房総激辛ラーメン殺人
第1話、朝の予兆
「人生まんざらじゃないね」
テレビを見ながら呟いた。久しぶりに朝の占い番組で誕生星座が一位だった。
今まで市川晶子の人生二十八年間、良い事と悪い事のどちらが多かったか? と聞かれたら「悪です」と即答できる位の経験をしてきた。
だから占いは、いつも信じないと心に決めていた。
でも天気予報を見るついでに、どうしても目に入る。今までは大抵、晶子の星座うお座は最下位だったり、BADという感じだった。十二星座が均等に幸せを割り振られているようには思えない。おとめ、ふたごといった可愛い系と、しし、おうし、おひつじ、やぎとかイメージ良さげな動物は、運勢の良い時、悪い時がドラマチックに演出されている。てんびん、みずがめ、いて、といった良く分からないモノ系は、逆に占い制作チームが「忘れてませんアピール」で上位に置きがち。そして、その他の共感しようのない生き物系、かに、さそり、うおあたりは、空いたところに適当にはめているに違いない。
でも、今朝は違う。恋愛運星三つ、金運星三つというスペシャルデイ。
「新しい出会いにワクワクする一日です」
過去にアイドルとの密会写真を撮られていた女子アナからの、明るいサービストークまでついてきた。
悪い気はしない。新しい出会いって、何だろう。
ちょっとワクワクしながら、朝の込み合う通勤電車に乗り込もうとすると、ドア横を占拠してスマホのゲームに没頭する小太りの中年に、ぶつかられた。目があった小太り中年は、チッ、と舌打ちすると、またキャラゲームに目線を戻した。
何だよ、感じ悪い。
途中駅で車内は空いてきた。見渡すと、白髪交じり、メガネ、ユニクロっぽい服を着た、何かだらしない感じのするオジサンたちが、満遍なく座席を占拠していた。若い男性が一人も乗ってない車両に乗り合わせてしまった。
今朝の占いは何だったのか。
完全にプチワクワク感は消失した。
改めて思う。町は元気な老人と疲れた四、五十代で溢れている。テレビのバラエティや情報番組を見ると、どれも「早く、世の中の煩わしいものから自由になっておばさんになりなさい」とメッセージを出している感じがする。こんな世の中で晶子は将来の不安を抱えて、友人関係に悩んで、お金のことに心配して、髪型とメイクに不満を抱えて、込み合った電車で老人達ににらまれる毎日を過ごさなければならない。
人生ですごく損をしている気がしてきた。
そんな時に限って、電車の扉近くに貼られている自己啓発本のコピー『金持ちがやらない十の習慣』、『自己肯定感低い人は損をする』が目に入って来る。
晶子の思考が負のスパイラルに入りそうになる。
やだやだ、気分転換に、週末どっか旅行にでも行かないとやっていられない。
モヤモヤとした嫌な気分を抱えて千葉中央駅を出ると、今度は飲食店のゴミ置き場からの腐ったような匂いが漂い。そして、春の埃っぽい空気と花粉に鼻がむずむずする。眼鏡が曇る、目がかゆい、揃えた前髪の感じがいつもと違う、肩も凝る。職場である千葉県警本部に着いて制服に着替えてからも、気分が重く、頭がボーッとして、くしゃみが出てくる。
でも、晶子の仕事は正面受付勤務。外からの来客を迎えるだけに、花粉の侵入からは逃げられない。
「感染症ですか?」
時節柄、問題のあることを平気で言える、隣に座っている茶髪のアイメイク濃い目の娘は、デリカシーゼロな後輩・野田真紀だ。
晶子と同じ派遣職員で、自分では要領が良いつもりだが、なぜか付き合う男はみんな自衛官という変わり者で一途な子。現在は習志野レンジャー部隊の猛者と付き合っている。
朝の忙しい時間が過ぎると、変化の無い、居るだけ業務が続く。
こうして私の二十代後半は、砂時計の砂のように止めようもなく過ぎ去っていくのか。
ワクワク感メーターは限りなくマイナスなり、包み込むのは重い気持ちだけになった。
「俺も花粉症になっちまったよ」
疲れた笑みを浮かべて、正面から現れたのは窓際警察官・防犯課次長の舟橋保男。
白髪交じりの長めの髪を分けて、グレーのスーツにノーネクタイ、黒いペラッペラッのスタジャンを着てダラダラとやってくる。
この人も晶子を取り巻く疲れた世界の一員だ。
「久しぶりだな」
今日はいつも以上に、くたびれた影を背負っているように見えた。
いつも舟橋はヒマらしく、受付横の休憩スペースに寄るついでに現れては無駄話をしていく。晶子がミステリードラマ好きと知ってからは、舟橋自身の刑事時代の話や、最近起こった事件の筋読みなどをして、時間をつぶしていく。出世のラインから外れた公務員ほど、うらやましい職業はない。
「私は、毎日ここにいますけどね。最近、舟橋さん見かけなかったですね。どこか行ってたんですか?」
晶子が聞くと舟橋は口を緩めた。
「ちょっとね、バカンス。休みを貰ってね」気取ったポーズでボケた。
何がバカンスだよ、毎日暇なくせに。
「それって定年前の有給消化ですね」希望通りに突っ込むと、嬉しそうにニヤリとする舟橋。
「そんなわけないだろう。あと三年は残っている。行った場所知りたい? ヒントは、まぁまぁ近場ということかなぁ」
「で、結局どこ行ったんですか?」
「木更津」
「おもいっきり千葉じゃないですか」
「はい、これバカンスのお土産」
舟橋から『上総名物のびわ煎餅』と書かれたお菓子を渡された。
「びわの実が擦りこまれているらしい」
このお土産どこかで見たことあると、晶子はパッケージの裏を見た。
「工場は千葉市内になっていますね」
「えっ、お土産屋の叔母ちゃん木更津名物って言ってたけどな」
舟橋は素朴に意外そうな顔をした。
「これ、千葉駅の売店で良く見ます」
話していても花粉で頭がボーッとして来る
「相変わらず市川の観察力はスゴイね。今の捜査課の連中より、よっぽど刑事に向いてるよ、受付に置いてくのは勿体ないね」
「私は、今の仕事でいいです」
過去に晶子はアルバイトとして、舟橋の未解決事件の捜査を手伝ったことがある。が、どれもビターすぎる結末になり、良い思い出は一つもない。
「今度、木更津に行ったら採れたてのアサリをお土産に買って来るから、楽しみにしてよ」
「スーパーで、普通にむき身を安く売ってますから、いらないです」
「そうだ、そろそろ昼休みだけど、この後時間ない? 不思議な話があるんだけど」
舟橋はそれが本題だったと見えて眉毛を少し上げた。
「おじさんの不思議話を聞くほど、私は暇じゃないですから」晶子は冷たく突っぱねた。
「いや、そういうファンタジーじゃなくて、リアルな話。しかも難事件が絡んでいるかもしれないやつだよ」
そう言われると晶子も気になってしまう。
小学生の頃から図書館で星新一と江戸川乱歩を交互に読み漁り、家では二時間サスペンスの再放送のファンとなり、自由帳に『事件関係者相関図』を作って楽しんでいた。そのおかげで、今もラブストーリー映画を見るより、ミステリーかアウトロー映画を見る方が落ち着く。
晶子の興味を察知した舟橋は、「じゃあ、話はこの後ということで」と軽いノリでまとめて来た。
「どこで話します?」
「あえて、十階の食堂とかどう?」
「全然、いつもどおりじゃないですか」
提案に意外性が無さすぎるだろ。
第2話、不可解な事件
昼休み、千葉県警本部の十階にある職員食堂。
晶子が一人で行くと、入り口でトレイを持って舟橋が待っていた。
「やっぱり現れたな」
現れたな、じゃないよ、こっちは忙しいんだよ。心でぼやきつつ、晶子は入口に立てかけられている本日のメニューを見た。格安三五〇円の日替わりメニューは油揚げ定食とタンドリーチキン定食と書かれていた。決めにくい極端な二択だ。
定食は諦めて、晶子は手堅く定番のサービスカレーにした。舟橋は迷いなく油揚げ定食を選ぶとトレイに小鉢を乗せ、おごる気は全く見せずに、とっとと先に会計へ向かった。
晶子も無料で付いてくるホウレン草と煮卵のミニ総菜二点を選んで、食堂奥のテーブルに向かった。なぜなら、そこで舟橋が席を取ってこちらに手招きしている。他の職員も大勢いる中で、ハズいことこの上ない。
「怖いよなぁ、最近」
舟橋が意外な切り出しで、話を始めた。最近話のつかみを研究しているようだ。
「何がですか、舟橋さんお茶とお水どっちがいいですか」
どうせ飲むのだからと、舟橋の分も一緒に取りに行った。
「あっ、すまん俺お茶派ね」
晶子は給水機から二つのコップを持って戻った。
「いや、なんか激辛ブームだってな、最近」
また意外なネタを入れて来た。しかし、激辛ブームは最近でもないだろう。
「昔の辛口が、今の甘口ぐらいらしい」
舟橋はつかみを狙いすぎて、話の狙いが全く分からない。
「一体、何が言いたいんですか?」
「まぁ、そう急ぐなよ。順番に話してあげるから、俺は休みに木更津に行ったって教えただろ、でも本当はバカンスじゃないんだよ」
どうだ、と言う感じで間を空けると、舟橋はお茶を一口飲んだ。
「どっちでも、いいですけど」
「あれね、本当は不動産屋に行ったんだよ」
「異動の話無くなったんでは、ないんですか」
本部内人事異動を晶子は、暇な時に良く見ていた。舟橋は木更津署への左遷が決まりかけていたのが、直前で取り消しになったはずだ。
「そうなんだよ。最初異動の内示を受けた時には『この年になって島流しかぁ』って気が重くなったんだけど。いざ下見に木更津に行ったらさぁ、これが結構いい街だったんだ」と嬉しそうな顔の舟橋。
「リタイヤ後、南総暮らしも悪くない、と思い始めてね、ついでに家を探したら条件のいいアパートを見つけてさ、内金まで入れたんだ。仮押さえね」
話しながらも舟橋は、ネギしょう油のかかった油揚げを、ご飯の上に乗っけて美味しそうに包んで食べていた。
「行く気まんまん、だったんですね」
「その時はね、それでさ、この間の手柄で異動が急遽なくなったので、アパートの解約と、お詫びでこの間は行ったんだけど」
「手柄というか、警察内部の隠蔽ですよね」
「しっ、まだこの話はデリケートなんだよ」
前回、『クマの着ぐるみ殺人事件』の顛末で、千葉県警は初動捜査の見落としが露呈することを恐れ、『舟橋は定年までどこにも出さない』という高度な組織判断をしていた。
この県最大の未解決事件で、真相の解明に多大な協力をした晶子のところには、何の褒美もなく、不安定で退屈な受付派遣社員のままだった。
不快な気持ちを紛らわすように、晶子は普通すぎるカレーを口に運んだ。
舟橋の話は続く。
「そんで、不動産屋で解約手続きした後に、昔仕事を教えた後輩が、隣の君津署にいるのを思い出したんだよ。このまま一人で、ホテルに帰るのも寂しいので、そいつに連絡してさ、二人で夜飲む約束をしたんだ」
「旅飲みですか、充実していますね舟橋さん」
「まぁね」
ここまで聞いて晶子は、おじさんが木更津で友達とただ酒を飲んだ話で終わらないことを祈った。
「市川くんは、君津行ったことある?」
何で急に『くん』付けした?
「木更津は潮干狩りとかで行ったことありますけど、君津はないと思います」
サーファーや釣り好きでもない限り、千葉市民は房総半島の南や東の奥地へ行くことは少ない。遠足や、小さい頃の家族旅行を除くと、晶子も行った記憶がない。
「君津といえば、昔のイメージは工場と暴走族が多い地域だったんだが、行ってみてビックリしたよ、全然違った。キレイで良いとこだったよ、駅前も思ったより発展して、すごく便利そうだったよ」
舟橋は目を輝かし、晶子の知らない町をただ褒めた。
「だったら、舟橋さん、まだ間に合いますよ、早期退職して行ったらどうですか」
晶子は適当な受け応えをした。
「いや、それはあくまで第一印象ね。俺もまだまだ忙しいから、もう少し本部に居たい」
「結局、何の話なんですか」
話を聞きながら食べていたおかげで、もうお腹がふくれてきた。結局、舟橋のただの暇つぶしに付き合わされたようだ。
「そうだった、ここからが本題ね」舟橋は箸を置いた。
「後輩の仕事が終わる夜九時まで、俺は時間つぶして待ってたんだけど、急にドタキャンしやがったんだよ」
まぁ、向こうは現役で忙しいはず。それはしょうがない。ムキになる先輩の方が情けない。
「すいません急に緊急事件が発生しました! とそいつから急にLINEだよ」
LINEに予告も急も何もないだろうとは思ったが、晶子は舟橋の言った言葉に何か引っかかった。
「おっ、気になった?」ニヤリと笑みを浮かべ、舟橋は油揚げをまた食べ始めた。「気になるよな。やっぱりな、市川ならこの話、興味持ってくれると思ったよ」
「いや内容じゃなくて、LINE使ってることが気になっただけです」
「LINEぐらいやってるよ。俺も進化してるんだ。それより事件だよ。慌ててそいつに電話かけたらさ、恐ろしい事言うんだよ。『先輩、駅前にあるビジネスホテルで血まみれの遺体が見つかりました』って」
油断していただけに晶子はひるんだ。
「えっ、それって事件ということですか?」
血まみれという言葉から晶子は他殺を連想したが、県内で殺人なんてニュースを直近では見ていない。
「現場は、グランドロイヤル君津ホテルっていうんだよ。名前大げさだよな」
「そこはどうでもいいです。なんで血まみれだったんですか?」
「分かってるよ。俺も元刑事だ、後輩の声の慌て方聞いただけで、これはただの遺体じゃないとピンと来たね」
「で、殺人だったんですか」
「いや、俺もピンとは来たんだけど、事件かどうかはまだ分からない」
じゃあ、何のピンだよ。
このままでは、話を楽しみ始めた舟橋に貴重な昼休みを潰されかねない。
「君津署では、病死ということになっているらしい」
なんか、間の話が大きく跳んでいる。晶子はさらに聞いた。
「血まみれだったんですよね? なんで病死なんですか」
「血まみれって口からね、吐血ね。だから持病での病死ということで、君津署は処理したようなんだが……ただね」
舟橋はまたお茶を飲んでもったいぶった。
「早く、そこだけ教えて下さい。ちょっと私このあとコンビニ行きたいので」
晶子が急かすと舟橋は姿勢を前に寄せてきた。
「俺が手に入れた情報によると、被害者は死の直前にとてつもなく辛いラーメンを食べていたらしい」
「だから、何なんですか」
晶子は冷たい目で言葉の続きを待った。
「つまり、激辛ラーメンを食べたことが本当の死因じゃないか、と俺は睨んでいるわけだ」
舟橋はそこまで言うと、晶子の様子を伺い、味噌汁を片手で飲み干した。
もし、本気でそんな死因を警察官が考えてるとしたら、否定してあげるのも優しい市民の役割だ。
「それは絶対ないです」
「えつ、即答で否定。とてつもない激辛ラーメンだよ。充分考慮に値すると思うけど」
舟橋は真顔で言っている。
「激辛ラーメンで吐血して死んだ事件なんて、聞いたことないですよ。だったら毎日キムチ食べてる韓国なんて、血まみれ死体だらけになりますよ」
晶子は呆れた。
「うーん、そこは程度問題だろ」
「むしろ、唐辛子は美容と健康にいいらしいですよ」
「だって、被害者の吐しゃ物は真っ赤だったらしいぞ。警察で調べた結果、血液と激辛ラーメンが交じり合った恐ろしいモノだったって」
「いやいや、死因を考えるならもっと他にないんですか? 小さな針で刺されていたとか、毒薬を飲まされたとか、検視でその辺分かるんじゃないですか?」
「まぁ、話を聞いただけの人間は、そう思うのも無理はない」
「舟橋さんも聞いただけでしょ」
「俺は、その事件の現場を見た後輩から、直に聞いたんだよ」
「直も間接も、聞いた話には違いはないですよ」
いつものこととはいえ、現役警察官としてあまりに緊張感なく、漠然とおもしろ死因を連想する舟橋の呑気さに、晶子はイライラしてきた。
「激辛ラーメン以外に死因はあるはずですよ」
「でもさぁ、被害者はホテルに戻る直前に、わざわざ隣の木更津市に行って、激辛ラーメン食べてるんだよ。最後に食べたもので吐血って、一番自然な推理だと思うけどな」
「そのお店で、他にも食べたお客さんいるわけでしょ。皆死にました?」
「まぁ、そう否定したくなる君の気持ちも分かる。だから、詳しく状況説明するから、もうちょっと話聞いてくれる?」
昼にコンビニ寄るのは諦めた。もし本当にそんな殺人容疑のかかるラーメン屋があるのなら、それはそれで晶子も気にはなる。
「さっき言った後輩、鴇田って言うんだけど、そいつが現場で目撃したことを説明させてもらうよ」
第3話、鴇田
(舟橋の事件回想)
「緊急要請、グランドロイヤル君津ホテルから宿泊客とトラブル発生と入電あり……」
令和三年三月二十四日水曜、二十時三十五分に千葉県警察通信指令室に一一〇番入電があった。
ちょうど、巡回先から君津署に戻る途中だった生活安全課の鴇田巡査は、無線を受けると現地に駆けつけた。
二十時四十五分。グランドロイヤル君津ホテルに到着。
鴇田巡査は、一一〇番に通報を入れたフロント係の林明輝から状況を聞いたが「客室が変だ」という以外は、極度の動揺から詳しい状況を聞くことは出来なかった。本来であれば、応援を待って二人以上で行動するべきであったが、慌てているフロント係に引っ張られるような形で、鴇田は問題の発生した1121号室へ向かい、マスターキーで部屋に入った。
そこで宿泊者・森田直道さん(三十四才)が浴室で倒れているのを発見。二十一時五分。君津署より出動した刑事課二名が到着。そこで宮崎巡査部長が救急要請をするが、森田さんは搬送前に死亡が確認された。
同室で負傷した鴇田巡査も病院へ搬送されたが、その後症状改善して署に戻った。
そのまま鴇田は、本件捜査から外された。
「これが、事件のあらましだな」
舟橋はメモ帳を見ながら晶子に言った。
「えーと、確認させて下さい。舟橋さんの後輩が鴇田巡査ですよね? 最後にちょっと書いてある負傷したってとこが気になるんですが、部屋に他に誰かいたんですか? それとも死亡した被害者が加害者? ややこしいですけど」
「いや、部屋には被害者の他に誰もいない。そして被害者は到着時には既に死亡していた。鴇田の怪我はたいしたことない。これは間違いない」
いつも舟橋の話は、小出しで良くわからない。
「でも、現場に最初に到着した警官を、軽い怪我をしたからって、捜査から外すって、変ですよね」
晶子はさらに質問した。
「やっぱりそこ気になるかぁ? まぁ順番に話すから」そう言う舟橋も、どこから説明しようか迷っている様子だった。「俺はね、事件が起こったその時間、木更津のホテルの部屋で、コンビニで買ったつまみで一人わびしく飲んでたとこだ。でも鴇田からその後連絡がないので心配になって、十一時頃にそろそろ落ち着いただろうと思って電話したんだよ。そしたらさ、電話の向こうで鴇田が泣いてるんだよ。『先輩すいません』って、それで事情を聞いたら捜査から外されたっていうんだよ。だから俺も心配になってさ」
この後も舟橋の説明は続いた。
(舟橋の事件回想 つづき)
三月二十四日(水)二十三時十分。
君津署の二階休憩室で、舟橋の電話を受けた鴇田巡査は疲労困憊していた。
「先輩、俺、悔しくて悔しくて、どうしたらいいんでしょうか」
「何があったかは知らないが、警察だって組織だ。捜査から外れることもある。気にすんなよ。いろいろ事情があるんだ。お前が悪いんじゃない」
舟橋の優しい言葉に、鴇田は胸がつまった。
「ありがとうございます」
涙で目を赤くして、鴇田はスマホを耳にあてながら何度も頭を下げた。
「お前のツラさ、俺にもよく分かるぞ」
ホテルの部屋で寝っ転がってチューハイ缶を飲みながら、舟橋は現場叩き上げ人情派先輩風を吹かし始めた。
「聞かなくても俺には分かるよ。恐らく一番乗りしたお前が生活安全課だったから刑事課から横槍されたんだな」
縦割り組織の警察では良くある話だ。
「違うんです」
「何が」
「横やりとかじゃなくて、自分のせいなんです」
責任感のあまり、自分を責めるその気持ち。舟橋にも覚えがあった。
「あんまり思い詰めるんじゃないぞ」
「先輩の優しい言葉マジ染みます」
「でも完全に外すってのはひどい話だ。俺が捜査に戻すように掛け合ってやる」
自分の立場をわきまえず、舟橋は虚勢を張った。
「それは無理なんです」鴇田は何か言いにくそうになった。
「何で」
「実は、やっちゃってまして」
「何を」
「初めてなんですよ。変死体を見たのが、それでちょっと慌ててしまって、やらかしました……」悔しさを噛み締めるように言葉を絞り出した。
「まぁ、誰だって最初はそうだよ。気にすんな、失敗の程度にもよるけどな。ちょっと状況教えてくれ」
新人警察官にありがちな話と、舟橋も電話しながらのんびりと構えていた。
「今日は二十時半には勤務終了予定でした。明日は非番だったので、舟橋先輩と久々に朝まで飲むぞッ、と楽しみにしていたんです。自転車に乗って巡回先から君津署に戻る途中で、緊急要請の入電があったんです。その時ちょうど別の場所で喧嘩があったらしくて、地域課が出払っていて、現場の一番近くで動けるのが私しかしなかったんです。それで先輩には断りのLINEを入れて、現場に向かったんです。すいません」
「いや悪くないよ、飲み会より仕事優先。当たり前のことだ」
「ありがとうございます。それで誰よりも現場に早く到着したんですが、ホテルのフロントが慌てているのか、上手く話が通じないんですよ」
「まぁな、そういうこともあるよ。夜勤中のトラブル発生だから動転してるんだな。いつも警察官は市民に優しく寄り添うべし。俺教えたよな」
「そうなんですが、話を聞こうとしても、何かすごく慌ててて、『誰も出てこない、一緒にお願いします』ってことだけなんとなく分かったんです。その時は、ただ酔っ払って部屋で熟睡しているか、鍵を持って外出したのをフロント係が見過ごしたんだろう、くらいに思ったんです。本当なら応援を待ってから部屋に入れば良かったんですが、そのとき『警察官たるものいつも市民第一であれ』という先輩の言葉を思い出しました」
「それも、覚えていてくれたか」
この辺までは、まだ舟橋も余裕があった。
「はい、ただ思えば、それが私のおごりだったんです」鴇田の声が小さくなった。
「そんな、強い気持ちを持てよ。クヨクヨするな」
「フロント係と一緒に部屋に様子を見に行ったんですが、ドアをノックしても返事が無く、マスターキーで部屋を開けることにしました」
「それで、どうだった」
「ここは気合い入れて! と思い勢いつけて部屋に飛び込んだんですが……真っ暗で良く見えなくて、部屋の机の端に向こう脛を思いっきりぶつけてしまって、後ろに転んでしまったんです」
「ドンマイ、それくらいの失敗は、警察官の勲章だよ」
適当に舟橋は後輩を庇った。
「それで慌ててしまって、何かをつかもうと手を振り回していましたら、ベッドのシーツとか、椅子とかを引っ張ってしまって、急なことだったんで手袋もしてなくて、あっちこっち触ってしまいまして……」
「それは良くないけど、まぁそういう事もあるよ」
「先輩って優しいですね。ウチの連中とは大違いです。場数を踏んでいる余裕感じます」
「まぁな、それで死体はどうだったんだ」
「はい、フロント係が部屋の明かりをつけてくれました。でも、ベッドの上には誰もいませんでした。バスルームのドアが少しだけ開いていて、そこから赤い……血が垂れていたんです」
「マジか、やばいな」舟橋は思わず声に出した。
「フロント係は、悲鳴を上げて部屋から逃げていきました。私はこの風呂場で宿泊者に何かあったに違いないと思い、恐る恐るドアを開いてバスルームの中を見ました。そこには血だらけで洗面台に倒れ込んだ人がいたんです。水が出しっぱなしで、それが血と一緒に溢れ出して床は真っ赤になっていました」
「それは……大変だったな」
「私は急に気持ち悪くなってゲロゲロゲロッってその場で吐いてしまった……です」
鴇田はその後無言になった。
「うーん、そういう事もたまにはあるかなぁ」と舟橋は電話ではいたわりながらも、「これはひどすぎる」と鴇田の警察官適性を疑い始めた。
「それで、お前はどうしたんだ」
「はい、あわてた拍子に姿勢を崩し、私は遺体の上に倒れかけ……危ないって咄嗟に手をついたら、それは被害者の頭でした。そのせいで遺体が変な方向に動いたので、怖くなって逃げようと思って振り向いたら、ドアに思いっきり頭を打ちつけて、意識を失って倒れ込んでしまいました。応援部隊に発見されるまで記憶がありません……以上であります」
良いところが一つもない鴇田の報告に、フォローする言葉が見つからない。
「現状保存どころか現場をメチャクチャにしてしまいました。すいませんでした! 先輩、聞いてます?」
「あぁ」舟橋からは何も言葉が出てこない。
鴇田よ、素人でもそこまでの愚か者は聞いたことない。
「……その後、病院で検査してもらって脳に異常なしということで、君津署に戻ったんですが、そこで生安の主任から死ぬほど怒られて、現場に戻るな、と捜査から引きはがされました。課長にも電話でまた死ぬほど怒られて、そのまま『しばらく自宅待機しとけ』ということで……今に至ります。新人の頃に伝説の刑事・舟橋先輩に指導して頂いたにも関わらず、とんでもないヘマをやらかしてしまい本当に申し訳ございません。今はとにかく、何とか挽回したいと思っております」鴇田は電話の向こう側にいる舟橋に深い礼をした。
舟橋が思った以上に失点だらけの鴇田の初動捜査だ。これは、どうすることも出来ない。この面倒な後輩には、あまり関わらないほうがいいなぁ、とも思い始めた。
「まぁ、起きてしまったものは、悔やんでもしょうがない。気にするな、若いときに大失敗するやつは大物になるっていうからな、ハハハハ、じゃあな、おやすみ」
この電話を切って、ビール飲んで早めに寝てしまおうと舟橋は思っていた。そんな内心も知らずに、鴇田は励ましの言葉と本気で感動した。
「さすが先輩は器でかいですね! 千葉県警に舟橋ありと言われるはずです。ウチの現場経験の無い、窓際万年課長に聞かせたいですよ」
褒められると電話が切れなくなる。
「まぁまぁ、俺は寛容な男だよ。働き方改革の時代、ガミガミ言うばかりが指導じゃないよな。はははは、じゃあ……」
電話切ったら、コンビニでチューハイ買い足して置いたほうがいいかな、と舟橋は考え始めていた。
「でもですね、納得いかないのは、遺体の検視なんです」
「もう、いいじゃないかその話、あんまり引きずるなよ」
舟橋は話を終わりたい一心だった。
「いえ、先輩聞いてください」
鴇田はさっきまでの恐縮した声の様子が消え、訴えるような口調になった。
「検視官は、『胃炎による吐血を器官に詰まらせた窒息死』と言ってるんですが、僕は違うと思うんです。だって僕は見たんですよ、被害者の無念の表情を! しかも、誰よりも早く。被害者が何かを訴えかけるような顔が忘れられません。きっと署長は夏休みの観光シーズンに備えて、余計な面倒は起こしたくないと思ってるんですよ。まぁ、現場検証は、その後、僕が倒れこんじゃって体を踏んづけて、ちょっと変形しちゃったから、手間がかかったみたいですが、病死に決めつけるのが早すぎますよ。先輩、どう思います」
「まぁ、そうだな」舟橋はもう難しいことは考えたくない、「今日は疲れただろうし、まずは体を休める。警察官にとって健康は大事だぞ」と適当な一般論で終わろうとした。
「先輩! もう無理しないで下さいよ」
鴇田は急に声を荒げた。
「だって今の僕の話を聞いて、本当は先輩も刑事の血が騒いでるんですよね。えぇ分かりますとも、僕の無念の気持ちを一番理解してくれるのは先輩ですから。千葉県警で知らない奴はいません。伝説の刑事です!」
今ただの定年前のおっさんだが、舟橋の刑事時代の実績は抜群だった。刑事課一筋で、現場経験はずば抜けて長い。松戸署時代にフジテレビの『警察二十四時スペシャル』に出演したこともある。その時、酔っぱらって傷害事件を起こした犯人を確保する映像に、乗ったテロップが『怒ると怖い松戸の虎! 現場一筋 伝説の男・舟橋巡査長』だった。それ以来、県警の一部から舟橋は『松戸の虎』、もしくは『伝説の刑事』と呼ばれるようになった。
このフレーズ舟橋自身も気に入っている。
「まぁな。でも今は謹慎中なんだから、お前は将来のある身だ、無理は禁物だぞ」
「うっ、ありがとうございます。先輩ならきっとそう言っていただけると思っていました。よろしくお願いします」
「いや、特に何も言ってないけど」
「言わなくても分かりますよ。先輩、私の代わりに捜査してくれる気なんですよね」
舟橋は話の展開に驚いた。
「えっ、何でそうなる」
「噂は、僕も聞いてますよ」鴇田の声が小さくなった。「先輩が、こっそり未解決事件を次々解決しているってこと……」
「えっ」
「分かってます。千葉県警本部長の特命を受けた極秘捜査ですよね。絶対に先輩が動いていることは、他言してはいけないってことも知ってます」
「一体何の話してるんだ、お前は」
「僕たちのような辺鄙な警察署でも、その辺の極秘情報は入ってきちゃうんですよ。今回君津にいらっしゃると聞いた時に、なんか運命を感じたんですよね」
「なんの運命だよ」
「そんな、先輩に捜査を請け負ってもらえるなんて、オレまじで光栄です」
鴇田は、キャラをころころ変えながら、先輩舟橋もころころ転がした。
褒められると舟橋は簡単に調子にのる男だった。
「うーん、いやまぁな。わかったよ、今日はまずは休め、じゃあな」
舟橋はホテルの部屋で、曖昧な笑みを浮かべたまま、思考が止まったようになった。
第4話、事件じゃないけどやらせていただきます。
長い説明を終えると、舟橋はお茶を一口飲んで晶子を見た。
「で、そういう訳なんだけど。全く俺たち困ったことになったな」
「いえ、全然私には関係ない話です」
事件捜査に巻き込もうとする舟橋に、晶子はキッパリと拒絶の意志を示した。
「そう言うなよ、俺が木更津に行ったのも、元をたどれば市川の類まれな推理能力が原因みたいなもんなんだからさ、今回も協力してよ」
この勝手な言いぶりに、向かい側に座る晶子はなるべく目の焦点を定めないようにした。
「はい、えーっともうこんな時間だ。大変、私戻らないといけないので、舟橋さんは千葉の激辛スポット巡りでもしていてください。では」
晶子はトレイを持って食堂の席から腰を浮かした。
その時、スマホのデフォルト着信音が鳴った。
「おっ噂をすれば早速、鴇田からLINEが来たぞ」舟橋はポケットからスマホを取り出した。
「舟橋さんも、スマホ使いになったんですね」
スマホを睨みながらニヤリとする舟橋。
「ちょっと前からね、娘から『緊急連絡する時に必要だから』って言われて、俺のクレジットカードで娘の分も一緒に買わされた。しかも通話料まとめて俺払い。なのに娘からの連絡は全くなし」
「別居中のパパは辛いですね」
晶子は立ったまま憐れみの目で見た。
「ちょっと、LINEみるよ」
そう律義に断ると、舟橋は老眼鏡を取り出し画面を凝視した。
「なになに、『先輩だけが頼りです。俺の信念を証明してくださいって』だって。なかなかかわいいやつじゃないか、なぁ」と晶子に同意を求めた。
「何が『なぁ』ですか。舟橋さんの話を聞いていると、その後輩は刑事属性ないですね、早くデスクワークに異動したほうがいいですよ」
「そういわずにさぁ、相談に市川も乗ってあげてよ、こいつも必死なんだから。ほら見て、この画面」
そういって舟橋はスマホを晶子の方に向けた。気乗りしないが一応その画面をのぞき込んだ。
突然、妙な胸騒ぎがしてきた。
何か気になる。でも、そんな訳ない。
「舟橋さん、ちょっと貸してください」
「どうぞAPPLEだぞ」
変な自慢をする舟橋だが、晶子が確認したかったのはLINEの内容ではない。そのアイコンだった。
なぜなら、そこには信じられないくらいの爆イケメンが写っていたからだ。俳優の岡田健史似のイケメンが、片手を前に突き出し笑顔でポーズする写真がアイコンになっていた。
「もしかして、この人が舟橋さんの後輩ですか?」
晶子はトレイを置いて座席に座り直した。
「そうだよ、さっき言った鴇田ね」
「この写真も、その人で間違いないですか?」
何気ないふりをして晶子は舟橋に確認させた。
「そうだよ、どうかした?」
マジか。この画像が本物だったらエライことだ。ただ、そう簡単には信じられない。念には念を入れないと。
晶子が立ち去りかねていると。
「鴇田の身長は、一八〇センチ位だったかなぁ、もうちょっと高いかもしれない。まだ確か、独身、彼女は今いないとか言ってたな」
聞いてもいない追加情報を舟橋が出して来た。
「年齢は確か二十八、九歳位だったかな。三十前に結婚しろと親から言われているそうだ」
「いや聞いてないですけど……(タメなのか)」
いらん情報にも晶子はドキドキし始めた。
それくらい、ちょっと千葉では見かけないレベルの、鴇田は『顔面天然記念物級イケメン』だった。
「子供達からは、わりと好かれるとか言ってたな」さらに舟橋は情報を盛り続ける。
「だから聞いてないですけど……」
いや知りたいけど、このオジさんからは聞きたくない。
「でも、今回のような不手際起こしたから、この先出世は望めないな。公務員は減点主義だから、大手柄でもあげて挽回しない限り、希望する刑事課異動は絶対無理。刑務所勤務とかもあるかもな。鴇田は子供の頃から刑事になるのが夢だったらしいんだが、かわいそうにな」
舟橋はやけに感情を込めた言い方をした。
「いや私ただの受付ですから、そんなこと分かるわけ無いですよぉ」
あからさまに捜査へ晶子を巻き込もうとする。ただ舟橋への拒絶も、いつもより優しくなってしまう。そして、鴇田への興味がどんどんわいてくる。
ここは冷静にならないと、このままでは舟橋の術中にハマってしまう。
「えーっと、こちらの方、鴇田さんでしたっけ? すいぶん思い込み激しい人なんじゃないですか、だって被害者の顔をほんのちょっと見ただけで『無念そうな表情だから自然死じゃないはずって』って言うのは、ちょっと単純すぎじゃないですか」
二十八才未婚で彼女無しの顔面天然記念物には、何か欠点があるに決まっている。そうとしか考えられない。
晶子のひとまずの警戒心表明に、舟橋は軽く首を振った。
「違うんだよ。もう一つ徹底的なものを鴇田は見てるんだよ」
「また、急に怪しい前振り、それって何なんですか」
「鴇田が被害者の部屋に入った時、床に『紙』があったそうなんだよ」
「ただ紙があったって言い方あります? 何の紙ですか」
「そう鴇田が言うんだからしょうがない。多分メモのことだと俺も思う。そこに被害者の筆跡で走り書きがしてあったそうだ」
「うわ、もったいぶりますね、なんて書いてあったんですか」
舟橋は間を一拍あけた。
「そのメモには『二十人殺す』って書いてあったらしい」
いたって真面目そうな顔で猟奇的なことを言い出した。
「うわ、何ですかそれ、めちゃめちゃ怪しいじゃないですか」
「そうだ、ダイイングメッセージと言ってもいいなこれは」
「でも、そんなこと書いてあるのに、何で君津署は事件性なしの、病死扱いにしてるんですか? おかしいですよね」
「なっ、おかしいだろ。でも、その辺のことは鴇田本人じゃないと分からない」
ここで晶子は朝の『占い天気予報』を頭の奥から引っ張り出し妄想に入った。
『新しい出会いにワクワクする一日です』とか言っていたな。どうせ適当に寝不足の番組スタッフが思いつきで張り付けた言葉なのかもしれないが、占いランキング一位とするからには、それを裏付ける何かしらの理由があるはずと信じたい。占い自体を信じているわけではないが、不思議な運命というものは否定できない。だって、毎週宝くじではどこかの誰かは一億円を当てている。運というものが人の生き方に関与していることは否定できない。いや人生を左右することもあるはずだ。
無骨な警察官だらけの職場で、朝から夕方まで変化のない退屈な仕事を薄給で真面目にやり続ける私。満員電車ではきもい親爺に至近距離からにらまれ、昼はヒマな定年前の警察官の無駄話にも付き合っている私。今まで運というものに頼ることをしてこなかった。いやむしろ運から無視され続けてきた。つまり、これを逆に、逆に考えると、二〇代女子の平均値からすると相当私には『運』のポイントが知らないうちに溜まっているはずだ。
短時間の妄想を経た結果、晶子が発した言葉は、
「謹慎中の鴇田さんに、会わないことには話が進みませんね」
普段用心深い晶子にしては、直球で、無防備で、素朴すぎる決定だった。
「えっ、捜査協力してくれんの?」
お茶を飲んでいた舟橋は咳き込んだ。
「お話を伺ってますと、今回の事件は急を要しそうですね。どうしても事件の印象が薄まる前に、しっかり聞き取り再調査をしておく必要がありますね」
熱くなりかけた心を悟られないよう、晶子は努めて冷静さを装った。
「あれぇ、いつもよりやる気じゃないか」
舟橋の勘はこういう時だけ良い。
「そんなことないですよ、舟橋さんに任せておくと、またお得意の暗礁に乗り上げちゃうじゃないですか、それを心配してるんですよ。スケジュールは、そうですね……」
晶子はスマホを取り出してスケジュールを確認した。
「今週土曜日とかどうですか、先方様のアポイントお願いします」
「えっ、俺土曜日髪切りにいくつもりなんだけど。別に行かなくても、お前がここで推理してくれたら、俺の方で何とかするからさ……」言い出した舟橋の方が慌てていた。
「ダメですね。ここじゃ、何もわかりませんね。現地の匂いや空気を知ることで真実は語りかけるもんなんですよ」
舟橋はちょっと考えるような顔をして、「まぁ君津に忘れ物もしてきたから、そのうち行くつもりだったんだけどさ、日曜じゃだめか?」と提案してきた。
晶子は首を横に振る。
「一日経つとそれだけ、証拠が薄れていく、そう横山秀夫先生も言ってますよ」
「横山秀夫が言ってるのか、じゃあしょうがないなぁ、土曜に行くか」
即リスケしたあと、舟橋は悪い顔をして晶子をのぞき込んだ。「でも珍しいな、お前がそんなやる気になるのは、何か他に目的でもあるのか」
晶子はさりげなく窓の外に目線を動かし「まぁ、舟橋さんの良く言う、乗り掛かった舟ですよ」と軽く答えた。
「お前の魂胆は分かっている。また、俺にメシおごらせようとか考えているんじゃないの?」
舟橋は何も気づいていなかった。
「相当、がめつい女だと思ってますね。私だって警察の末端でご奉公する身です。一人の警官が真相解明に苦しんでいるのは、ほっとけません。しかも現場に、ダイイングメッセージがある事件なんて、一生に一度あるかないかですよ」
晶子が逆に迫る形になっていた。
「でもなぁ、鴇田もそそっかしいところあるからなぁ。大丈夫かなぁ」
「しっかりしてください! 大事な後輩なんでしょ」
舟橋はまたちょっと考えるそぶりを見せた後、
「よし、分かった。俺も先輩だ、土曜まで待てない。明日すぐ行こう。市川、金曜仕事休め」
「明日は無理。土曜が色々都合いいんです」
「分かったよ」
「一応捜査協力ですので、お礼はアマゾンギフト券でお願いします。別途交通費・諸経費は舟橋さん持ちでお願いしますね」と付け加えると、晶子はトレイを持ってさっさと席を離れた。
「どんどん、遠慮なくなっていくなぁ……」
残された舟橋は残ったサービスの味噌汁を飲み干した。
第5話、万葉軒のとんかつ弁当一択
君津で変死体が見つかった日から、三日たった週末の土曜日。
所轄署の鴇田と会うことになった。その目的は、第一発見でありながら捜査を外された鴇田巡査の名誉回復という、フワフワしたものだった。
舟橋から説明を聞いた時は、ワクワクと勢い込んで再捜査を主張した晶子だったが、家に帰って冷静になると、「もう一度、関係者にちょっとだけ話を聞いたとしても、所轄署の調べ以上に、何か新しい発見が出る可能性は低い」と思い始めた。
でも、晶子にとって一番大事なことは、アイコンで見た、現在絶賛独身中の超絶爽やかイケメン・鴇田が、実際のところ世の中に存在するのかどうか? を確かめられればいい。
どうせヒマだし、鴇田が写真と全然違っても、適当に観光して帰りにお土産を舟橋に買わせれば、それなりに意味のある一日になると打算した。
そんな邪念をまとって晶子は、待ち合わせ場所のJR千葉駅中央改札口付近に来た。
時間はちょうど、午前十一時。
舟橋からは、待ち合わせの場所と時間を指定されただけだ。捜査にしてはちょっと遅くないかい? と思いながら、こういうシチュエーションでの舟橋登場パターンを考えつつ、付近をきょろきょろと見回していたた。
すると、「おーいこっち! 」と声がする。
改札の中で舟橋が手を振っている。
なんで先に中にいる。晶子はパスモで改札をくぐった。
「ちょうどよかったよ、今電車が入って来たとこ、急いで」
先を急ぐ舟橋を追いかけて、内房線と表示されたホームに降りた。そこには黄色と青色帯の各駅停車が停まっていた。
特急の指定席に乗る、とばかり思っていたが、着いた電車に跳び乗るという、舟橋らしい行き当たりばったりプランだった。
列車後方車両に乗り込むと、車内は対面シートがある本気のローカル線だった。学生がチラホラいるが、この時間帯の東京方面行きと比べて格段に空いている。
急いで乗ったわりには、電車はなかなか出発しない。
「出発まで、十分弱あるな、ちょっとお弁当買ってくるけど、市川は何がいい?」
舟橋は呑気な事を言い出した。
「でも、そんなに時間かかります? 君津って木更津のちょっと先ですよね」
千葉に住んでいても、千葉駅より東や南に行く内房線や外房線に乗ることはあまりない。スマホで確認すると、君津までは駅は八つ。それなら、三十分位で到着じゃないかと思っていた。
「あぁ、そうだけど、乗り換えとか含めると一時間半くらいかかるぞ」
「えっ、何でそんなに」
「たまには電車の旅も素敵だぞ。ちょっと待ってて」
舟橋は本当に弁当を買いに出た。
時間大丈夫なのか、それより車内でお弁当を食べていいのか。
出発時間を気にしながら車内の様子を見ていると、土曜の授業終わりらしい高校生が、結構乗ってくる。日に焼けて、いかにも部活やっていそうな男子高校生達を見ると、ついついこれから会う鴇田のことを思ってしまう。
晶子がニヤケそうになっていると、レジ袋片手に舟橋が戻って来た。
「間に合った。市川にもお茶買ってきてやったからね」
買い物が上手くいって舟橋は満足そうだ。
「何のお弁当を買って来たんですか?」
千葉駅でお弁当なんて買ったことないので、ちょっと気になった。
「とんかつ弁当」
「えっ、ヘビーですね」
「これで五五〇円! 安くない?」
「安っ」
今時、コンビニ弁当でも六〇〇円位するのに、駅弁で、トンカツで、なぜそんなに安い。
「だろ、駅弁は昔から万葉軒のとんかつ弁当一択ね」
舟橋はレジ袋から、のんきな豚の絵が描かれた弁当を取り出した。
「ちょっと、いきなり食べないで下さいね」
出発前に食べ出しそうな舟橋に、「待て」をしつけた。
電車は千葉駅を出発すると、駅前のソゴー色した巨大建造物を抜け、毎日見慣れた千葉県庁、県警本部の脇を通り抜けていく。
「……当車両は全車両禁煙になっております……」ローカル線らしい、ちょっと聞かない車内アナウンスが流れた。
ソース色した薄いトンカツの駅弁を食べ始めた舟橋を、出来るだけ見ないように、晶子は窓外をぼんやりと眺めた。
電車が隣の「蘇我」に近づくと、進行方向右側に千葉湾岸名物の工場地帯が見え始めた。蘇我駅は、前の事件で行った千葉のテーマパーク『ディスティニーランド』を通る京葉線の終点駅だが、駅前には不動産屋と居酒屋チェーンが一軒あるだけだ。
終電で寝てしまって、この駅で起きたら地獄だなぁ。
海が近いはずだが全く見えない、くすんだ色の工場建造物ばかりで気持ちがどんよりとしてきた。電車は降りたことのない「浜野」や「八幡宿」という駅をつぎつぎと過ぎる。
その間も風景は変わり映えなく、右側には工業地帯の煙突、左側は高圧電線と家と畑がダラーッと続く。田舎というほど田舎になり切れず、山も見えず、だいたいどの駅も同じ風景。
やましい心で軽はずみに来たことを、ちょっと後悔しはじめた。
第6話、飛んで君津
さらに電車は「五井駅」、「姉ヶ崎駅」と市原市に入っていくが、特に風景に変化なし。ただ、ずっと工場と、まばらな住宅街が続く。「姉ヶ崎」を出発すると若干の変化として、畑と田んぼと、草ボーボーの空き地が増え始めた。海は近くても工場で見えない。また大きな工場が現れ、白と赤の煙突がマジで赤い炎をあげている。この辺りビーチがないから、観光客は来ない、かといって落ち着きとか、侘び寂びとも無縁。
田舎でも都会でもない、誰が言ったかディープサウス千葉。
やっぱり、一時のノリでくるところじゃなかった。
晶子の朝の弾んだ気持ちは駄々崩れになってきた。せっかくの土曜の休みに、なんでおじさん警官と、工業地帯を走る電車に向かい合わせで乗っているのか。
「市原は、ヨネスケの出身地だな」
久々に口をひらいた舟橋は、不要な情報をつぶやき腕を組んで目を閉じた。車内で、あらかじめ事件捜査の打合せでもするのかと思っていたが、完全寝る気だ。邪魔してやろうかとも思ったが、他にも車内では半分くらいの乗客が既に寝ていた。この電車には催眠効果でもあるのか、ポカポカとした昼の日差しに晶子も眠くなってきた。
鴇田への思いもボンヤリしてきた。
例えアイコンが本人の写真だとして、多分学生時代の奇跡の一枚に違いない。実際現れたら太って禿げたパチンコ屋の前に並んでいそうな、ただのおじさんだった、というオチになりそうな気がしてきた。イケメンは無自覚であるほど尊いのだが、無自覚であるが故に劣化も早い。現実とは、そういうもんだ。
この後、君津について事件現場ちょっと見たら、適当なこと言って、後は舟橋に海鮮丼でもおごってもらって、土産でも買って帰ろう。
そんなことを考えながら、また車窓をボーッと眺め続けた。
だらだらと直線でカーブもなく線路が続き、風景に変化もなく温かい日差しが降り注ぐ、眠くなるものわかる。舟橋はグラグラと完全に船を漕いでいる。ひどい前傾姿勢、ここまで前ノメリになれるものか?
千葉は平坦すぎる。田舎なのに山らしい山がない。海は近いのに内房は埋め立てられて工場地帯になっている。自慢するものが少ない、たまに『王様のブランチ』に取り上げられることがあっても、鴨川のシャチが暴れる水族館か、館山の菜の花畑ぐらいで、わざわざ行きたくなる感が薄い。外を見ながらだんだんと晶子は、無常の境地になって来た。
そんな時、車窓の向こうに見える建物の数が急に増えた。
「んっ、着いたか」
舟橋が目を覚ましたタイミングで、電車は駅のホームに入った。
木更津駅についた。昔のドラマ『木更津キャッツアイ』でお馴染みの町。
「乗り換えだな」
舟橋は、寝起きとは思えない俊敏さで立ち上がると、すたすたと電車を降りた。
電車の行き先を確かめなかったが、木更津終点の電車だったのか。
ホームに降りて晶子が運行掲示板を確認すると、君津方面の電車は、『乗り換え待ち時間二十分』と出ている。
ちょっと待て、君津まではたった一駅なのに乗り換え待ちが二十分って何?
「舟橋さん、時間が無駄なので、ここからタクシーとかバスで、君津に行きませんか?」
「なんだよ、二十分なんてすぐだ。久留里線なんて一時間に一本だぞ。もう切符買っちゃってるし、鴇田にも到着時間は伝えてあるから。ちょっとぐらいの待ち時間は気にすんなよ」
睡眠たっぷりで舟橋は元気だった。
でも、こういう無駄な時間を持て余すのが晶子は昔から好きじゃない。ホームに居てもしょうがない、木更津は観光地なわけだから駅構内に何かお店がないか? と、ホームから階段を上がった。
だが、駅には小さいコンビニが一件あるだけだった。
中に入っても店内に珍しいものはなく、千葉県ならどこでも売っている『ぬれ煎餅』と『ピーナツ最中』がディスプレイ最前線に押し出されていた。
晶子が収穫なくホームに戻ると、ベンチに座っていた舟橋が、「だから俺みたいに弁当買って正解だろ」とつぶやいた。
正解って、何の正解だよ。
ネットニュースをスマホで見ながら時間を潰していると、ようやく乗り換えの電車が入ってきた。
車内には結構客が乗っていて、座席もほぼ埋まっている。
さっきの電車はガラガラだったのに、なぜ混んでる。
疲れてきたのに車内で立つのは最悪だ。
「舟橋さん、この電車は千葉駅から来たんではないですか?」
「あぁ、そうかもな」ことも無げに答える舟橋。
おい、じゃあ最初から君津行きに乘れば良かったんじゃない。モヤモヤしながら車内を見回すと、乗客の大半が二〇代ぐらいの男性だった。
「この人たち、どこいくんですかね」
「さぁ知らん。でもこの辺、最近人口増えてるんだよ。車だとこの辺便利なんだって、アクアライン使えば東京まで四〇分だ」
「千葉市行くのと、変わらないじゃないですか」
ますます、県庁所在地千葉市が軽んじられるわけだ。
ドア際に立って、また晶子は外を見た。電車は木更津を出るとすぐ山間に入る。トンネルを抜け、また建物が増えて来て都会に近づいたような気がしたら、そこはもう君津だった。
「君津の有名人は、千葉真一ね」
どうでも良いマメ知識を、ここでも舟橋は披露した。
第7話、大使館いう名の喫茶店
君津駅では乗客の大半が降りた。
この人たち、どこに行くのか? 音楽フェスでもあるんではなかろうか、と晶子は想像した。
改札を出て、広々とした駅前ロータリーを見て晶子は驚いた。
「君津って、結構大きい町なんですね」
「だろ、ビバホームとかアピタとか西松屋とか全部あって便利なんだわ」
「そういうのは、ちょい田舎にありがちです」
「そうなの?」
気にする様子もなく舟橋は、なれた感じで東口と書かれた方向に進んだ。後をついて駅を出ると、そこもキレイに整備され、広い駐車場になっていた。ただ車も人も少ない。
「どうです、鴇田さん迎えに来てますか?」
晶子は一番気になっていたことを聞いた。
まぁ、どうせ写真と全然違うオジさんなんだろうけど、どうでもいいわ位の心境でいよう、と晶子は思いつつ、ちょっと心がウキウキする。
「おっ、LINE来ていた。便利だけど気づかねぇのが弱点だな」
おじさんは設定ミスをアプリのせいにしがち。
「ちょっと署に寄って来るので三十分程遅れるらしい。駅前の『大使館』って名前のレストランで待ち合わせだって」
スマホを仕舞った舟橋は、付近を見渡した。
「どこにあるんだ、そんな店」
とりあえず、知らないそのお店に入ったら、捜査の前に何か食べておいた方がよさそうだと晶子は思った。名前が『大使館』というからには、何か老舗レストランっぽい。イタリアンか、フレンチか。
駅前を舟橋と一通り探したが、それらしいレストランは見当たらない。
やっぱりマップで調べようと思った時、「ここじゃないか」と舟橋が指さしたのは、さっき一度通り過ぎたお土産物屋のような店。確かに白いプラスティック看板に『大使館』と紫色の明朝体で書いてあった。
イメージした落ち着いたレストランとは全然違う。
気乗りしないながらも、舟橋について店に入ると、「いらっしゃいませ。あいてる席どこでもどうぞ」と人の良さそうな私服のおばさん店員に出迎えられた。店内は広く奥行きがあったが、客は二人しかいなかった。舟橋と晶子は入り口すぐの席に座った。
テーブルには、透明下敷きに入ったメニューが置かれていた。そこには、カツサンド750円、カレー800円、ナポリタン800円、自慢のオムライスハンバーグBIG1000円と、学生が好きそうなワンパクメニューが並んでいた。
しかも、田舎の喫茶店にしては高くないか? と思ったが、晶子は空腹だったので外れの少ないナポリタンを頼んだ。舟橋はメニューを見ずにアイスコーヒーをオーダーした。
料理を待ちながら店内を見渡すと、壁には謎の油絵と少年マンガがいっぱい詰まった棚があった。名前の『大使館』的要素はどこにもない。
これで鴇田の顔見てアウトだったら、速攻帰ろうと晶子は思いはじめた。
「鴇田にLINE返しておいた。返信ではあと十分程で来るそうだ」
「早くないですか」
さっき三十分って聞いてから、まだあまり経ってないのに、時間の進みが早い。君津では時間の誤差が十分単位なのか?
できれば、ナポリタン食べている最中には鴇田に来てほしくないと思っていると、「はい、ナポリタンです」料理がすぐ出てきた。
一目で、玉ねぎ多めの手作り感と、ケチャップ感のしっかりある、レベル高めナポリタンだと分かった。スポーツ新聞を手にして舟橋は地元オヤジモードなので、そこは無視して晶子はナポリタンに集中することにした。
「いただきます」
パスタのゆで具合、玉ねぎがまろやかに絡む甘くてコクのあるトマトソースも好み。でもベチャベチャでもなく、オリーブオイルもしつこくない。これは当たりだ。味変は、粉チーズが先か、タバスコが先か……などと孤独のグルメ気分に晶子が浸っていると、店の引き戸が開く音がした。
パスタを噛みしめながら目線を送ると、逆光の中に長身の人物が立っていた。
「よぉ、ここだ」舟橋が手を上げる。
声に応えて、その人物は笑みを浮かべると、ナポリタンをほおばる晶子の席に近づいてきた。
日焼けした肌に白いポロシャツ、短髪で広めのおでこ、しっかりした眉毛、大きくて優しい目、高い鼻、引き締まった口元。
晶子の頭の中でイケメンパーツ照合が瞬時に働いた。
間違いない鴇田だ。
アイコンと見比べても、とさらに精悍に引き締まり、たくましくなっていた。
いやこれは……男前マシマシだわ。岡田健史の若さを越えて、大人の雰囲気になって、ヒョンビン風味入ってる。わぁどうしよう。
晶子の頭の中は麻薬成分が出たようになり、さっきまでのモヤモヤが一気に入れ替わった。
第8話、房総の超絶イケメン
「先輩、今日はわざわざ僕の為に君津まで、ありがとうございます」
テーブル横に立ったその男・鴇田は背筋をピンと伸ばして舟橋に礼をした。
その後、鴇田は晶子の方を見た。ヤバイ心臓止まる、と思いつつ晶子はさりげなさを装いペコリと頭を下げて挨拶した。
「先輩、こちらのナポリタン食べてる方は、娘さんですか?」
鴇田は晶子に微笑んだ。
おい、おい、おい、なんて爽やかなんだ。
「違う違う、県警で俺の仕事手伝ってもらってるただの市川だ」
その紹介は、雑だろ舟橋。それより今は口周りがヌルヌルだ。ナポリタン選んで正解だと思ったが、タイミング的に失敗だった。
「本部の方でしたか、はじめまして君津署生活安全課の鴇田巡査です」と鴇田はキッチリと晶子にも一礼した。
晶子もあわてて立ち立ち上がった。
「私は、県警本部で舟橋さんのお手伝いさせていただいてます市川晶子と申します。階級とはありませんが、よろしくお願いします。鴇田さん」精一杯の薄い微笑みを浮かべた。
「どうぞナポリタン食べててください。ここの美味しいですよね」
鴇田は晶子に優しい言葉をかけて、なんと隣に座った。食べながら、隣で横顔チラ見するとやっぱり鼻が高い。晶子の心拍数は上がっりっぱなし、ナポリタンが喉を通らなくなった。
舟橋が何か鴇田と話しているが、全く頭に入らない。
「……そうだ、あれ持ってきてくれた?」何かを鴇田に聞いている。
「はい、ホテルの枕の下にあったみたいですよ」
鴇田はポケットから黒い小さなものを渡した。それは見たことのある舟橋の古いガラケーだった。
「やっぱりこれだよ、手に馴染むよ」舟橋は二つ折りのガラケーを開いて表示を確認していた。
「異常なしだ」
どうやら舟橋が、ガラケーを宿泊先に忘れ、鴇田さんに届けてもらったみたいだ。数日経過しても、舟橋には着信もメールも来ていない、舟橋の寂しい生活を思った。
「まぁ、俺はスマホとの二台持ちだ。いざと言うときはこっちで代用できるからね」
舟橋は自慢気に娘に併せ買いさせられたスマホを鴇田に自慢気に見せた。晶子のエンパシーは舟橋に全く届いていないようだ。
「先輩、すごいですね」
「ふつうだよ。お前も持ったほうがいいよ」
舟橋のスマホはまだ表面のシールをつけっぱなしで、使い慣れてない感は満載なのだが、鴇田は特に突っ込まない。後輩として出来過ぎてる。
<p><br /></p>
「すまんね。じゃあこれで帰るわ」
突然そう言うと舟橋は席から腰を浮かしかけた。
「えー、そんな、僕の捜査の応援してくれるんじゃないんですか?」情けない声を出して鴇田はうろたえた。
「冗談だよ、冗談。ハハハハ」舟橋が鴇田の肩を押す。
「先輩、マジ頼んますよ、ハハハハ」
県警でもしょっちゅう見かけるこの小芝居。年上が年下を困らせる、面白くもなんともないパワハラ絡みのやりとり。体育会男子部活のノリの延長なのか、若い署員もよくやってる。部外者の晶子には全く意味不明だった。
「ハハハ、でもな、来る電車の中でよく考えたんだが、現場検証も検視も終わって、刑事課も署長も事件性なしで、この件は決着してるんだろ、それを県警本部の俺が首を突っ込んで捜査をひっくり返したとなったら、それこそお前の立場を悪くするんじゃないか?」
車内で爆睡していたはずの舟橋は、そんなことを考えていたのか。
鴇田は寂しそうな顔で黙って舟橋を見ていた。舟橋はその視線をさけるようにタバコを探す仕草をした。
「そんな、先輩らしくないこと言わないで下さい。刑事課研修中に『困ったら後先考えずにまず行動しろ』と力強く教えてくれたのは先輩ですよ」
言ってることはちょっと変だが、鴇田の子犬のように純粋な瞳に、晶子は久々にキュンとした。
「格好つけるだけが、刑事じゃないんだよ。俺も色々考えた結果、お前の将来を考えても、やっぱりここは大人しくしていたほうが、いいじゃないのかと思うんだよ」
いかにも親身な顔をして舟橋は言っているが、付き合いの長い晶子には分かる。関係ない事件に刑事でもない自分が、首を突っ込むことのリスクを、舟橋はここに来てようやく悟ったのだ、正に今。愚直に先輩の言葉を信じた鴇田と、ついてきた晶子の事は全く考慮されていない。
この舟橋の冷たく心無い言葉に、鴇田は傷ついたように見える。
そりゃそうだよ。
「待ち合わせに遅れたのも、少しでも先輩の再捜査のお力になりたいという思いから、君津署に寄って、こっそり捜査資料をコピーしていたからなんです」鴇田は背負っていたリュックを、いきなりテーブルに置いた。「これだってバレたら、僕は懲戒もんです。もう後には引けません」
いつもの晶子なら、今のような鴇田の言動に、「バカなことするもんだ」としか思わないころだが、鴇田の真剣な表情で更に増したハンサムぶりを、たっぷり摂取した今は、気持ちが違う。
晶子はこの先の方針を決めた。「この千葉の天然イケメン記念物・鴇田の事をもっと知りたい、出来ればもっと一緒に居たい」そんな推し願望が、どうしようもないくらい高まってきた。
晶子はナポリタンで汚れていた口を拭いて、おもむろにスマホで確認すると舟橋に向き直った。
「ちょっと舟橋さん、さっきからお話を聞いていると無責任すぎますよ! ここで放り出すのは鴇田さんが可哀そうです。まずは、資料をじっくり読んで、現場を再び訪れて、じっくり夕食でも食べながら方法を考えたって遅くはないでしょ」と一気にまくし立てた。
舟橋はアイスコーヒーから口を離して意外そうな顔をした。
「えっ、お前そこまで乗り気だったの? じっくり夕食とか考えてなかったよ」
「もう、しらばっくれて舟橋さん。さっきも『若い鴇田の熱い思いに刑事魂揺さぶられた』とか言ってたじゃないですか」
「えっ、俺言った? そんなこと」
思いつきで話す、プライドの高い上司を気分良く乗せるには、この『言いそうで言ってない名セリフ』方法が効果的だと、晶子は経験的に知っていた。
「あっ、分かりましたよ、先輩。うぁー騙されるところだった。ホント市川さんありがとうございます。ですよね」
なんか分からないが鴇田も急に表情が明るくなった。
「なにが?」舟橋は話の流れの変化に戸惑った。
「先輩、僕を試してたんですね?」鴇田が座ったまま背をピシッと伸ばす。「さすが、千葉県警察官一万人の憧れ舟橋先輩! 現場一筋三〇年、捜査の神様の深い思い。自分の浅はかさに赤面の思い出あります」突然喫茶店のテーブルに頭が付くぐらい下げた。
「警察官として、『お前にそれだけの覚悟があるのか』と試していたんですね? あります、僕は大いにあります」
鴇田は情熱と狂気を帯びたような目で舟橋を見つめた。
なんだこの感じ、このオーラ。
一方の舟橋は、状況を理解出来ない様子で、唖然としていた。
「いや、そうじゃなくて。俺の長年の現場経験からしても、お前から初めにこの話を聞いた時から、これは他殺の可能性は限りなく低いなぁと」
「うぁ、先輩、まだ試してんですね僕のこと。先輩の弟子が最初に臨場したんすよ。その直感です。それを否定するのは、先輩を否定することと一緒ですよ。ねぇ、市川さん」
「その通りです、鴇田さん」
即答しながら、晶子はこのあたりの一連の会話を聞きつつ、ある事を徐々に感じ始めた。
どうやら、鴇田さんは、少々おバカちゃんなのかもしれない。
だが、しかし。
それを補って、さらに余りが山ほどあるのが、鴇田の顔。一喜一憂するその表情の変化から目を離せなくなる。出来れば鴇田の姿をじっくり二時間くらいスマホで撮影して、家に帰ってから落ち着いて鑑賞したいくらいだ。
「鴇田さんは、一切間違ってませんよ」
ありあわせのフォローをする晶子の言葉にも、鴇田は顔中で喜びを表現した。
あぁ、おバカちゃんでもかわいいのぉ。
晶子は顔面鑑賞をしっかりした。
「市川、お前も調子いい事ばっか言って、純朴な青年を乗せるんじゃないよ。第一お前はただの素人だ、プロの捜査に口出すんじゃないよ」
舟橋は面白くなさそうに、語気を強めてパワハラってきた。
そっちがそう来るなら、晶子にも言いたいことはある。
「鴇田さん、先月あった『流山市中華系覚せい剤ルート』の摘発事件を知ってますよね。あれ捜査したの実は私なんです……舟橋さんは容疑者の熟年小悪魔に騙されてましてね……」
そこまで晶子が言うと、慌てて舟橋が止めに入った。
「あぁ、分かった俺が悪かった。再捜査するよ、もちろんだよ、鴇田くん。最初からそのつもりだから、君津くんだりまで来たんだよ」
「やっぱりそうですよね。もしかして、前来た時にガラケーを忘れたのも、また来るための伏線ですか」
「もちろん伏線、伏線、わざとわざと、お前と会って心根を確認するためだよ。反対されても、俺は一人でこっそり現場を訪れるつもりだったけどね」
舟橋はヤケのように、出まかせをふかし始めた。
「先輩、一体どこから芝居始まってんですか」
「人生は芝居だよって、梅沢富美男もいってるだろ。ハハハハハ」
いいそうだけど、それ言ってたのは、多分、福沢諭吉だ。
「まぁ、とぼけたのは一種の親心。謹慎中のお前が再捜査するのは、いろいろ問題あんだろ、お前を巻き込まないために一芝居打ったわけだよ。ごめんなぁ」
「ですよね、だと思ってました。では、早速事件の概要をおさらいしますね」
そういうと鴇田はテーブルに置いたリュックから、いきなりコピーの束を取り出した。
「えっ、ここでやんのか? もっと静かな場所、捜査資料のこともあるし、署の会議室にでも行った方がいいんじゃないのか?」
これは舟橋の言うことが正しい。でも、鴇田は寂しそうな顔になった。
「僕は謹慎中の身なんで、警察署内で会議すると言うわけにはいかないんですよ。だから、ここでお願いします。『事件捜査はどこだってできる』、これも先輩の教えですよね」
前のめりすぎる鴇田に、舟橋は戸惑いながらも、「そうだな。言ったような気もするな」と一応やる気になったように見えた。
無造作に喫茶店のテーブルに広げられたコピー。それらは、現場検証報告書、遺体検案書など、『絶対持ち出し厳禁』のはずの資料だった。