⑧優しい手
ハンガー座の屋敷からゴースト一族の館に戻り、数日が経った。
レイディは、ブラックダイヤモンドのティアラの依頼を完遂させて戻ってきたスワンに声をかける。ちょうど、ラビットがスワンに出来立てのスープを出しているところだった。
「依頼人、どうだった?」
「ああ、安心したようだ」
スワンの向かいに座り、いつも通り落ち着いた声のスワンの返事を聞く。
「無事に渡せてよかったね」
「そうだな。ついでにチャミルも捕まったことだし、結果的に期待以上で終わったな」
「そうだね…」
スワンは俯き気味のレイディを見ながら、一口スープを口に運ぶ。
「レイディ、ヘッドと話すといい」
「…え?」
「レイディは気づいているか分からないが、ヘッドは話しに来るのを待っているぞ」
「……うん。そう、だよね」
レイディは小さく頷き、スープを味わうスワンを横目に席を立つ。
「ちょっと出かけてくる」
そう言い残し、レイディは部屋の扉を閉めた。とぼとぼとした足取りで屋敷を出ると、驚くほどに澄んだ空気がレイディを迎えてくれた。レイディは陽の光に目を細め、恨めしそうに太陽を睨む。
ブラックダイヤモンドのティアラは無事に依頼人の要望通りに本来の持ち主へと返すことができた。あの日、チャミルと揉み合った際にレイディが本物のティアラを奪い、レイディからそれを受け取ったキャットが、直前に回収していた伸びたままのハンヴェイの頭に乗せられていた偽のティアラと転がった際にすり替えた。
本物のティアラを手にしたキャットが飛び降りた時、リーチェはその手に光るティアラを見ただろうか。レイディは空から目を離し、ふとそんなことを思う。
ブラックダイヤモンドの件が無事に終わったのだから、次は王子から来ていた依頼に応えなくては。王子の探している人物を、まだちゃんと王子の前に届けることはできていない。
これまで依頼は必ず完遂してきた。“サムシング”が築き上げてきた信頼は、これまでの実績を大いに称えるものだった。それは分かっている。だから、この前のような偶然ではなく、依頼人に探し人のことを伝えなくてはいけない。それが任務だ。
レイディは屋敷の玄関に寄りかかった。
スワンの言う通り、ヘッドと話す必要がある。どこか憂鬱なレイディは、再び空を見上げる。どんよりと幕が覆いかぶさっている気分のはずなのに、胸の鼓動が密かに目を覚ましている。
レイディは深呼吸をして清らかな空気の恩恵を浴びた。
ヘッドの部屋を訪ねると、中へ入るようにとすぐに答えてくれた。レイディは扉を開け、暖炉の前で腰を掛けているヘッドの隣に並ぶ。
「ようやく来てくれたか」
嬉しそうに微笑むヘッドの優しい眼差しに、レイディの胸がズキンと痛む。
「はい。依頼はちゃんと終わらせてしまわないと…」
「さすがはレイディだ。教えをきちんと学んでいる」
誇らしげな声が暖炉のぱちぱちという薪を鳴らす音と共鳴する。
「ヘッド……私……」
レイディが小さな声を出すと、ヘッドはレイディの髪をそっと撫でた。遥か昔に知ったその温かさに、レイディの涙腺が僅かに緩む。
「立派になったな、レイディ」
「……ヘッド」
緩んだのも束の間だった。もう涙がじんわりと瞳を覆いはじめてしまう。レイディは恥ずかしそうにその涙をぬぐった。
「レイディ、君に出会った時から、私は君に教えたいことがたくさんあった。君は優秀で、なんでも飲み込みが早くて仲間ともすぐに打ち解けた。教えることはもうないのではないかと、誇らしくも少し寂しいくらいに君は自慢の娘となった。だが、私が一番教えたいことを、まだ伝えきれてはいなかったことは後悔していた」
「ヘッド…私は、ヘッドに出会えて幸せでしたよ…? 独りぼっちだった私を、ヘッドは救ってくれた。私に家族をくれたの。ヘッドたちのおかげで、私は笑うことを知った。美味しいご飯だって、食べることができた」
ぽろぽろと涙をこぼしながらレイディはヘッドの手をぎゅっと握りしめる。皺の出てきたその大きな手は、あの頃と変わらずレイディのことを守ってくれている。
「私はゴースト一族が大好き。それはずっと、ずっと変わらない。変わるはずがないの。だって、私はゴースト・レイディなんだから。この名前は、永遠に失いたくない」
ヘッドの手がレイディの頬を優しく撫でた。レイディはその手にしがみ付くようにして両手で抱きしめる。
「ありがとう、レイディ。だが、思いがけず、私は幸運に恵まれたんだ」
「……幸運?」
「ああ。私が君に教えきれなかったことを、伝えてくれる人が現れたのだからね」
「……それって、どういう…」
レイディの瞳がヘッドの穏やかな表情を見上げる。ヘッドはにっこりと笑い、少し情けなさそうに眉を下げた。
「私たちは君に愛を知って欲しかった。もちろん、私たちも君を愛している。けれど、まだ足りないと、そう思っていた。愛は貴重だ。隠れてしまうこともあるし、大いに存在を示してくれることもある。だがそこにあるはずなのに決して姿を見せないし、いつの間にか消えてしまうこともある。実体のない、まるで幽霊のようだ」
「……幽霊」
「だから私は、それが姿を現してくれた時には真摯に向き合う方がいいと思っている。…私は、だがね」
「……ヘッド」
レイディは頬を伝う涙が暖炉の火に渇いていくのを感じ、その温もりの灯を横目で見る。ゆらゆらと揺れる力強い輝きが、目の前のヘッドの顔を照らしていた。
「ありがとう、ヘッド……。ううん、お父さん」
久しぶりに聞いたその呼び名に、ヘッドは少し目を見開いた後にはにかんだ。レイディは変わらないその大きな手を引き寄せて、ぎゅっとヘッドに抱き着いた。
「本当に、大きくなったねぇ…」
ヘッドも愛おしそうにレイディの身体をぎゅっと抱きしめ返す。出会ってから何年経っただろうか。ヘッドはふと、当時のことを思い返す。埃にまみれた顔で、ボロボロの布を身に纏って世の中のすべてに警戒し、怯えていた少女。その瞳に映る者はすべてが敵だったことだろう。幼くも研ぎ澄まされすぎていたその瞳からはじめて涙がこぼれ落ちた時、こうやって同じようにレイディのことを抱きしめ、背中を撫でた。
そうするとレイディはこれまで我慢していた分、何時間も泣き続け、その後は、安心したのかそのまま眠ってしまった。
「レイディはいつまでも、私の娘だよ」
「うん…うん…ありがとう、ありがとう……」
あの時のように、レイディはヘッドに抱き着いたまま涙を流し続けた。違うのは、レイディの表情だった。あの時の悲しそうな顔とは違い、今回は嬉しそうに、それでもくすぐったい気持ちを隠すように笑っていた。