③酔い止め薬
「君、ダンスが上手じゃないか。どうして恥ずかしがるんです?」
「いえ、そんなことはありません」
王子は朗らかに微笑み続けている。筋肉が硬直してしまわないのだろうか。レイディはそんな余計なことを考える。ゴースト一族にこんな表情をする人はいない。誰からも愛されるような、そんな優しい微笑み。
ゴースト一族はどちらかというと人から好かれることを好まない。日陰に生きる者として、それ相応の評価で構わないのだ。安らぎを求めるなんて罪だ。
王子のブラウンの髪の毛は好青年という言葉がぴったりの形に整えられていて、一本一本が繊細に煌めく。
「あの、その、失礼ながら王子、私なんかではなく、他の方と踊っては?」
無駄かもしれないが試しに提案をした。チャミルはまだワインを飲んでいる。
「ははっ、僕とのダンスは嫌ですか?
僕のダンスを嫌がる人は初めてだ。
記念に名前を聞いても…?」
早く手を放したがっていることがバレたのか、王子はくすくすと笑う。
「……名前……」
ノワゼット家の娘…名前は、まだ決めていなかった。
レイディはきょろきょろと周囲を見る。周りは当然ではあるが踊っている人ばかり。女性はくるくるとした髪の毛をまとめていて、皆同じような髪型をしている。少しくらいバリエーションがあってもいいものを。
「…カーリー」
ぼそっと、レイディは名乗る。王子はその名を繰り返し、「僕はリーチェ。よろしくね」などと言う。
「……存じておりますが」
「それは嬉しいな。君は僕のことを既に知ってくれていたんだ」
おどけて笑うリーチェの大げさな声にレイディはついその表情を見てしまう。この国の王子を知らない人など少ないだろうに。彼は王太子だ。直にこの国の王を継ぐ者であり、国民に愛されるべき存在。
「まぁ、ふざけてらっしゃるの」
眉を歪めて笑うレイディは再びチャミルの姿を視線で追いかけようとするが、リーチェがぐるりと身体を回転させるので、バレリーナのように咄嗟に視線の位置を固定させた。
「いいや。本当に光栄だと思っただけだよ」
「……喜ぶべきなのかしら?」
リーチェにリードされるがままダンスを続けるレイディ。チャミルのことが気になって居ても立っても居られない心情のままに、うわべだけで会話を取り繕う。舞踏会に向けて準備を続けてきて良かった。まさか誰かと踊るなんて考えてもいなかったが、変な襤褸を出さずに済んだ。ましてやその相手が王子だなんて。
目立ちたくなどなかったが、例えその危機が訪れようと難なくこなす。それが最善の紛れ方だ。その場の空気となり、残り香すら置いてはいかない。それがゴースト一族がこれまで闇夜をすり抜けてきたやり方だった。
「王子? そろそろ他の方と踊っては? 私ばかりだと皆が嫉妬してしまうでしょう? 私、嫉妬を買いたくはないの」
レイディの控えめな申し出に、リーチェはつまらなそうに微笑む。
「それは残念だな。折角、舞踏会を楽しめそうになってきたところなのに」
「王子の主催でしょう? そんなことを言ってもいいのですか?」
不快ではない程度に口を尖らせるリーチェが視界に入り、レイディは思わず吹き出した。高貴な雰囲気を纏い、年齢よりもずっと落ち着いて見える容貌にそぐわない素朴な表情がリーチェにはあまり似合っていなかったのだ。
「そんな顔をしていていいのかしら? 皆が見ているのに」
王子に対してくすくすと笑い続けるレイディこそ、周りにしてみれば失礼に当たる。しかし本人はそんなこと気にしなかった。相手が王族だろうとレイディは構わない。すでにレイディはそんなことを怖がるほどの器ではなかったのだ。確かに、警備隊を率いる王族に目をつけられると厄介ではある。法など見て見ぬふりをする反社会的な活動もしているゴースト一族は確実に捕まるからだ。そういう意味では、王族という存在にも目を光らせておかなければいけないことに違わないのだが。
これまで王族だの、そういった高貴な存在とは無縁だった弊害か。レイディは少しばかりその存在を軽んじているようにも思える。
しかしリーチェはそんなレイディの失礼な態度にも怯まなかった。むしろ頬を緩ませ、その反応を歓迎しているようにも見える。
「僕は構わない。君が笑ってくれるなら、いくらでも変な顔をして見せよう」
ぐっとレイディの腰に添えた手に力を加え、リーチェはレイディと共に優雅な円を描く。ドレスが描く花道に、周囲はその空間を次第に明け渡していく。
目が回りそうなほどにぼやけた景色が移ろい、レイディの瞳は王子だけに焦点を当て、しかと捉える。こうすれば酔うこともないだろうと必死にその優しい微笑みを逃さないようにした。
視界の中でなびく王子の髪の毛は無数のシャンデリアの輝きを受けてキラキラと光を散らす。この国の王族は、それぞれをイメージづけるカラーが与えられる。リーチェに与えられえたカラーはアイスブルーと穏やかな茶色。そのカラーを身に纏い、今宵もリーチェはこのホールの主役となる。
主演のオーラなのだろうか。レイディは酔い防止のために視点としたリーチェに対して獲物が遠ざかり閉ざされていた瞳孔を広げていく。王子は見つめられることに慣れているのだろう。レイディが執拗に見つめていても全くその表情を変えることはない。ずっと優しい笑みのまま、レイディの好奇の瞳を受け入れた。
無意識に王子とつないだ手に力が入る。
白い手袋をきゅっと握ったレイディの華奢な指を、リーチェは骨董品を守るかのようにそっと包み込む。そのさり気ない変化に気づかないレイディはリーチェに導かれるがままホールの中央まで戻り、その間に音楽はクライマックスを迎える。一番大きなシャンデリアの下でリーチェはレイディの上半身を優しく倒した。リーチェの精悍な瞳が近づく。
「僕は本当に幸運だ」
リーチェの囁きが耳まで届いたとき、レイディの聴覚は無音に包まれる。そのままリーチェの声だけが反響してざわめきが遠くなる中で、レイディは身体を優しく起された。すとん、と姿勢が真っ直ぐになり、ようやく一人で立てるようになる。しかしダンスが終わってもなおリーチェを視界の中央に入れたまま離せなかった。
歓声と拍手が聞こえる気がして、レイディはハッとして上階を見上げる。チャミルがホールの興奮をつまらなそうに見下ろし、鼻を鳴らして背を向けたのが見えた。
「あ…っ!」
レイディは息を漏らして目を丸くする。
「ごめんなさい! 私、もう行かなくては…!」
目の前にいるリーチェのきょとんした顔を見上げ、レイディは慌ててお辞儀をしてその場を立ち去る。驚く人々の間を抜け、チャミルを見失わないように急いで駆ける。
「カーリー…!」
リーチェの凛とした声が後ろ髪を引く。しかしレイディは決して振り返らずに、前だけを見てチャミルを追いかけることに集中する。ここで見失ってしまったら、また姿をくらましてしまう。そうなると、ひらすら闇鍋に手を入れ続けることになりかねない。ブラックダイヤモンドの依頼人を待たせる猶予などないというのに。
「ああもう! 走りにくい…!」
スカートを捲し上げ、走るのには向かない格好のまま苛立ちの声を上げる。
レイディの剣幕に従者たちも道を開け、レイディは真っ直ぐに城の玄関を出る。チャミルの背中はもう見えない。この夜にすでに溶けてしまっただろうか。
「スワン…! ベア…!」
レイディの声に、外で待っていたベアが顔を出す。
「今、スワンが追ってる。レイディも急げ!」
「わかった…!」
ベアに誘導された生垣に隠れ、レイディはドレスを解体する。もしものためにと、ヘッドがすぐに動きやすい格好になれるように特注してくれたドレスだ。レイディは容赦なく引き裂き、大きなスカートを破り取る。
「ベア! これよろしく!」
剝がした大量の布をベアに投げつけ、レイディはスワンの後を追った。ベアは布をドサッと両手で受け取ると、その圧に顔を押されて窒息しかける。
「おい、こんなに着てたのかよ…」
呆れたように顔を出し、もう姿が遠くに行ってしまった軽装のレイディを見やる。同情の瞬きをした後、そのまま馬車に布を詰め込み、ベアは馬に活を入れて威勢よく駆けだし、城内の熱気とは対照的に閑散としている城の庭を抜けていった。