13歳 4
ディランとエリーゼの婚約が決まってから、一年が経った。
その日は、お妃教育がいつもより更に早く終わった。お妃教育は相当厳しいらしいと友人から脅されていたので、当初、エリーゼは緊張していた。しかし、実際に行ってみると、そこまで厳しいわけではなく、時間は3時間程度で、優しく丁寧に教えてもらえるのに拍子抜けした。
「ねえ、ハンナ、今日も無事に終わったわね。お妃教育が厳しいというのはフィクションだったのかしら? お妃になるまで余裕があるから今はゆったりさせているということかしら?」
「私などにはさっぱり分かりませんが、期待されていないとかそういうことかもしれませんねえ」
「ハーンーナー」
エリーゼは少し怒ったふりをして、それからいつもの表情に戻した。
「なんてね。まあ、私もそうかもしれないなあとも思うわ。元より、中堅伯爵家の特徴もない私だし」
「私はこんな気楽なお嬢様に仕えられてラッキーですけどね」
「それは良かった。まあ、考えても真意は分からないし、理由はどれでもいいか。ちょっと早いけど、殿下の元へ行きましょう」
考えても仕方ないことについては、エリーゼはあまり考えこまない質であった。
エリーゼがいつも招かれている部屋に向かうと、護衛から、ディランは一度来たものの、エリーゼが来ていないことを確認して、中庭にある薔薇園に行ったと伝えられた。
部屋で待っても良かったが、王宮の中庭に興味もあったので、向かってみることにした。勝手に出歩くことを嫌がられるかもしれないので、念のため、人に見つからないよう、こっそり移動することにした。
そして、着いた中庭では、終わりが見えないくらい遠くまで、春らしい色とりどりの花が、視界いっぱいに咲き誇っていた。あまりの美しさにエリーゼとハンナは二人で息を呑んだ。
「さすが王家というか、中庭も広いわね。我が家よりも大きいんじゃないのかしら」
「間違いなく、フローレンス伯爵家二個か三個がすっぽり入る大きさだと思いますよ」
「やっぱり? そして、こんなに広いのに花が一面に咲いているなんて、手のかけられ方が伊達じゃないわね!」
中庭の一角ある薔薇園はすぐに見つかった。ただ、薔薇のアーチで作られた入口から先は、通路が迷路状になっていた。迷路の壁に沿うように薔薇が咲き誇っていて、ディランをすぐに見つけることはできない。咲き誇る薔薇を見ながら、ゆっくり進みながら探していくと、やがて光り輝く銀色の髪が見えた。一歩近づき、目に入った風景にエリーゼは目を奪われた。
白銀の髪に爽やかな薄紫色の瞳の整った白い顔、出会った時より大きくすらりと伸びた体躯をしたディランがそこにはいた。着ているのは、金の刺繍が入った上質な白地の布を使ったと一目で分かる王族用のジャケットに、揃いのパンツだ。そんな彼が、桜貝の色をした薔薇をじっと見つめている。薔薇があふれる庭園に、絵本から抜け出てきたような王子が佇んでいた。絵画的な景色に、エリーゼとハンナは思わずうっとりと見惚れた。
(普段の色気のない会話しているので気付かなかったけど、絵本から出てきた王子様みたい……。こんなに薔薇が様になる15歳の少年なんていないんじゃないかしら?)
つい見惚れてしてしまい、話しかけることもせず、物陰からディランの様子を窺っていると、別の一角から庭師の男が現れた。しかし、一向に庭仕事をする様子もなく、その庭師もディランを見つめている。
(……え、庭師まで殿下を見つめている? まあ、格好いいものね?)
しかし、よく見ると、庭師は、足元がふらついていて、土気色の顔をして、ただならぬ雰囲気を漂わせていた。
(もしかして、体調でも悪いのかしら?)
心配から、そっと庭師に近付いてみて、その右手に持っているものに、エリーゼは驚愕した。園芸鋏かと思っていたそれは、短剣だった。そして、更に悪いことに、覚悟を決めたように、ディランの方に一歩踏み出したのだった。
そのことを確認すると、エリーゼは男の元へ駆け出した。
「殿下っ……!」
「エリーゼ様?!」
ハンナの戸惑う声が聞こえたが、気にしている余裕はなかった。エリーゼは、持てる力の限り走り、後ろから庭師に化けた男の腰に必死でしがみ付くと、エリーゼと男はバランスを崩した。突然の乱入者に男は驚愕したが、エリーゼがしがみ付いてきた状況を確認すると、激昂したような表情をエリーゼに向けた。
エリーゼは、しがみついた男の腰の太さと体の硬さとに、男と自分の体格の差を、一瞬で理解した。
(大人の男の人の力に、勝てるはずがない。でも、なんとかしないと殿下が危ない……!)
しがみついた腰の近くに、男の右腕があるのが目に入った。エリーゼは少しでも凶行を抑えようと、短剣を持つ男の右の掌になるべく近い場所に渾身の力で噛みついた。不意を突かれたらしく、男は低い声で唸り、痛みと驚きで目を見開いたが、すぐに獰猛な顔つきに変わり、自由になる左手の拳を力いっぱいエリーゼの方へ向けた。そして、その拳をエリーゼの鳩尾に打ち込んだ。
男の拳骨で本気で殴られたエリーゼは、男の右腕を噛み続けることができず、口を離した。そして、まだ体も軽い少女であったため、殴られた衝撃を足で踏ん張り切れず、宙を舞った。
ディランが衝撃を受けた顔で、エリーゼの名前を呼んだ。宙を舞ったエリーゼは、スローモーションのようにディランを襲おうとしていた男の短剣が地面に落ちていること、ディランの護衛が男を取り押さえにかかったこと、近衛兵と思われる一団が駆けつけてきたことを確認した。
エリーゼがほっとしたその直後、エリーゼは地面に体を強く打ち付け、意識を失った。
ふと意識が浮上したのを感じて、周りの感触を確かめてみると、ふかふかのベッドの上にいるようだった。
(……ん? あれ、私、寝てる? 王宮に行っていたはずじゃなかったっけ?)
ゆっくり目を開けると、夕焼け空の光と泣きそうな顔を向けるディランの姿が見えた。エリーゼは、ディランの命が狙われていたと思い出して、慌てて起き上がったところで、咳き込んでしまった。
「急に起き上がるんじゃない!」
ディランは、エリーゼの背中をさすり、落ち着いたところで、ベッドに戻した。心配そうにハンナが寄ってきて、布団を掛けてくれた。エリーゼはベッドから聞いた。
「……殿下……ご無事でしたか?」
ディランは息をのんだ後、項垂れた。沈黙が落ちた。
(殿下は何かあると、すぐ黙っちゃうなあ……。どうしたんだろう……? もしかして、殿下にお怪我があったとか……?!)
その可能性に気付き、再び慌てて、体を起こして、下を向いてしまったディランの顔を覗き込みながら言った。
「殿下! お怪我があったのですか? どちらですか? 痛むのですか?」
そう声をかけるなり、ディランは顔をくしゃりと歪ませ、苦し気に言った。
「……私のことより、自分のことを心配したらどうだ」
そして、今度はエリーゼの目をしっかり見て、怒ったように言った。
「……君が守ってくれたから、私は無傷だ。あんな狼藉者に立ち向かうなんて無茶が過ぎる。私のことなど放っておけばよかったのだ。君はバカだ! うつけだ! 愚かだ!」
(色々言っているけど、つまるところ、バカを言い換えているだけですね。)
ディランがこんな激しく怒っている姿を初めて見て、エリーゼはびっくりした。現実逃避にそんなことを考える。
「君が、私を庇って死んでいいはずがない。もう二度とこんな真似はするな! 分かったか?!」
ディランは怒った表情のまま続けた。エリーゼは、どう返事をしたものかと考えあぐねた。
(でも、後ろから刺されそうになっていたんだし、間違いなくあのままだと殿下の命がなかった。私が庇うとしたら、正面からではなく、後ろから狼藉者を止めることになるので、危険はあっても、死ぬかどうかは五分五分だったんじゃないかな……。
あと、命の重さとかあんまり考えたくないけど、王族であるディラン様を庇うのは、この世界の一貴族である私の行動として無理はないのでは。
いや、でも、婚約者に庇われたというのは、ディラン様にとっては、ただでさえ王妃様と第二王子殿下の派閥のせいでよく言われていない王宮での評判を、更に悪くしてしまうことになるのだろうか。)
そうであれば、謝罪することは一つだ、とエリーゼは口を開いた。
「殿下の面目を潰してしまったことは謝罪します」
「そうじゃない!」
謝罪を間違えたらしく、ディランの怒気が更に恐ろしいものになった。
再び、長い沈黙が落ちた。怖いながらも、エリーゼがそっと様子を伺うと、ディランは泣きそうな顔をしていた。その顔を見て、怒っているとばかり思っていたエリーゼは虚を突かれた。
(怒っているのに、泣きそう。泣かないで、ほしいな。)
「……ご心配をおかけして申し訳ございません」
「本当だ。もう二度とこんなことはするな。分かったな」
エリーゼはディランの言葉に対し、殊勝に見えるよう、気を付けて答えた。
「殿下にお怪我がなくて、良かったです」
「……お前、私の言葉に回答をしていないな?」
ディランの言葉に承諾していないことをあっさり見破られて、エリーゼは苦笑した。
「だって、殿下の危機だと思うと、とっさに体が動いてしまったんですもの」
もうしないとは約束できない、とエリーゼが暗に匂わせると、ディランは何かを言おうとしてしばらく逡巡した後、結局何も言わず、大きくため息をついて、額を手で押さえた。