魔法の夜
魔法の夜が来る。
煌々と月が赤く輝く、並々と魔力が満ちる日だ。
この日、私は闇に溶けるような黒いフードを目深にかぶり、地下へ降りる。大きな円を描く魔法陣、それしかない空虚な一室。そこで私は魔法陣に向かい手を振り、呪文を唱えた。
「ヨ・デイヨ・ノモル・メヤナ」
陣を描くインクを光が辿る。なめらかに、ゆるやかに、探し人を探すがごとく。
インクに光が満ちると煙が立ち込める。大きなものを吐き出すような形容しがたい音とともに、何もなかったはずの部屋に人影が現れる。
その人影は小太り気味で頭も物寂しい初老の人間の男だった。顔が赤らんでおり、アルコールの臭いが鼻をつく。前回はまだ年若いオークの男だったな。ふむ、身なりから労働後に酒場で飲んでいたのだろうが、さて。
「こ、ここは? おれぁ一体……?」
頭上にわかりやすくクエスチョンマークを出す男に私は咳ばらいを一つ、できるだけ低い声を出した。
「おほん、その者、我が声が聞こえるか。聞こう、そなたの望みはなんであるか」
「え? えぇ? なんでぇ、わけがわかんねぇよ。あんたは誰なんだい? おれぁそんなに酔っぱらってたのかぁ?」
「おほん、私のことはよい。そなたには今困りごとがあるのではないか? 金か? 女か? 人間関係か、なにかしらあるであろう」
「あー、あーわかんねぇ! わかんねぇよー! 悪魔のささやきだー! 助けてくれー!」
見るからに目を回しパニックに陥っている男に私も困る。話が進まない。
「えー、端的に聞きたいのだが、最近の世情というか制度や法律や生活の不満などまたは個人的なことでも民衆の声を聞きたいのだ。それだけだ話が終われば元の場所に戻す、約束しよう」
「え……あ、はい」
今空気がスンとした。人が酔いから醒める瞬間を見てしまった。
もう一度聞きたいことを丁寧に尋ねなおすと彼は怪訝そうな顔をしつつも今の生活について話してくれた。彼の悩みは息子さんの……おっとここからは個人情報のなので飛ばすとしよう。
……
「はぁ、なんだか話すとすっきりしました。ありがとうござします」
「いやこちらこそ、有意義な話がきけた。礼を言う」
彼の体はだんだん薄くなる。おそらくここに来たこともすぐに夢だと思ってくれるだろう。
元々の魔力の量が少ない私には呼びだす者の『魂』だけを時間制限付きで往復させることしかできない。それも酔っ払いや睡眠中の者が多い、意識が薄れているのが魂が抜けやすい状態なのだろうと予想している。なんにしろ覚えていられてもややこしいことになりそうなので忘れやすいのは好都合である。
この世界には人間がおり魔物がおり、亜人がいる。大きな戦争こそないが様々な種族の間には常にトラブルや諍いが絶えない。こうやって様々な声をひそかに聴くことは初心を忘れないようにという意味合いもあるかもしれない。
小さな不満はやがて大きなものを生む。それは歴史の必定である。種族間の問題をできるだけ具体的に知っておくことは国家間の戦争回避には大いに役に立つだろう。
それにしても――。私は自分の手のひらに炎が宿るのを感じた。その炎に熱さはない。
「彼は随分的を射たことを言ったものだな」
私は彼に一つ、嘘をついた。
話を聴きたいだけ、それだけだ。それは嘘だった。真実を言う義務もなければ、義理もない。
手のひらを再び魔法陣に掲げると炎は陣に吸い込まれていった。
「融合せよ、さらなる力を得よ。育て、育て。いつか生まれいずるその日まで大いに育つのだ」
ほんの少しの不満はいずれ大きなものを生む。これはその不満の寄せ集めだ。小さな小さな不満を少しずつ、途方もない年月をかけて集めてきた。もう随分肥大しているこれが孵化するのもそう遠くはない。
これは火種の塊。人々が心から心を痛め、憂うことそのものの寄せ集めだ。
これが生まれれば国同士は種族間で争っている場合ではなくなるだろう。各々が新たな価値観を得ることだろう。平和はきっとその先に訪れるだろう。
「悪魔のささやきか……本当に的を射ている」
それでも、差別も偏見もない世界を欲して、私は魔法の夜、魂を呼び寄せる。