⑨記憶の花束
ハンガー座の一部を捕らえたリーチェは、久しぶりの王からの賛辞も耳に入らないほどに上の空だった。妃であった母を亡くしてから、王は一人息子のリーチェに厳しくも愛情を持って接してきた。リーチェも王である父のことを尊敬している。だから彼からの賛辞は嬉しいはずだ。それなのに、まったく心が浮かない。
城の敷地内にある庭園で、リーチェは花が咲き誇っているガーデンアーチの下で立ち止まる。
あまりにも心が晴れなくて我ながら情けなかった。リーチェはアーチを支えるようにして挟んで置いてあるレンガの柵に寄りかかり、ため息を地面へと落とす。ハンガー座を捕らえたあの日から、心に錨が括りつけられたように思考が鈍る。
その時に思い返すのは、決まってレイディの姿だった。最後に見た、屋根から飛び降りていく彼女の姿。仲間が彼女のことを回収したことは知っている。彼女の安否が気になるわけではない。リーチェは額に手を当てる。
彼女がゴースト一族であることはもう明白だ。それは構わない。しかし事はそんなに単純ではないことも当然分かっている。これでも一応、王になる存在だ。リーチェは自分の立場をよく知っている。
それでもレイディのことを忘れられなかった。彼女を試した時に自分を守ろうと覆いかぶさってくれたこと、申し出を断ろうと苦しそうな顔をすること、仲間と任務に挑む時の活き活きとした弾んだ表情。すべてが邪魔をする。そしてそのすべてが、リーチェの心を柔くつかむ。レイディのことを思うと、愛おしい気持ちが幸福を運んできてくれるのだ。
「……はぁ」
だが一人で悩んでいても何の解決にもなり得ない。何よりも大事なのはレイディの気持ちだ。けれどその気持ちに触れる機会はもうないのかもしれない。あの日以降、ゴースト一族は一層警戒を深めて姿を顰めてしまったからだ。
諦めきれない想いに花を見上げると、ついにリーチェの耳に幻聴が届いてくる。
「王子…、王子…!」
忘れもしない愛おしい声がまるで妖精のように聞こえてくる。自分もここまで来てしまったかと、参った精神に頭を抱えていると、その声は次第に輪郭を帯びてくる。
「あの、こちらです王子……!」
「…レイディ?」
まさか幻聴ではないのかと、リーチェは背後を振り返る。背にしたアーチには、目に優しい緑の葉と、上へと向かう懸命な蔦が絡み合っている。ちょうど綺麗に咲いた花がそこにアクセントを加え、しとやかに庭園に気品を与えているそのアーチの向こう側に、僅かに動く人影が見える。
「その…ええと…王子、突然申し訳ございません」
蔦の向こうに見えるその顔は、確かにレイディだった。アーチを挟んで向こう側に、求め続けたその人がいる。麗しい緑のベールの向こうをぱちぱちと見て、リーチェは口をあんぐりと開ける。
「レイディ…!? なぜここに…!? …いや、いい」
驚きのあまりレイディがゴースト一族であることが一瞬頭から抜けていたリーチェは、すぐに正気を取り戻した。息を整え、リーチェは声のボリュームを落とす。小鳥たちのさえずりが穏やかな庭園で内緒の演奏会を繰り広げている。
「あの…忍び込んだことは、謝ります…。だけど、王子は私を探していると聞きましたので…」
「…依頼に応えてくれる何でも屋は、本当に何でも実現してくれるのだな」
リーチェが感心したようにふっと笑う。誰かが来た時に不自然に思われないように、リーチェは再び柵に寄りかかり、レイディのいる方向を背にする。レイディも周りに気を配れるようにリーチェを背にする。
「はい…。だから、会いに来ました。ご依頼の通りに」
「…ありがとう。レイディ」
「……王子、お手柄でしたね、ハンガー座の件」
「幸運だった。君は信じてくれないかもしれないけど、幽霊が僕を助けてくれたんだよ」
リーチェの言葉に、レイディはくすっと笑う。リーチェはその笑い声を耳にし、目元を緩ませた。
「けど、一つ気になることがあるんだ」
「まぁ、なんでしょう?」
レイディはリーチェの話に耳を傾ける。
「あのチャミルとかいう人が持っていたティアラ、あれは偽物だったんだけど、僕はあの時本物を目にした気がする。すぐに消えてしまったけどね。見間違いかもしれないし」
「…………そうですか。よく覚えていらっしゃるんですね」
「…ああ。あのティアラは、昔一度見たことがあるから」
リーチェの声が昔を懐かしむように和らぐ。その優しい記憶を思い、レイディは瞳を閉じて微笑んだ。
「僕の母が持っていたティアラによく似ていた。母はこの国に嫁いだ時に父親と喧嘩をしたと聞いた。その時に、あのティアラをこっそりと持ってきたとね。母も家族のことは愛していた。だがうまく仲直りできなくて、それでちょっとした悪戯心と、家族のことを忘れたくない気持ちだったのだろう。部屋で眺めている姿を、僕は見かけたことがあるんだ」
「……そんなことがあったのですね。お母様は随分とお茶目な方なのね」
レイディはリーチェの母親を思いやるようにして頷く。
「ああ。それで、ついこの間、お祖父様に呼ばれて母の国へと行ったんだ。その時、やはりあのティアラは飾られていた。母の姉がずっと持っていてくれたのだと言っていたが、きっと、母のために嘘をついてくれていたのだろう。…だから、やっぱりあの時見たティアラは気のせいだったのかな。ずっと御姉様が持っていたのであれば、母が亡くなった後に、引き取ってくれていたのだと思うから」
「……ええ、きっと、王子も疲れていたでしょうから、そう見えただけですよ」
身体の前で指先を絡めて、レイディは優しく諭すようにそう答える。
実際のところは、あの時キャットは本物を持っていた。今回の依頼は、もともとはリーチェの母親の侍女を務めていた者より依頼されたものだった。妃が亡くなってからというもの、行き先を失くしたティアラをその侍女は彼女の面影を忘れられずに、ずっと持っていたという。
女王がティアラを盗んでいたという事実を隠すためでもあったかもしれない。名残惜しくてなかなか手放せずにいたが、向こうの王室がティアラがないことに勘付き始めたという情報を聞き、彼らがティアラが盗まれたと騒ぎ出す前になんとかしなければと路頭に迷っていたところで、ゴースト一族の存在を知ったのだ。
女王と事実を知っていた女王の姉の名誉を守るためにも、彼女は大々的には返すことができず、ゴースト一族に妃の国へ返すようにと依頼をした。こっそりと女王の姉にティアラを返し、すべてを丸く収めて欲しいと。
ゴースト一族も快く引き受けたが、姉を探すのに難航した。どうやら病に倒れたようで、どこかで療養をしていたようだ。しかし療養から戻る前にティアラを返すことができれば、盗まれたという疑念は取り払われ、これまで通り、ティアラはずっと姉が持っていたということにできる。
ようやく姉を見つけ出し、依頼人からティアラを受け取るというところで、チャミルに邪魔をされたのだ。
レイディはその真実をそっと胸の奥にしまった。
仕事は完璧に遂行する。依頼についてはすべて極秘だ。相手が誰であろうと話すことはない。そこまでが仕事の一部なのだ。
ゴースト一族の矜恃をレイディは最後まで捨てることはなかった。
「……王子、あの……助けていただき、ありがとうございました」
レイディはチクリと胸に針が刺さるような気まずさを覚える。あの時、王子は恐らく自分を追いかけてくると思っていた。実際その通りで、そのおかげでチャミルの気を逸らすことができたのだ。
「何を言う。助けてくれたのは君だ」
「…私は、何も…」
「いいや。レイディ、僕は君に救われた」
リーチェの揺るぎない声が心臓まで響く。レイディの胸の底がその言葉に呼応するように飛び上がる。嬉しいのか、驚いているのか、自分でも分からなかった。思わず絡めていた両手の指を離し、後ろのアーチに助けを求める。けれど、この気持ちが不快ではないことは確かだった。
「僕はこの国の王子として、多くのことを学んだ。そしてこれからも、国の民を守るために歩み続ける。皆に恩返しをしないと、僕がこれまで受けてきた恩恵に釣り合わない。だが僕は、その勇気がなかった」
「…王子は勇敢だと思いますよ」
「それは君がいるからだ」
「…え?」
思わず振り返りそうになったところを、レイディはどうにか堪えた。
「君に出会って、僕はようやく理解した。何も難しいことはない。愛するものを、守るだけだ。それだけでいい。特別な勇気なんて必要ない」
「……それは、その…王子…」
「…君の立場は知っている。だが僕は、それでも君を愛したい。…いや、愛している」
「…………」
リーチェの凛とした声に、レイディは縋るようにぎゅっとアーチを握りしめる。すでにリーチェの言葉はレイディの胸に静かな波を立てている。ざあざあと音を立てているのに、レイディはそれを鎮めたくはなかった。ただその言葉を失ってしまわないように、この場に閉じ込めてしまいたくなり、それが叶わないと知っているからこそこの時が愛おしく感じた。
アーチを握った指先に、求めていた感情が触れる。レイディはその肌に胸を高鳴らせた。手袋をしていないリーチェのきめの細かい長い指がレイディの指に優しく絡み、レイディはその温もりを逃さないように握り返す。
「……レイディ」
繋がった指先から鼓動が振れていることに気づかれないか緊張しながら、レイディは背にした柔らかな感情に身を任せる。
「会いに来てくれてありがとう」
「…いいえ」
レイディはどきどきとしながらぼそっと声を零す。
「私が、会いたかっただけですから…」
はじめて会った時から知っていたその感情に、レイディは素直に心を開く。
いつから惹かれていたのかなんてわからない。けれどあの時、一緒にダンスをした時から、もしかしたら心は動いていたのかもしれない。
ハンガー座の屋敷で身を挺して道を開いてくれた時、その瞳にレイディは大きく背中を押された。彼がいれば大丈夫だ。この人の眼差しに、自分は包まれていたいのだと。
レイディは絡めた指にきゅっと力を入れる。
「王子……」
傍にいる資格など今の自分にはないだろう。レイディはそのことを十分に理解している。だからこそ、今度は自分が覚悟を示す番だ。あの時に、傷一つつけずに自分の前に姿を現した王子のように。
レイディがゆっくりと名残惜しそうに指を離していくと、リーチェもそれに応えてくれた。無理に引き留めようなどとはしない。それが彼なりの敬意なのだろう。
ざあっと一段と大きな風が吹くと、花々は踊るようにその場で優雅に揺れた。リーチェが後ろを振り返ると、そこにはもうレイディはいなかった。
リーチェは、先ほどまでレイディがいた場所に目を落とす。繋いだ想いを確かめるようにアーチにそっと手をかけ、確かに彼女がそこにいたことを噛み締める。
その日から、リーチェの上の空だった気持ちは地に足をつけ、しかと地面を踏み込んで前へと歩み出した。