異常に嫌がるのだ。
それもあって、僕は大阪に帰らない一つの原因でもある、その事を菅原さんは言っているのだ。
40歳を超えた夫婦ならば、普通子供がいてお互いの事を、子供に合わせて「パパ」「ママ」とか「お父さん」「お母さん」とか呼ぶのであるが、我々夫婦には子供がいない為、今でも付き合ってた頃の様に僕は「淳ちゃん」と言っていたので、菅原さんも「淳ちゃん」と呼ぶ様になった。
「うん、わっかった」
僕は頼りなく答えた。
南池袋から護国寺方面に10分ほど歩いた所のコインパーキングに僕は自動車を停めていた。
池袋辺りの相場は一日12時間停めて上限3000円から3500円だが、この辺りまで来ると上限1500円なのだ。
この不景気だ、2000円の差は大きい。
重い機材を自動車のハッチバックから乗せて、料金を1500円投入する。
ウイィーン という機会音とともに車輪止が下がる。
「お疲れ様でした。」
自動車に乗り込み、窓を開け菅原さんに僕は言った。
「おう、気をつけて帰れよ! この撮影分の請求書早く送ってくれよ!」
静かな街に菅原さんの大きな声が響いた。
「菅原さんの会社が潰れる前に出しますよ」
「あはっはー」
また、二人で大声で笑った。
静かな街に大きな笑い声が響いた。
「んでは!」
僕は静かに自動車を発進させた。