②現れし人
舞踏会の夜が来た。この日レイディは朝から風呂に入り、髪を整え、いつも以上に入念に化粧を施してドレスに身を包んだ。これだけで出発の時間が来る。
煌々と光り輝く半月のもと、レイディはゴースト・ヘッドが用意してくれた馬車に乗り込む。どうも知り合いの農場主が貸してくれたらしい。ゴースト一族は基本的に足で動くために馬車は持たない。お屋敷を出て目に入ってきた見慣れない馬車の姿に、レイディは一度ため息を吐く。
「苦しいの? 締めすぎたかな」
キャットが丸い目をぱちぱちとさせる。ドレスを着つけてくれたキャットは、コルセットをこれでもかというほど締めてきて、レイディは今、少しキャットのことが恨めしかった。
「大丈夫。これくらい…」
強がりを言うと、隣にいるベアの手を取って馬車に乗り込む。ベアともう一人、ゴースト・スワンが城の外に待機することになっている。二人は舞踏会には入れないが、チャミルが逃げ出した際の行き先を尾行するという重大任務が待ち構えている。
「馬子にも衣裳って、こういうことかねぇー」
ゴースト・バードが玄関の前で腕を組んで感慨深そうに頷く。青にも緑にも見える控えめな色のドレスに身を包んだレイディが馬車に乗り込むと、ゆらりと車体が揺れてレイディは乗り物酔いを危惧した。
「レイディ、今日は綺麗だからどっかの令嬢に見えるよ。変な輩に絡まれないでね」
扉を閉め、キャットは伸びをする。絶対心配なんてしていない。レイディはキャットの本心を読み取り、苦笑いをする。どうせ、今すぐに寝たいとか考えているに決まっている。
「じゃあ行ってくるから、留守は頼んだぞ」
ベアは馬を操るスワンの隣に座り、館に向かって手を振る。バードが小さく左手を上げたのを確認し、手綱をふるって馬車を走らせる。凛とした涼やかな空気を切り裂き、チャミルのいる城へと向かう。今夜の舞踏会は国を挙げての盛大なお祭りのようなもの。多くの出席者がいることだろう。そのおかげでレイディも紛れ込むことができた。
王族のセキュリティ意識はどうなっているのか。そんな余計な心配をしてしまったが、それを補えるほどの兵がいるのだろう。レイディはそんなことを考えながら空を見上げる。動くはずのない星が流れていく様を見て、今夜がいつもとは違うことを意識する。
舞踏会なんて華やかな場所をレイディは好まない。ずっと質素な生活しか知らなかったのだから当然だ。憧れようにも、普段から宝石や豪勢な絵画は見慣れているから、羨ましいとも思えない。
あんなものに皆は気を狂わせるのだから、王族のお城なんて劇薬だらけに決まっている。
レイディはどさっと深く座り直し、チャミルの顔を思い返す。今回はしてやられた。ゴースト一族のことをよく思わない勢力がいることは分かっていた。それでも、これまでずっと大人しかったハンガー座が手を下してくるとは盲点だった。
気づけなかった自分の不甲斐なさに虫唾が走る。
レイディはぐっと宙を睨みつけた。
舞踏会なんてどうでもいい。今夜の目的はただ一つ。あの憎たらしいチャミルを見つけ出してブラックダイヤモンドに近づくこと。
街の賑やかな通りを過ぎる頃には、すっかりレイディの顔つきは勇ましく変貌していた。
ノワゼット家の令嬢。それが今夜のレイディの姿だ。偽装した招待状は難なく門番の目をすり抜け、馬車は城の正面に着いた。
スワンが馬車を降り、扉を開ける。するとさっきまで静まっていたレイディを纏う空気は一気に華美なものへと入れ替わる。城の中からは目を瞑ってしまいそうなほど眩しい灯が漏れ出てきて、どこからともなく生演奏の音楽が聞こえてくる。精一杯のお洒落をした娘たちが従者たちのお辞儀に迎えられて階段を上がり、きゃっきゃっと弾むような会話をする。
「うっ…」
手で光を遮りながら、レイディはスワンの手を取り馬車を降りる。スワンはすっかり従者になりきっていて、まるで別人のように見えた。レイディよりも少し高いところにあるスワンの顔を見上げてみると、その顔のいつもは動かない頬の筋肉が動いて微笑んでみせる。
そのなりきりぶりに緊張がほぐれたレイディはお辞儀をして城の中へと吸い込まれるようにして入っていく。スワンたちとはここで一度お別れだ。レイディはふかふかの絨毯に足を踏み入れる。しばらくは単独行動だ。レイディは気を引き締めてホールへと向かう。
レイディを迎え入れるのは、数えきれないほどの調度品の数々と、見栄えのいい服装に身を包んだ従者たち。兵も紛れていて、確かにこれはセキュリティに自信を持っていると言ってしまいたくなるだろう。
煌びやかな装飾が瞳に映る。だがレイディの頭の中には数字が浮かんでくる。これらすべてを合わせると、いくらで流せるだろうか。きっと引く手数多なのに、こんなところに引きこもらせていて勿体ない。ゴースト一族の性なのか、レイディの思考はそんな結論ばかりを求めてしまった。
ホールに入ると、そこはまるで異世界だった。階下には色とりどりのドレスが咲いていて、ふわりふわりと揺れ動く。中央で踊る人がいれば、料理と会話を楽しんでいる者もいる。ホールいっぱいに人が満ちていて、レイディは茫然とする。
「……チャミルは、いるの?」
階下の光景に呆気に取られていたレイディは、ふつふつとその挑戦心に火が付く。
皆、着飾っていて一目見ただけでは誰が誰かも分からない。知り合いでもすぐには判断がつかないかもしれないその人波の中で、一点の当たりだけを引き当てる。
まるで宝石探しのよう。それならば、レイディは得意だ。階段を下りながら、その口元は次第に綻びていく。
「待ってなさい、チャミル」
ほくそ笑みながらホールに降り立ったレイディは、初めての舞踏会へといざ挑む。
まずは腹ごしらえ。レイディはフィンガーフードをちょこちょことつまみ、目の前を通ったワインで喉を潤わせる。屋敷で食べているのと味はそう変わらない。そう思うと、ラビットはやはり有能なのかもしれない。そんなありがたみをこんなところで実感していると、ふと音楽が変わる。
少しアップテンポの明るい曲になると、今まで休憩していた人たちもダンスホールへと向かう。中央部分は人で溢れていて混雑しているが、これで少しは人の隙間が見えるようになった。
レイディはチャンスとばかりに目を凝らす。チャミルはダンスが苦手なのを知っている。リズム感が絶望的にないのだ。そのことはちょっとしたネタとして有名だった。ダンスなどしなくとも、その話術と表情で十分に勝負に挑めるから問題はないようだが、少なくとも、中央部分にはいかないはずだ。
それにしても、チャミルの執念には脱帽する。きっと王子にも近づいていることだろう。レイディはある種の敬意を払いながらも自慢の視力を駆使して人々の顔に視線を巡らせる。
しかしこのドレスは歩きにくい。無駄に広がったスカートの裾がぶつかり合いそうになって、レイディは真っ直ぐに歩くことができなかった。他の人のドレスを変に汚してしまったらどんな恨み節を言われるか分からない。そんな暇はないのだから。
「あぁ、もう…鬱陶しい…!」
おめかししたドレスの裾を持ち上げ、レイディは腹の底から声を出す。とはいっても、小声程度に。悪態をついて目立つようなことはしたくない。それでもこのふわっふわなスカートは邪魔なのだ。
人一倍気を遣いながら歩いていると、そんなことは気にもしない一人の美しい娘がレイディにぶつかってきた。会話に夢中だったようで、後ろを通り抜けようとしていたレイディに気がつかなかったようだ。
ずれてきていた髪飾りを直そうとしていたレイディの手が頭を離れ、同時に髪飾りが床に落ちる。
「ごめんなさいっ!」
娘は申し訳なさそうに頭を下げたが、レイディはこなれた微笑みを返す。取り繕うのは慣れている。異常に優雅な微笑みも、この一週間で習得したのだ。
何も気にしなくていいですわよ、そんなことを表情だけで伝えてやる。
娘がひらすらに謝るのを聞きたくなくて、レイディは髪飾りを拾おうとしゃがみこむ。しかし足を曲げるとスカートがクッションのようになってしまって、それを阻む。あと少しで届くのに。
「はぁ……っ」
このドレスの不便さに痺れを切らし、スカートの裾の位置をずらしてもう一段階深くしゃがみこもうとしたとき、届きかけた髪飾りが白い手袋に拾われる。
「……?」
きょとんとしたまま顔を上げると、目の前には端正な男性の顔があった。肌のきめ細やかさがこの距離でも分かる。丁寧に手入れされていて、光を浴びているように輝いていた。
「どうぞ、こちらを」
彼が髪飾りを差し出すと、周りの人々はざっと一歩下がる。娘がなぜあんなに謝っていたのかよく分かった。この人の前で醜態をさらしたくはないだろう。彼はこの国の王の一人息子、リーチェ・ロゼ王子だ。
「ありがとうございます……」
洗練された笑顔に唖然としながら、レイディは髪飾りを受け取り元の位置へと戻す。その様子を王子はにこにこと見つめていた。周囲がざわざわとしていても何も気にならないようだ。
この王子が舞踏会で婚約者を探しているという話だが、こんなところでなに油を売っているのだろう。レイディは彼を見つめる無数の瞳をちらりと見て王子の顔を見上げる。
するとその向こうに求めていた人影が見えた。王子の頭の向こう、階段を上ったところにある廊下からホールを見下ろしている女。今日は真っ黒な髪の毛に映える美しいベルベットの赤紫のドレスに身を包んでいる。
「チャミル……!」
息を吐くような声でレイディが彼女に狙いを定めた時、瞳は狩猟者のように輝いた。しかし視界の端に映る王子はそこをどこうとはしない。それどころか、心臓の位置に手を当ててこちらに礼をする。
「僕と踊ってはいただけませんか?」
「……は?」
幻聴だろうか。レイディはチャミルを飲み込むように開いた瞳孔のまま王子をポカンと見やる。
王子はレイディの表情など目もくれず、指揮者に向かって合図を送る。すると楽団は指揮者に促されて美しい旋律を奏で直す。
「さぁ、手を」
「へ…いや、あの……」
チャミルから目を離すことはなく、レイディは困惑したまま眉を下げる。折角チャミルを見つけ出したというのにこの王子、空気を読まない。だが王子にしてみれば読む空気もなかっただろう。レイディがゴースト・レイディなど知る由もなく、ましてチャミルの事情など知らない。
「あ、あの…っ!」
王子に手を引かれ、レイディは半ば強引にダンスホールへと飛び込む。かろうじて追っていたチャミルの姿だけは視界から外さない。
「ダンスは苦手ですか?」
「いや、その、そういうわけでは…」
誰がこの舞踏会の主催、この国の王子の誘いを断ることができるだろうか。それも大勢が注目している中で。レイディも例外ではなく、そんなことはできなかった。何より目立ってしまう。すでに目立っているのは言うまでもないが、ここで断ればその注目はどこまでも続く。
ならば今は流れに任せておくことしかできない。ちょっとばかし踊って、すぐにチャミルを追いかければいい。レイディはそう決意し、しばしの間王子に時間を差し上げた。