私が好きになった人には好きな人がいました
放課後の美術部室は、この学校で私が一番好きな場所だ。
部屋に染み込んだ絵の具の匂い、じめっとした空気、静かに過ぎていく時間、ここには私の大切な思い出がたくさん詰まっている。
私の斜め向かいでキャンバスに向かって手を動かしているのは、この美術部でたった一人の3年生。
彼女の艶やかな黒髪は真っ直ぐ腰の上まで伸びていて、傷みとは無縁そうな濡羽色のストレートヘアが、白磁のような肌を一層白く際立たせていた。
四条律子、私の好きな人。
だけど彼女の瞳に私が映ることはない。
何故なら彼女には忘れられない想い人がいることを、私は知っているからだ。
「詩乃ちゃん、手、止まってるよ」
キャンバスの向こうから律先輩の声が降ってくる。
鈴を転がすような声は、いつだって私の胸の奥をくすぐって惹きつけた。
「律先輩がキレイで、つい見惚れちゃってました」
「もう、またそんなこと言って。デッサン苦手だからって誤魔化さないの」
軽くおどけて見せる私を、律先輩は困った顔で窘める。
律先輩に見惚れていたことは嘘でも誤魔化しでもなかったけれど、私はいつもの様にえへへと笑って不真面目な後輩を装った。
今週の課題をお互いの顔のデッサンに決めたのは律先輩だ。
二人きりの部室で互いの顔を描き合うと言うのは、何だかいけないことをしている様で禁断の香りがした。もっとも、それは私が律先輩に恋心を抱いているから感じることで、彼女にとっては何と言うことはない時間なのだろうけれど。
私は真っ白なキャンバスに向かって鉛筆を動かし始める。
律先輩の顔なら、彼女が目の前に居なくてもそっくりに描き上げる自信があった。
◇ ◇
その絵を見た時の衝撃を、何と言い表せばいいのだろう。
律先輩と出会ったのは文化祭の展示コーナーだった。
模擬店のビラ配りを終えた私は、教室へ戻る前にふと寄り道をしたくなって、普段あまり近付かない部室棟に立ち寄ってみた。
”作品展示中”と書かれた小さな黒板が目に入り、何の気なしに扉の中に入ったところ、ある一枚の絵の前から動けなくなってしまった。
それは女性の横顔の絵だった。
絵の中の女性は、耳にかかる栗色の髪を風になびかせ、頬杖をついて窓の外を眺めている。その瞳は遠くを見つめていて、何処か遠くに飛んで行ってしまいそうな儚さを感じさせた。
作者名には四条律子と書かれている。
「どうして泣いているの?」
不意に、鈴の音を思わせる澄んだ声がした。
「……え?」
声がした方を振り返ると、黒髪の綺麗な女性がこちらに向かってハンカチを差し出していた。
差し出されたハンカチを見て、泣いているのは私なんだと気付く。
目元に手をやると、確かに雫が指に触れた。
「この絵、そんなに悲しい絵かなぁ」
悲しいとは違うな、と思う。横顔の女性は微かに笑っている様にも見えるし、暗さを感じる絵でもない。強いて言うなら寂しい、だろうか。
だけどそんな単純な言葉で表現してしまうのは勿体無いような気がして、私は何も言えずに黙っていた。
黒髪の女性は受け取ってもらえなかったハンカチをポケットにしまいながら、困った様に笑っている。
彼女の胸元を見ると、四条と書かれた名札が付けられていた。
「あ……この絵の作者さん、ですか?」
まだ放心状態のぼんやりした頭で問いかける。
「そうだよ。2年1組、四条律子です。あなたのお名前は?」
「1年3組の相田詩乃です」
「詩乃ちゃん、美術部に入らない?」
長い黒髪を耳に掛けながらふわりと笑う彼女の誘いを受けて、私は美術部に入部することを決めたのだった。
文化祭で見た絵の女性が、同じ美術部の先輩だと知ったのはそれからすぐのことだった。
「未知瑠先輩、勧誘成功しちゃいました」
初めて部室を訪れた日、律先輩に手を引かれて美術部室の中に入ると、そこにはあの絵とそっくりな女性がイーゼルの前に座っていた。
思わず「あっ」と声が漏れそうになる。
岩下未知瑠、美術部の部長だった。
「律子に捕まっちゃったの?それは災難だったね」
愉快そうに口角を上げる岩下部長からはあの絵の様な儚さは感じられず、どちらかと言えばサッパリした雰囲気を纏っていた。
口元にある黒子が印象的な、笑顔の綺麗な人だった。
「ちょっとそれどういう意味ですか?聞き捨てなりません」
「だって展示コーナーの前でずっと張り込んでるんだもの。律子みたいな怖い先輩に捕まったら、優しい子は断りきれなくて入部しちゃうでしょ、ねぇ?」
二人のテンポの良い掛け合いに、挨拶する間も見つけられず固まっている私へ、岩下部長が水を向ける。
仲の良さを見せつけられている気がして、ちょっと居心地が悪い。
「いえ、そんなことは。律先輩の絵が素敵だったので」
ぶっきらぼうに答える私に何を思ったのか、律先輩は突然頭をぐりぐりと撫で回してきた。
「そっかそっか、ありがとー!可愛い後輩が出来て嬉しいな」
「わ、ちょっと、律先輩!?」
撫で回されて乱れた髪を慌てて整える。
ここに来る前に頑張って直した寝癖がまた跳ねているに違いない。
「あの、1年3組の相田詩乃です。よろしくお願いします」
「相田ちゃんね。入部ありがとう、これでやっと3学年揃って私も嬉しいよ」
寝癖を気にして頭を押さえながら挨拶をする私に、部長は爽やかな笑顔で「3人で仲良くしていこうね」と言った。
美術部は部長と先輩と私、たった3人しかいない廃部寸前の部だということを、私はその時初めて知ったのだった。
◇ ◇
デッサンに取り掛かって1時間ほど経った頃、律先輩は「ちょっと休憩しよっか」と言って鉛筆を置いた。
集中して黙々と線を書き込んでいたお陰で、真っ白だったキャンバスには朧げながらに律先輩の顔が浮かび上がりつつあった。
律先輩は粉末タイプのミルクティーを、私はインスタントコーヒーを、それぞれお湯を注いで部屋の隅に置かれているソファーに腰掛けた。
このソファーは去年卒業した岩下部長が拾ってきたものらしい。
かなりボロボロだったものを作品制作と称してリメイクしたそうで、デニム調の生地や無地のキャンバス地など、いくつもの布地が継ぎ接ぎされており、個性的なソファーに仕上がっていた。
意外にも座り心地は悪くなく、美術部員の憩いの場として活躍している。…と言っても、部員は私たち二人だけなのだけれど。
「部長、元気にしていますかね」
「どうかなー。でも未知瑠先輩のことだから、多分元気にしてるんじゃない?ストリートアートとかやってたりして」
「あー、やってそうですね。あの人、基本的に何でも思い付きでやっちゃうから」
部長が留学のためパリに渡ったのは半年ほど前のことだった。
今頃は無事に入学して忙しくしている時期だろうか。
「部長が居なくなって、寂しいですか…?」
「そりゃあね。でも、私自身が決めたことだから」
律先輩はミルクティーをひと口飲んで、窓の外へと視線を移す。
遠く空の向こうを見つめる彼女の瞳に、私は文化祭で見た女性の絵を思い出していた。あの絵の女性の眼差しが、目の前の大好きな人の瞳と重なる。
心臓をぎゅっと掴まれた様な痛みに、私は馬鹿な質問をした自分を呪った。
どうしてあの絵を見て泣いてしまったのか、今なら分かる。
好きな人の気持ちが自分ではなく別の何かに向けられている切なさと、それでも溢れてくる恋慕の情が、律先輩の描いた部長の横顔からありありと感じられて、私はあの時思わず涙を零してしまったのだ。
今の私には、あの絵を描いていた時の律先輩の気持ちが痛いほどよく分かった。
遠くを見つめる律先輩の瞳には、きっと今も部長の姿が映っているのだ。
部長を想う律先輩の横顔は綺麗だった。
その美しさは私にとってあまりにも残酷で、こんな不毛な恋なんて諦めて逃げ出したいと思うのに、それと同じくらい私の心を掴んで離してくれない。
「そんなに部長が好きなら、告白すれば良かったじゃないですか。部長だってきっと…」
言ってしまってから、こんなこと言うべきじゃなかったと気付く。
しまった、と苦い顔をする私に律先輩は怒ることなく、優しく目を細めて微笑んだ。
「詩乃ちゃんはお子様だからね〜。大人の恋はね、もっと複雑で時にままならないものなのよ」
そう言って目を伏せる律先輩からは、ミルクティーの甘い香りがした。
◇ ◇
律先輩が部長のことを好きだと気付いたのは、美術部に入ってから二ヶ月ほど経った頃だった。
二学期の終わり、私と律先輩は二人で美術部室の大掃除をしていた。
あまり日当たりの良くない美術部室は冬場は特に底冷えする。その上換気のために窓を開けているものだから、室内だと言うのにじっとしていると震えてきそうな寒さだった。
「もう、部長ってばいつも暇人かってぐらい入り浸っているのに、どうしてこんな時だけ『3年生はもう引退済みだ』とか言って来ないんですか!」
「あははー、詩乃ちゃん怒ってる」
「そりゃ怒りたくもなりますよ!だいたいあの人私物を置き過ぎなんです」
実際のところ他の部でも3年生はほとんどが引退済みだったし、部長が大掃除に参加しないことに対して怒ってはいなかった。
ただとにかく寒くて、こんな無駄話でもしていないと手を動かす気になれず、私は手頃な話題として部長に八つ当たりしていたのだった。
因みに、私物が多くて困っていたのは本当で本音だ。
「詩乃ちゃんもいつの間にかすっかり美術部に馴染んだね」
律先輩は愚痴をこぼすことなく、古い作品や資料などをテキパキと片付けている。
馴染んだねと言う言葉に、私は律先輩に美術部の一員として認められた様な気がして嬉しくなった。
元々絵に興味のなかった私がこの二ヶ月楽しく部活動を続けられているのは、律先輩の存在が大きかった。
「卒業生の作品ってどうするんですか?」
「基本的には卒業前に持ち帰ってもらうんだけど…」
言葉を濁す律先輩の視線の先には、私の知らない名前が書かれたファイルボックスがいくつか並んでいた。
美術部では個人が使用するスケッチブックやクロッキー帳は、各自の名前が書かれたファイルボックスで管理することになっている。
当然私や律先輩のボックスもあるのだが、過去の卒業生のものと思われるボックスが棚を圧迫して、私たちのボックスが出し入れし辛い状態になっていた。
「いい機会だから処分しちゃおっか!」
律先輩は背伸びをしてボックスに手を伸ばす。ボックスが並べられている棚はやや高い位置にあり、どうにも危なっかしい。
その時、事件は起きた。
ドサドサ、バタン!!
「きゃーっ」という短い悲鳴と共に、ボックスの中身が床にぶちまけられる。
ボックスに指を引っ掛けた時に思ったより中身が重く、バランスを崩して落としてしまったのだ。
「律先輩!大丈夫ですか!?」
両手で頭を庇っている律先輩の下に慌てて駆け寄る。
見たところボックスは少し離れた位置に落ちていて、どうやら直撃は免れている様だった。
「…うん、どこも痛くないし大丈夫そう」
埃を払いながら怪我がないことを確認する律先輩の様子に、私はほっと胸を撫で下ろした。
「ビックリしましたよー。気を付けてくださ…い……ん?これは?」
散らばったクロッキー帳の中の1冊に目が止まった。
床に落ちた時にページが開いてしまったようで、そこには部長の顔がいくつも描かれていた。
私が知っている部長と髪型や雰囲気が少し違っていたけれど、口元の特徴的な黒子からして部長であることは間違いなかった。横に倒れているボックスには”四条”の文字がーー
「わーーーだめ!見ないでーー!!」
事態を察知した律先輩が、叫びながら散らばっているスケッチブックやクロッキー帳を掻き寄せる。
その顔は今まで見たこともないくらい真っ赤になっていて、いつも先輩らしく余裕さを見せている彼女からは考えられない動揺ぶりだった。
律先輩の新たな一面を見た私は、なんて可愛い人なんだろう、と思う。
「部長のことが好きなんですか?」
部長の顔が描かれたクロッキー帳を胸に抱く律先輩の横に座り、二人しかいない部室で私は声を潜めた。
律先輩は少しの間どう答えようか迷った後、やがて観念した様に長いため息を吐いた。
「あーあ、バレちゃった。誰にも言ってなかったんだけど、仕方ないなぁ。絶対に秘密だからね!」
絶対だよ、と念を押す律先輩の表情は、秘密がバレてしまった割にはどこか嬉しそうでもあった。
秘密の共有というのは両者の距離を一気に縮めるもので、それ以来、律先輩は部活中に部長の話をよくするようになった。
部長のことを話す彼女の顔は幸せそうで、どうして今まで気付かなかったのか不思議なくらい、好きという気持ちが漏れ出していた。
少しずつ律先輩に惹かれていることを自覚していた私にとって、幸せそうな彼女の顔を見ることは嬉しいことでもあり、同時に、その気持ちが自分に向けられることはないと感じる辛いことでもあった。けれども、好きな人の笑顔が見られるなら、それが部長の話題だったとしても私は構わなかった。
一度だけ律先輩に「告白しないんですか?」と聞いたことがある。
私の質問に律先輩は迷うことなく「しないよ」と答えた。
その頃すでに部長は留学することが決まっていて、このまま片想いで終わらせたいんだと話す律先輩の笑顔が、私には遠く、眩しかった。
◇ ◇
ちょっと休憩、と言ってからもう30分以上が経っていた。
隣りでミルクティーを飲んでいた律先輩は、疲れていたのか程なく眠ってしまい、今は私の肩に頭を預けてすやすやと寝息を立てている。
肩に感じる重みが心地良い。
「私なら律先輩のこと置いて行ったりしませんよ」
眠っているのを良いことに、いつもは言えないことを言ってみる。
もちろん返事なんてなくて、肩に置かれた頭は変わらず規則正しく上下していた。
そろそろ起こさなければと思うものの、可愛い寝顔をいつまでも眺めていたいと思う気持ちが邪魔をしてなかなか起こせないでいた。
だけど夜までこのまま、という訳にはいかない。
「律先輩、もうすぐ部活の時間終わっちゃいますよ」
「……っん」
頭に手を伸ばして軽くぽんぽんと叩いてみるが、僅かに身じろぎしただけで目を覚ましそうにない。
「起きないと襲っちゃいますよ」
口元に手を当て、耳元で悪戯っぽく囁いてみる。
実際、さらさらの黒髪の下から覗く白い首筋を見ていると、私の中にある邪な感情が暴走してしまいそうだった。
「りつこせんぱい」
「…ふにゃいっ?!」
吐息まじりに名前を呼ぶと、律先輩は飛び上がって目を覚ました。
耳がくすぐったかったのか、こちら側の耳をばっと手で隠すように覆う。
「ふふふ…。やっと起きましたね!律先輩、ちっとも起きないんですから」
「…あ、あああれ、私、いつの間にか寝ちゃってたのね」
変な声を出してしまったことに動揺しているのか、それとも単純に驚いただけなのか、律先輩は慌てて居住まいを正し誤魔化す様に笑っている。
ちょっとした悪戯だったのに、思いの外良い反応を見ることができて、私はなんだか得した気分だった。
「律先輩は夢ってありますか?」
「えっと…。急にどうしたの?」
唐突な質問に、律先輩は目を瞬かせて首を捻る。
「私はお金持ちになりたいです。お金持ちになったら律先輩のパトロンになって、一緒に暮らすんです。大きな家を建てて、作業場も作って…」
「何それ、詩乃ちゃんにメリットが全然なさそうなんだけど」
現実離れしたことを語り出す私に律先輩は冗談だと思ったようで、おかしそうに口元を隠して笑っている。
「そんなことないですよ。律先輩が有名になったら今度は私が贅沢させてもらうんですから」
「えー、そんな贅沢させられるほど有名になんてなれないよ」
高校生の私の言葉に現実味は全然なかったけれど、本当にそうなったら良いのになぁと思った。
「でもまぁ、詩乃ちゃんと一緒に暮らすのはちょっと楽しそうかな」
律先輩はすっかり冷めてしまったミルクティーを片付けながら、楽しげに笑みを深める。
手際良く片付けを進める律先輩とは対照的に、私はマグカップを手にしたまま時間が止まったみたいに固まっていた。
「……それは、期待しても良いってことですか?」
律先輩が何気なく口にした一言の威力は絶大だった。
ただの現実味のない妄想が、急に実体を伴って目の前に広がったような気がした。
夢は声に出して言った方が良いと聞くけれど、確かにそうかもしれない。だってまさか律先輩の口から、私と一緒に暮らすのが楽しそうなどと聞けるとは思ってもみなかったのだから。
「私、頑張りますね!」
俄然やる気を出して宣言する私を、律先輩はきょとんとした顔で見ている。
きっと律先輩は私の話に深い意味なんて無いと思っているのだろう。
そしてさっきの一言には、それこそ深い意味なんて無いのだろう。
ついでに言ってしまえば、彼女の瞳の先にはまだまだ部長が映り続けるのかもしれない。
だけど一向に構わなかった。片想いだから何だというのか。
私には大人の恋なんて分からない。だから好きな人に好きな人がいたとして、引き下がろうと思ったりしない。
いつか彼女が私の方を振り向いてくれるまで、私は真っ直ぐぶつかって行きたい。
私は身体の奥から底知れない力が漲ってくるのを感じていた。
「待っていてくださいね。きっと振り向かせて見せますから」
私は律先輩の背中に向かって、ひとり決意を新たにする。
今年の文化祭の展示が終わったら律先輩は引退してしまう。3月が来てしまえば卒業だ。
一緒に過ごせる時間を大事にしなくては。
「詩乃ちゃん、そろそろ閉めるよー」
鈴を転がす様な声が軽やかに響く。
もう聞き慣れたはずの鈴の音は、何度聞いても私の心を揺らした。
「はーい、今出ます!」
私は手早く荷物をまとめて出入り口へと歩き出す。
さて、何から始めようか。
弾む鼓動を感じながら思案する私の前で、律先輩が待つ扉はいつもより輝いて見えた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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