プロローグ
レドモンド国のフローレス伯爵家は、貴族としては広くも狭くもない領地を任じられていて、歴史も王家の信頼も浅くも深くもない。
私、エリーゼ・フローレンスは、貴族としては毒にも薬にもならない、そんな特徴のない家に、生まれ育った。
だから、自邸にて、いつも呑気な顔をしている父が気まずげに視線を何度も宙に彷徨わせた末、口を開いて言った言葉に、目を見開くことになった。
「お前は、この国の第一王子殿下であるディラン・マクスウェル様と婚約させていただくことになった。あの、錠前作りが趣味で有名なお方だ」
フローレンス家は、可もなく不可もない中堅貴族のはずで、そんなフローレンス家から、王家に嫁ぐなど万が一にもないはずの珍事であった。
エリーゼは、突然のことに呆然としつつ、錠前作りが趣味なんて歴史の教科書で見た昔の王様と一緒だなと、ぼんやり思った。
(あれ? でも、錠前作りが趣味なんて、古今東西、この国の第一王子殿下が唯一で、だからこの国一番の変人と言われているはず。)
何故、そんなことを思ったのか、エリーゼは自分の頭に浮かんだことに戸惑いながら、考えを巡らせる。
(いや、錠前作りを趣味としていた王様は「ふらんす」にもいたはず。いや、「ふらんす」ってどこ? 近隣諸国にそんな国はないし、見聞録にも歴史書にもそんな国の記録はなかった……。)
「エリーゼ? 大丈夫か?」
気づかわし気に、父が声を掛けてくるが、エリーゼの頭の中はそれどころでない。
(いや、でも、確か「ぶるぼん」王朝。そう、「るい」王朝だ。私は学校で習ったことがある? いや、学校? 勉学は全て家庭教師から受けているはず。じゃあ、脳裏に浮かんだ、狭い空間に子供がいっぱい小さな部屋に押し込まれている景色は何?)
はっと、その瞬間、エリーゼの頭に、漫画、ゲーム、車、電車、冷蔵庫、学校、スーパー、この世界にはない様々な概念が脳に強い光のように浮かび上がり、消えていった。
(そうだ、私は「日本」と呼ばれる国で生きていたことがあった。)
そのことを認識したのは最後に、エリーゼはふっと意識を失った。
前世を思い出したショックから、エリーゼは高熱で三日三晩寝込んでしまった。
しかし、それを、周囲は変人王子との婚約が決まったショックで意識を失ったと解釈したらしい。