15歳 1
今日は、帰任後初めてディランがフローレンス家を来訪する日である。エリーゼも、エリーゼの家族も、使用人も、ディランの無事の帰任と、久しぶりの来訪に浮足立っている。そんな屋敷の中を、兄の急かす声が響く。
「えー、本日はお日柄もよく……」
「父様、口上の練習なら隅でしてください」
「ねえ、殿下がいらっしゃるのにこのドレスでおかしくないかしら?!」
「母様、もう服のことはいいですから、屋敷の最終確認は終わりましたか?」
「ああ、エリーゼは、早くドレスに着替えて! ハンナ、手伝って! 料理の準備と掃除は万端かい?!」
「……お兄様、大変ね」
騒がしいフローレンス家の門に、毛並みのいい馬を繋いだ馬車が止まり、銀髪の一人の男性が出てきて、フローレンス家の屋敷に近づいてきた。
家族とともに、出迎えのために家から出てきて、一年ぶりに、ディランの姿を見たエリーゼは目を丸くした。
もともと美しい顔をしていたディランだったが、厳しくも引き締まり、ますます端正な顔になっている。澄んだ紫の瞳は、物事を見通すように鋭い視線で、まっすぐ前を向けている。
銀色の美しい色はそのままに、肩まで伸ばしていた髪は、首元で短く切りそろえられて涼やかな印象を与える。背は一年前から更に伸び、筋肉がつき厚くなった体はもう少年ではなく、青年のものになっている。
そんなしっかりと男になった人が、エリーゼを見て、ほっとしたように笑った。
「任務お疲れさまでした」
久しぶりにフローレンス家に到着したディランを迎え、エリーゼの父が嬉しそうに言った。
エリーゼの父の出迎えの挨拶に、ディランが応える。しかし、父の隣に立ったエリーゼは、声を発さない。そんなエリーゼに、父は呆れたように声をかけた。
「ほら、お前も何か言ったらどうだ。ずっと殿下のお帰りを待っていただろう」
そして、話を促すように、父がエリーゼに視線を送ると、エリーゼは真っ赤な顔をして、口を一文字に結んでいた。その様子を見て、エリーゼは声を発さないのではなく、声を発せなくなったのだと気付き、父は揶揄するように言った。
「ああ、そうか。殿下が格好良くなられたから、エリーゼは緊張して話せないんだな。殿下、どうもすみませんなあ」
図星を突かれたことに苦々しげな顔をなったエリーゼは、笑っている父を蹴り上げた。ディランからは見えないようにしたつもりだったが、大げさに痛がる様子を見せた父の様子から、エリーゼが父を足蹴にしたことは気付かれたようで、ディランは声を上げて笑った。ひとしきり笑った後、ディランが言った。
「フローレンス伯、エリーゼ嬢をお借りしてもいいかな?」
「よっ、喜んで!」
エリーゼの父は、一も二もなく返事をした。
二人きりになると、流石に話さないわけにはいかない。緊張しながら、エリーゼは口を開いた。
「きっ、帰任早々、我が家までお寄りいただき、ありがとうございます。いつものところですみませんが、中庭に案内させていただきますわ」
「いや、嬉しいよ。辺境伯の領地に慣れなかった頃、いつもフローレンス家の中庭でくつろがせてもらっていたことを思い出していた」
離れていても、ディランがフローレンス家への来訪を思い出してくれていたと知り、エリーゼは嬉しくなった。
慣れた中庭に着き、一年前と変わらないディランの様子を見ていると、次第にエリーゼも落ち着いてきて、口を開くことができた。
「改めまして、お帰りなさいませ」
「ああ、ただいま」
しかし、ディランがふわりと笑ったのを見て、エリーゼは心が再び激しく動き出すのを感じた。
(わ、笑った……。しかも、皮肉気なものじゃなくて、優しい感じの……。さっきも見たけど、幻じゃなかったんだ……。)
「一年間、君はどうしていた?」
「こ、これまでと変わらない毎日を過ごしていました。小説を読み、絵画を楽しみ、刺繍を刺し、友人と語らって、たまに王子妃教育のために王宮へ行っていました」
(もっとも、ディラン様がどうされているか気になって、何をするにも気がそぞろになってましたけど。)
それから、エリーゼはディランに勧めた物語の完結や、兄の婚約についてのよもやま話など、この一年であったことを話した。そのことを、時に笑いながら、時に呆れながら、ディランは聞いた。ひとしきり話し終えた後、ちょっと迷ってからエリーゼは言った。
「あとは、私、最近、ブルマリン王国の小説を読むようになりました」
「へえ」
それまで、穏やかに話を聞いていたディランの視線が鋭いものに変わった。
「この国では、ブルマリン王国の小説は流通していないと思うが。どうやって入手したんだ?」
「実家で貿易業を営んでいる小説仲間がいまして、借りることができました」
(ディラン様のことを思って、いつも呆けたようにしている私を見兼ねて、秘蔵本を貸してくれたというのが、正確なところだけれど……。)
ディランは固い雰囲気を保ったまま、質問を続けた。
「それで、どうだった?」
「えーっとですね、最初は、殿下が向き合われている国をちょっとでも知りたいという気持ちだったのですが……、小説に魔法を用いた幻想的な表現が出てくるので、魅了されてしまいました」
(前世のファンタジー小説を思い出す感じで、私は面白かったんだけど、敵対していた相手国の小説を好きになったとか、ディラン様も流石に嫌かなあ……。)
エリーゼは内心、恐る恐るだったが、ディランは特に気にしていないようで落ち着いた様子だった。
「そうか。魔法を使える人間は、ブルマリン王国でも数多くはないと聞いているが、小説に出てくるくらいは馴染みのある存在として受け入れられているのだな」
「ええ、読んだのは庶民向けの読みものでしたので、広く受け入れられているようです」
ディランは、エリーゼから聞いた話に、眉を顰めた。
「存在がそこまで広がっているなら、ますます知識は広がって、ひいてはますます使える人間も増えていくんだろうな。……厄介だな」
「そうですよね。敵になるかもしれない相手ですものね。小説の世界だけ見て、はしゃいでしまって、お恥ずかしいです」
申し訳なさそうにするエリーゼに、ディランは淡々と答えた。
「何だって見ないよりいいさ。王宮では、隣国の魔法を怪しい魔術だ、疎ましい、汚らわしいと、見ないようにしている人間がほとんどだ」
ディランの言葉に裏はなく、思ったことをそのまま言っているであろうことを感じ、エリーゼはほっとした。
エリーゼの様子には特に気付いていない様子で、ディランは続けた。
「知ろうと動かないと、何も分からない。分からない相手とはまともに戦うこともできない」
そう言った後、少しして、ディランは何かに気付いたように声を出さずに笑った。そして、エリーゼの方に向き直り、すっとエリーゼの手を取った。
突然の行動に、エリーゼは戸惑う。
「ディ、ディラン様?」
慌てふためくエリーゼだったが、ディランは気にせず、柔らかな視線をエリーゼに向けながら、言った。
太陽を背に受けたディランの銀の髪が、いつもに増して輝いている。
「私が、騎士団と共に鍛錬を受けたのも、辺境伯の領地にいたのも、たった一年ずつだが、彼らが命を懸けて、国を護っているということに、今更ながら気が付いた。王家の背負っているものが、ようやく分かった気がする」
(そ、それは素晴らしいけど、何で、こんな私の目を見ているの? 何で、私の手にこんなに優しく触れているの?)
エリーゼは夕日の逆光だけでない眩しさに眩暈がする思いだった。声は出せないまま、目を見開きながら必死で首を縦に振った。
「二年前、君が婚約者になってくれるまで、私とて何も知ろうともしなかった。君が婚約者になってくれたから、知れたことばかりだった」
そう言うと、ディランはゆっくりと頭をかがめ、エリーゼの手の甲に自らの唇を付けた。エリーゼは、手の甲に、暖かく柔らかな感触を感じた。
ディランは、優しく熱を持った紫色の瞳で、エリーゼと目をしっかり合わせて、更に言った。
「だから、今の私があるのは、全部、君がいてくれたお陰だ」
その瞬間、かあっと、エリーゼは全身が火照ったのを感じた。
顔が熱い。目がちかちかして、景色も歪んできた気がする。心臓は忙しく早鐘を打つのに、腰が抜けたように体は動かず、ディランから目を離すことができない。
そして、真っ赤な顔でディランを見つめたまま、エリーゼは、ディランへのはっきりした恋心を自覚した。