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悲運少女  作者: ネリー
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不知火マナ


 シスコン依存レズなヒナの妹。

 勉強は全然だが、運動はかなり得意。バク宙もできる。

 趣味は縛りプレイ。人形を色々な縛り方で縛って遊んでいる。



「……ん、ふぁ〜……」


 ……また気絶したのか。まぁとりあえず、情報班!

 場所確認!まいほーむのベッドの上であります!

 時間確認!現在時刻午後四時十五分であります!

 状況確認!裸で妹と抱き合っているであります!

 状態確認!軽い疲労と身体中がベタベタするであります!

 記憶確認!家に帰ってからの記憶が全くないであります!

 結論!無意識にヤっちゃったであります!

 ……最悪だ。

 いや待て焦るな。まだわからないぞ。私がまた気絶させられて、マナに睡姦をされた可能性も否定できない。とりあえず、温かいシャワーでも浴びて頭を冷やそう。逆効果かもしれないけど。でも、この時期に冷たいのはきつい。

 そのためにもまずはマナを引き剥がさなければ。だが、夢の中でも抱き合っているのか、マナの私を抱く力が強くてうまく(ほど)けない。むぅ、どうしたものか。


「……むにゃむにゃ……もうたべられないよう、おねえちゃん……」


 定番の寝言だが、最後の『おねえちゃん』が、私を呼んだだけなのか、私を食べているのかで意味合いはかなり変わってくる。後者でないことを祈るばかりだ。


「……うぇひひ……」


 ……かなり怪しくなってきた。これは早く脱出しないと、手遅れになるかもしれない。

 あまりやりたくなかったが、アレをやるしかないか。

 マナは今、私を両腕で私の腕ごと肩甲骨あたりで拘束し、両足で私の太ももを蟹挟みしている感じだ。この状態だと腕も足も満足に動かせないが、逆に言えば、不満足には動かせる(・・・・・・・・・)

 つまり何が言いたいのかというと、手首や膝より下は動かせるということである。それがどうしたという感じだが、今の状態ならそれだけ動かせれば問題ない。

 私は手首と足をもぞもぞと動かして、少しずつ、マナごと体を移動させる。目的地はベッドの端。つまり、私の体をマナごとベッドから落とす、という作戦だ。成功率は高め。落ちて、マナの腕が解ければ一番いいし、解けなくても、ベッドから降りればやりようはいくらでもある。

 もぞもぞし続けて約五分、ようやくベッドの端についた。落ちた時にマナが下敷きになるように位置を調整して、ベッドから落ちる。食らえ、ボディプレス!私の体重は四十キロほどなので、約四百ニュートンだ。


「うげっ」


 あ、やべ。起きること考えてなかった。どうしよう。起こすのは服を着た後にしようと思ってたのに。こんな格好だと、マナが寝ぼけて襲ってくるかもしれない。


「……すぅ〜、すぅ〜……」

「…………」


 よかった、起きたわけではなかったようだ。しかも、拘束も緩んでいる。作戦としては大成功だ。

 マナを引き剥がして、ベッドに戻す。

 自由だーー!!

 二十分後。

 シャワーを浴びて、パジャマ(洗濯してないので今日も猫の)を着た私は、トイレにて、さっきの状況について五分くらい考察していた。

 結論、とりあえずマナを起こす。

 ふう、結論も出たし、大きいのも出たし、スッキリしたな。お尻に適切な処置をし、石鹸で手を洗ってリビング兼寝室に戻る。

 マナはまだ眠っていた。抱き締めていた私がいなくなったからか、代わりに私の鞄を抱いている。


「マナ、起きて。晩御飯だよ」


 まだ作っていないが。


「……すぅ……すぅ……おねえちゃんそこはらめぇ……」


 マナの夢の中の私は、一体何をしているのだ。


「早く起きないとマナの分も食べちゃうよ」

「……ひゃぁ、そこたべちゃらめぇ、きたないよぅ……」


 マナの分ではなくマナを食べているのか、私。


「こら、さっさと起きなさい。じゃないと、今日の晩御飯は抜きだよ」

「……いやぁ、じらさないでよぉ……あうっ……」


 本当に何をやっているんだ私は。そういう夢を見るってことは、本当はマナの方がマゾなんじゃないか?


「そろそろ実力行使に出るよ、さっさと起きなさ……」


 ガラガラガラガラ


 窓の開く音だ。別に私がうがいをしたわけでもマナがイビキをかいたわけでもない。窓が開く音だ。窓の鍵をかけ忘れたか?強い風でも吹いたのだろうか。そんなことを思いながら窓の方を見ると、


「お迎えにあがりました、ヒナ様」

「執事、さん?」


 そこには、いつも私とマナを門の前で待ってくれている執事さんがいた。


「屋敷でお嬢様がお待ちです。行きましょう」

「……?」


 ……混乱してきた。どこから聞くべきだろうか。


「えっと、今からいくつか質問するので、答えていただけますか?」

「かしこまりました」


 まずはこれだな。


「どうして、っていうかどうやって窓から入ってきたんですか?」

「方法は、普通に登って参りました。理由の方は答えられません。お嬢様から強く言われていまして」

「……はぁ」


 登ってきたって、ここ五階だぞ?まあ、いいか。これに関してはさほど重要でもないし。この人は何でもできそうだし。


「えっと、じゃあ何の用ですか? 更生作戦のことですか?」

「先程申し上げた通り、ヒナ様をお迎えにあがりにきたのです。更生作戦などではありません」

「……えっと、どういうことですか?」

「どういうことも何も、そのままの意味でございます。ヒナ様をお迎えに来た、それ以上の意味はありません」

「……意図が見えないんですけど、私、しばらくユカに会うつもりはありませんよ?」

「なぜでしょう?」

「なぜって……だから更生作戦ですよ。昨日電話で話したでしょう。それで、協力してくれることになったはずです」

「もちろん覚えていますよ。しばらく会わないだけでなく、電話やメールもしないとのことでしたね。そして、私共はお嬢様をヒナ様の元に行かせないよう妨害する手筈だったと記憶しております」

「だったら……」

「申し訳ありません、ヒナ様。さっきまでは私共も協力するつもりでしたが、取り消させていただきます。私共、使用人にとって、お嬢様は命に等しい、否、それ以上でございます。そんなあの方が思い悩み、苦しみ、狂われているご様子を、ただ静観することなどできません。ですので」


 ーーヒナ様に協力することは、できません。

 そう言って、執事さんは一瞬で私との間合いを詰め、意識を刈り取るつもりなのか、私の顎を狙って……、


「させないっ!」

「ぐうっ……」


 拳を振り上げる前に、左に吹き飛んだ。本棚の本が何冊か飛び出る。あっ……私のエロ本……。


「お姉ちゃん大丈夫!?」

「う、うん」


 急展開過ぎて思考が追いつかない。

 えっとまず、ユカのところの使用人達は全員敵になったって事でいいのだろうか。これはまずい。私一人では一瞬で捕まってしまうかもしれない。多分だけど、玄関前にたくさんいるな、使用人。挟み撃ち、って感じかな。くそ、反抗期のときは積極的にユカを苦しめたくせに、なんでこっちの更生には消極的なんだ、鑑ファミリー。


「お姉ちゃん、とりあえず早くここから逃げよう? 執事さん、窓から入ってきた理由言えないの多分玄関にいっぱい人がいるからだよ。だから突入される前に窓から逃げないと……」

「それは私も考えてたけど、でもどうやって?」

念のため(・・・・)用意してたロープがあるからそれを使う」

「ロープ?」


 そして、マナが手早く自分の荷物を入れた鞄から大人三人くらいは支えられそうな立派なロープを出し、ベランダの洗濯干しにしっかり括り付けて、下へ垂らす。念のためって……、一体何に備えていたのだ。というか、裸でベランダに出るな。誰かに見られたらどうするのだ。


「マナ、服を着なさい、恥ずかしいでしょ」

「そんな暇はないよ! 早く来て、お姉ちゃん!」


 どうでもいいけど、『服』と『暇』ってぱっと見似てるよね。そんな服はないよ!どんな家庭環境なんだ。

 どうやら外の使用人達も執事さんがやられたことを悟ったのか、ドアの鍵を開けようと鍵穴をガチャガチャしている。ゆっくりしている暇はないようだ。ゆっくりしている服はないようだ(しつこい)。

 ゔ〜、パジャマを着替えたい……!

 だが、ここは我慢だ。背に腹はかえられぬ。少し、いやかなり恥ずかしいが、パジャマのままで行こう。だが、流石に裸はダメだ。公然猥褻で捕まる。カーテンレールにかけていた、緑色の、フードにカエルの耳がついたレインコートをハンガーごと取って、ハンガーをベッドに投げ捨てて、マナに強引に着せる。

 このレインコートも自分で買ったわけではなく、ユカからもらったものである。中一の頃だったか。あの時は喜んで着ていたが、今では少し恥ずかしい。だが、防水性は抜群で、四年経った今でも傷一つなく、何故かサイズがぴったりなので、ずっと使っているのである。

 これはレインコートやパジャマだけに言えることではなく、ユカからもらったものはほとんどが何年経っても使えるのである。食器や暇、ではなく(もういいよ)、バッグに髪飾り。私は人からもらったものは使い潰す派なので、私が身に付けるものは大抵がユカからもらったものになっているのだ。

 まあ、そんなことは今はいい。ここを無事乗り越えることができたら、また考えることにしよう。

 マナの格好が、裸レインコートというマニア受けしそうな格好になってしまったが、緊急時なので仕方がない。ちなみに、このレインコートは完全に不透明なので、大事なところが見えたりはしない。ズボンはないので突風が吹いたら大変なことになるが、そこはもう神に祈るしかないだろう。

 次に、玄関へ走り、靴を二足取ってベランダに戻る。学校用のローファーと普段使いのスニーカー。流石に靴下を履いていたら使用人達が入ってきてしまいそうなので、裸足で履くことになる。ローファーとスニーカーではスニーカーの方が絶対楽なので、スニーカーは体力のないマナに譲ることにしよう。


「マナ、これ履いて」


 マナにスニーカーを渡すのと同時に、私もローファーを履く。


「私はいいよ、それより早くしないと入ってきちゃうよ」

「いいって、裸足で走ったら痛いでしょ。遠慮してないでさっさと履きなさい」

「私は大丈夫だから、お姉ちゃんこそ裸足でローファーは結構キツイと思うよ? 履くならスニーカーの方が……」

「ごちゃごちゃ言ってないでさっさと履きなさい、怪我でもしたらどうするの」

「私は裸足の方が速いの! こんなことでけんかしてる暇があったらさっさと行こうよ!」

「こんなことって……」


 大事なことだろう、女の子なんだから。

 そう言おうとして、だがやめた。マナの、吸い込まれそうなほど真っ黒な瞳を見ていると、本当に裸足の方が速く走れるような気がしたのだ。何故だろう、マナの体力では普通に一キロ走ることも難しいはずなのに。

 なんだかどうでもいいことのような、気がしてきた。


「ほら、お姉ちゃん、早く履き替えて」


 そして、気がついたら私はスニーカーに履き替えていた。足がチクチクして少し気持ち悪い。

 ドアがガツンガツンと金槌で殴りつけられているような音を立てる。どうやらピッキングは諦めたようだ。


「お姉ちゃん、もう行くよ!」

「う、うん」


 そう言って、マナがベランダから身を乗り出してするすると縄を降りていく。まるで消防士のような、鮮やかな動きだ。マナが下まで降りたことを確認して、私もベランダから身を乗り出す。だが、ここはマンションの五階。軽く十メートル以上はある。軽い高所恐怖症の私には少し刺激が強くて、躊躇ってしまった。


「先輩っ! これ鍵空いてますよ!」

「うぇっ、マジじゃん。だからガチャっていわなかったのか。やべぇ、こんな失態バレたらおっさんに怒られちまう」

「お前が出来もしないピッキングするとか言い出すからだよ」

「う、うるさいなぁ……」


 まずい、鍵をかけ忘れてた。さっき確認するんだった。さっさと脱出しないと。もう一度ベランダから身を乗り出すが、焦っているせいか足を滑らせてしまった。


「あっ」


 マンションの五階で、ベランダから身を乗り出して、足を滑らせる。この三つの条件を満たすとどうなるか。

 落ちる。


「ぬわぁぁーー!」

「お姉ちゃん!?」


 頭から。

 高さ十メートルから紐なしバンジー。それは自殺と同義である。あぁ、だめだこれ。私は早々に諦めて目を閉じる。落ちるまでの数秒、私の脳内には走馬灯が駆け巡った。

 笑顔で私の指をしゃぶるマナ。

 荒い息で私の髪をしゃぶるユカ。

 ひえっ。

 だが、落ちている間、時間の流れが遅くなるように感じることもなく、実際も体感も数秒でしかなかったため、走馬灯もそこで終わった。

 しかし、同時に人生が終わる、ということはなかった。


「間に合って!」

「ふあっ?」


 予想していたよりもかなり小さく、優しい衝撃が私の体を包む。ゆっくり目を開けると、私は何かの上で倒れていた。これは……背面跳びのマット?


「お姉ちゃん、大丈夫!?」

「う、うん」


 なんで私生きてるんだろ。困惑して、周囲をキョロキョロする。駐輪場と倉庫のある、マンションの小さな中庭のような場所。どうやらマナがこのマットを私の落下地点に滑り込ませたようだ。しかし、なぜこんなところにマットが……。上から見たときは気が付かなかったし。


「もう、お姉ちゃん! 気をつけてよ! 偶然ここにマットがあったからよかったものを……これがなかったら死んでたんだよ!」

「うん、ごめん」


 背面跳びのマットが偶然落ちてるとかおかしいだろう。

 ……ああそうか。執事さんが登るときに落下防止で敷いたのか。見えなかったのは駐輪場の屋根の下に置いていたとかかな?執事さんが登り切ったあと、他の使用人がマットを移動させたのだろうか。

 死に直面した後だからか、やけに頭が回るなぁ。今なら古典のプリントを一瞬で終わらせられそうだ。


「でもさすがお姉ちゃんだよ。まさかあの体勢から受け身を取るなんて、私には出来ないよぉ」

「受け身?」


 確かにあの高さから落ちて、マットがあったとはいえあの程度の衝撃で済んだのはおかしいと思っていたが、そういうことだったのか。私の内に秘められた柔道の才能が開花したのだろうか。走馬灯が短かったのは、全神経を受け身を取ることに集中していたからかもしれない。


「お姉ちゃん走れる? 無理そうなら私がお姫様抱っこするけど」

「大丈夫だし、お姫様抱っこをするのは姉である私の方だよ」

「きゃ、素敵♡」


 ノリのいい妹である。

 素早くマットから降りて、軽く体を動かす。特に問題ない。万全だ。


「じゃあ行こ、お姉ちゃん」

「うん」


 同時に走り出す。そういえば目的地を決めていない。アテもなく逃げ続けることなど、私たちの体力を考えれば不可能だし、とりあえずどこでもいいから目的地を決めて置かないと気力がもたない。


「それについては大丈夫。アテはあるよ、お姉ちゃん」

「そうなの?」

「学校に行けばいいんだよ」

「ああ」


 理解。確かにあの人たちは学校に入れないし、協力者(古典の小悪魔)もいる。流石マイシスター、冴えてるぅ。……あれ、マナにユカのこと話したっけ。う〜ん、まあ、いいか。よく考えたらマナってそんなに頭良くないし、学校に行けばとりあえずは大丈夫とか思っているんだろう。

 目的地も決まったし、ここからは何も考えず、走ることに集中しよう。いつもの通学路を普段の三倍くらいのペースで進む。体が温まってきた。いつもの交差点を右に曲がる。


「うおっ」

「あっ」

「ほぎゃっ」


 私達が曲がろうとしたところからちょうど、灰色のパーカーを着た大学生っぽい男の人が出てきた。私の前を走っていたマナはギリギリで躱していたが、私は躱しきれずぶつかってしまう(普通逆だと思う)。セリフは上から、男の人、マナ、私である。情けない声が出てしまった。

 体力だけでなく体重もあまりない私は、簡単に弾き飛ばされてしまい、尻餅をつく。なんだかジャイアンにぶつかったのび太くんの気分だ。


「大丈夫か?」

「あ、はい、大丈夫です。すみません」


 男の人はどうやらぶつかった私に対して怒ってはいないようだ。むしろ、手を差し伸べてくれている。紳士的な人だ。

 差し伸べられた手を、素直に掴んで立ち上がる。男の人の後ろでマナが不機嫌そうに私と男の人を睨んでいるが、私や男の人に何かするつもりはないようなので気にしない。


「急いでいるのか? だったら早く行った方がいいんじゃないか?」

「はい、ほんとすみません。ありがとうございました」


 まるで、少女漫画だな。あんまりときめかなかったけど。私のタイプはダンディーな人だ。見た目も中身も。この人はちょっとチャラい感じ。


「それじゃ、気をつけろよ」

「はい、ほんとありがとうございます」


 そう言って去っていく。なんだか久し振りにまともな人を見た気がするなぁ。


「ほら、お姉ちゃん急ごう? こんなところでゆっくりしてる暇はないんだよ?」

「はいはい、わかってますよ」

「……むぅ」


 そして、再び走り出す。学校まではまだ半分も行っていない。マナの言う通り、ここでモタモタしている時間はないのだ。

 ……脇腹痛い。




























「あのガキ、資格があるな。報告するか」





 走り続けて十五分。何度か使用人たちの襲撃を受けたが、迂回したりマナが撃退したりして(マナは祖父から護身術を教わっていたようで、何人もの使用人相手に無双していた。裸足でアスファルトを走り続けられる理由も、その時に体力をつけたからだという)、今のところなんとか凌げている。

 やっと校門が見えてきた。あと五十メートルと言ったところか。


「お姉ちゃん、あと少しだよ! がんばって!」

「……う、うん……」


 おえっ。やばい、吐きそう。

 実は限界自体は十分くらい前にもう来ていたのだ。だが、人は人生がかかってくると、限界以上の力を発揮できるようで、私も限界を超えてさらに十分走り続けられた。

 だが、限界を超えるのにも、限界が来た。息が乱れる。腹痛がする。足が痛い。吐き気がする。目眩がする。

 そんな私に比べて、マナはまだ全然余裕そうだ。裸足に裸レインコートで、私のパジャマに裸足スニーカーよりも、動きやすさ的にも精神的にも辛い格好のはずなのに、一体どういう心と体をしているのか。

 残り四十メートル、三十メートル、二十メートル、十メートル。ゴールまであと僅か、というところでマナは足を止めてしまった。そして、私も止めざるを得なかった。


「……ユカ、さん……」

「……はぁ……はぁ……ゆ、か……?」

「おかえり、ひなちゃん♡」


 私の霞む視界に映る、校門の前に立っている人物は、確かにユカだった。表情まではよく見えないが、多分満面の笑みを浮かべていると思う。ユカが少しずつ近付いてくる。私の中にある『何か』が大音量で警報を鳴らし、今すぐ逃げろと私の体を動かそうとする。

 だが、もう限界だった。まっすぐ立っていることができない。気を抜けば、気を抜かなくても今にも倒れてしまいそうだ。

 というか、倒れた。

 視界に映るのは、左端だけがわずかに赤い夜空。後頭部が今朝の顔面強打と同じくらい痛い。いっそのこと意識を失ってしまえれば楽だったのだが、高速で鼓動する心臓と自分の荒い呼吸が煩くて眠れない。


「……お……ちゃ……!」


 マナの声が聞こえた気がするが、上手く聞き取れない。もしかしたらユカの声かもしれないし、追い付いてきた使用人たちかもしれない。途端、泣き出しそうな表情のマナが、私の視界を埋め尽くす。


「お姉ちゃん、ちょっと我慢してね……」


 うんしょと言って、マナが私を持ち上げる。いわゆるお姫様抱っこというやつだ。マナよりも体格の大きい私を持ち上げるのは容易ではないはずなのだが、マナは私を軽々と持ち上げる。

 そして、学校を背にして走り出す。さっきよりも速い。さっきまでは私に合わせてくれていたのだろうか。う〜ん、もうマナが姉でいいんじゃないかな。うん。


「……う、おえ……」


 揺れのせいで吐き気が本当にやばい。胃の中に渦潮ができている。このままだとマナにハイドロポンプを当てかねない。それだけは避けたい。なんとしても避けたい。とにかく我慢だ。喉を閉じて、目も閉じて、何か楽しいことを考えよう。

 わ〜い、天使様だ〜。私をどこかに連れてって〜。

 体感五分くらい経って、揺れが急に収まった。吐き気が少し和らいだが、そんなことはどうでもいい。まさか……。現実逃避をやめて、目を開ける。空はもう真っ暗だった。実際にはもう少し時間が経っているのかもしれない。

 辺りを見回す。ここは……学校の近所の公園だろうか。看板とかがないので名前はわからない。遊具は滑り台に砂場、鉄棒のみ。ブランコも公衆トイレもない、小さな公園だ。

 そして、私の『まさか』は見事に的中した。

 この公園は敷地の形が長方形で、その四つの面のうち三面が塀で囲われている、『ドラえもん』で出てくる『空き地』のような構造なのだ。そして今の状況は、その残りの一面、出入り口に使用人たちがぎっしりと詰まっている、つまり追い詰められているのである。

 マナはここにいる使用人一人一人よりは遥かに強いはずだが、これだけの人数を相手に私を守りながら戦うというのは流石に不可能だろう。私を担いだままで正面突破するのも不可能だ。おそらくマナはここまで一度も戦っていない。私への負担を考慮したというのもあるかもしれないが、単純にキックが出来ないのだろう。当たり前だ。裸足だし、レインコートの下はノーパンなのだから、秘部が見えてしまうかもしれない。

 つまり、詰んだ。


「マナ、もういいよ」


 私はマナに優しく言う。


「私を守ってくれてありがとう。今度は私がマナを守る番だよ。私を置いて逃げて」

「お姉ちゃん……私、そんなことできないよ! お姉ちゃんがいなくなったら私……」


 マナが泣きそうな顔で言う。


「まだ……大丈夫だよ。一緒に逃げよ? これくらい、私一人で瞬殺だよ! だから大丈夫……」

「マナちゃん。往生際が悪いよ」


 その声にハッとして、私とマナは使用人達の方を見る。今度ははっきり見えた。


「ユカ……」

「ユカさん……!」


 マナがユカを睨みつけて叫ぶ。


「私とお姉ちゃんの邪魔をしないで!」

「マナちゃんこそ、私のひなちゃんを困らせないで?」


 ユカも高圧的な態度でマナに言う。……これだとユカが悪役みたいだ。


「最初に手を出したのはマナちゃんなんだから、悪いのはマナちゃんなんだよ?」

「そんなの早い者勝ちだよ! それとお姉ちゃんは私のだから勝手なこと言わないで!」


 ひなちゃんもお姉ちゃんも私のものだ。勝手に自分のものにしないでほしい。そしてマナ、私に手を出したの?私本当に睡姦されちゃったの?


「私はお姉ちゃんと生まれた時から十四年間ずっと一緒にいるの! たかだか十年ちょっとの付き合いでしかないユカさんにお姉ちゃんは渡さない!」

「恋人になるのに関係の長さなんて関係ないよ。それに私、ひなちゃんと年少の時からの関係だから、マナちゃんと同じ十四年くらいだし。マナちゃんこそ五年くらいお祖父(じい)様のところに行ってたから、それを引いたら十年くらいでしょ? そんなことバカなこと言ってないで今すぐお姫様抱っこやめて。見ていてイライラする」

「うぐっ……」


 マナが言い負けてる。自分のブーメランで怯んだところを 鳩尾(みぞおち)に一撃もらった感じだ。痛そう。ユカはマナが私と恋人同士になりたいと思っているのだろうか。本当はただ甘えたいだけなのに。

 それと地味に祖父のことをお祖父様と呼ぶのをやめろ。私の祖父はユカにお祖父様と呼ばれる筋合いはない。


「ねぇひなちゃん。マナちゃんね、こんな絶体絶命の大ピンチって時に、黒猫パジャマひなちゃんをお姫様抱っこしてるってことにこーふんしてるんだよ? こんな変態な妹、ひなちゃんは嫌でしょ?」

「う……そ、それはユカさんも同じでしょ! 恥ずかしがり屋のお姉ちゃんがパジャマで外にいるっていう珍しい状況に新たなエロスを見出しているんでしょ!」

「否定はしないよ」


 して。お願いだから否定して。ユカは髪フェチくすぐりフェチだけでなくパジャマフェチでもあったのか。複雑だ。

 マナの変態は今更である。私をお姫様抱っこして興奮する程度の変態では私は動じない。


「どうせ部屋はお姉ちゃんの盗撮写真で埋め尽くされてるんでしょ! ケータイの着信音とかアラームとか目覚ましとか全部お姉ちゃんの声なんでしょ! 空き部屋にお姉ちゃんの部屋を再現して自作のお姉ちゃんコスプレ着てベッドの上で一人でしてるんでしょ!」

「否定はできない」

「ユカさんの方が変態じゃん!」


 え……。

 これはちょっとキツイ。妹と幼馴染で変態慣れしている私でもこれはキツイ。十年以上の付き合いがある幼馴染でもこれは軽蔑してしまう。私のコスプレって何だ。私はアニメのヒロインでもゲームのキャラクターでもないぞ。


「マナちゃんこそケータイの待ち受けひなちゃんでしょ? ひなちゃんの食器は洗う前に舐めるでしょ? ひなちゃんが入ったお風呂の残り湯飲んでるでしょ?」

「……うん、まあ」


 え?携帯の待ち受けはともかく、食器舐めてるの?残り湯飲んでるの?流石にこれには動じる。残り湯飲むって、想像しただけで吐きそうなのだが。汚いとか思わないのだろうか。


「私、知ってるよ。ユカさんがお姉ちゃんの部屋にちっちゃいカメラ置いてるの。あれやめてって言ったよね! 気持ち悪いよ!」

「マナちゃんだってひなちゃんに会いに来る度にひなちゃんのパンツとブラを全部自分のと入れ替えてるよね? それのせいで私ここ数年、百パーセントひなちゃん下着をゲットできてないんだよ?」

「知らないよ! っていうかユカさんもたまにお姉ちゃんの部屋に不法侵入してお姉ちゃんの私物全部新品に変えてるでしょ! せっかくお姉ちゃんの一ヶ月使い込んだ歯ブラシぺろぺろしようと思ったのに!」

「あれは私がおいしくいただいたよ。それとマナちゃん。私が一番納得いかないのはね、マナちゃんが毎晩寝てるひなちゃんのおっぱいとかアソコとかを舐めていることなの。私は修学旅行とかの時しかできないのに。ずるいよ」

「そんなこと言ったらユカさんも……」

「マナちゃんだって……」


 酷い暴露大会が始まってしまった。しかもどれも知りたくなかった事実だ。え?私の物が全然壊れたりしないのってユカが交換してたからなの?私日常的にマナに睡姦されてたの?これは最早絶交絶縁レベルだ。マナにお姫様抱っこされてる今の状況に軽く鳥肌が立ってくる。どうやら私はユカからだけでなく、マナからも逃げなければならないようだ。

 さて、どうするか。

 今、二人はおそらく互いの秘密の暴露に集中していて、私のことを意識の外に置いている。チャンスは多分、今しかない。マナの手から脱出することは可能のはずだ。少し膝を伸ばせばするっと抜けるだろう。だから、問題はユカ……の後ろの使用人達だ。マナとユカは私の九十九の奥義の一つ、AHO(アンチ変態奥義)を使ってダウンさせられる(アホではない、アンチ変態奥義だ)。

 だが、九十九の奥義全てを行使しても、あの使用人達を突破することは難しい。そもそも私の奥義の大半は一対一用である。ほとんど唯一の全体攻撃であるAHOは変態にしか効かないし。

 う〜む、どうしよう。

 ……リスクが大きいが、これしかないな。方針は決まった。体力もそれなりに回復した。覚悟も決まっている。

 あとは、やるだけだ。『にゃんにゃん作戦』。

 膝を伸ばしてマナの魔の手から脱出する。


「ユカさんだってお姉ちゃんの髪の毛……お姉ちゃん!?」

「ひなちゃん? 諦めて私とずっと一緒に暮らす気になったの?」

「ユカ、マナ」


 軽く走ってユカとマナの間、三人を線で結ぶと正三角形になる位置に立つ。そして、右手は顔の横、左手は肩の高さまで持っていき、手を軽く握って首を少し傾げて、笑顔で言う。


「にゃんにゃん♡」

「「ぶはっ」」


 二人が同時に鼻血を噴き出しながらダウンする。『にゃんにゃん作戦』の通り、猫のパジャマを生かしたにゃんにゃんだ。変態の二人には効果抜群だろう。

 ぐっ、やばい。覚悟していたことではあるが、やはり恥ずかしい。特に使用人達の冷めた視線が滅茶苦茶キツイ。多分、今の私の顔はトマトよりも赤くなっているだろう。

 だが、チャンスは一度きり。ここを逃せば次はない。今は赤くなって俯いている時ではないのだ。公園の入り口、使用人達の方へ走る。マナにお姫様抱っこされている時に確認した、一番体格のいい使用人の方へ。


「む、嬢ちゃん。よりにもよってこの俺を選ぶとはな。俺はたくさんいる使用人の中でも体力だけは最強。俺を簡単に突破できるとは……」

「ふっ!」

「おっと!」


 姿勢を低くして使用人の顔を睨み、両手を胸の前で構える。猫騙しの構えだ。それを予想したのか、使用人も両腕で顔を隠し、両脚を開いて踏ん張る体勢をとる。

 計画通り。


「とうっ!」

「……なぁっ!?」


 私は猫騙しはせず、両手を地面について、猫のように四足歩行で使用人の股の下をくぐり抜けた。私の小柄な体躯を生かした作戦である。使用人はとっさに足を閉じてこちらを向くが、もう遅い。

 既に体勢を整えていた私は、振り向いた使用人に渾身の猫騙しをかました。


「うがっ!?」


 使用人は無様に尻餅をついただろう。『だろう』というのは、私が猫騙しをした後、使用人がどうなったかを確認する前に逃げ出していたから、本当の結果は分からないということである。もしかしたら踏ん張っていたかもしれないし、逆に気絶していたかもしれない。どちらにせよ、私の計算通りだ。これが『にゃんにゃん作戦』真髄。窮鼠猫を噛むならぬ、窮猫犬をノックダウンということだ。

 ……あの使用人。さっきマンションでピッキングしてた人か?あの時は顔見てなかったから分からないけど、声は似てる。まあ、どうでもいいか。

 あとは逃げるだけ。だが、それが一番の課題だ。ある程度は回復したとはいえ、これから五分十分と走り続けることになると、さっきのようにヘロヘロになってしまう。いかに体力を使わず逃げるかが重要だ。今はあの使用人に気を取られて追手は少ないが、これから先回り挟み撃ちなどをされると私だけでは対応できない。

 体力を使わずたくさんの人間から逃げる方法。それは、隠れることだ。どこかに身を隠すことができさえすれば、私の勝ちだ。この広い世界の中で一人の人間を探し当てるなど、たとえ三十人以上の使用人がいても不可能だろう。全然足りない。だから、あとはどこに隠れるかだ。とりあえず今、私が考えているのは、スーパーやコンビニのトイレかこの近くの大きな公園の遊具(ドーム状で中が空洞になってるやつ)あたりだ。

 前者は後者よりも見つかりにくいだろうが、見つかった時は完全に袋小路なので終わりだ。逆に後者は前者よりも見つけやすい位置だが、見つかった時はすぐに逃げられる。どちらも一長一短で、どちらを選んでも変わらないかもしれないが、私はあえて後者を選んだ。

 理由は、単に袋小路というのが嫌だったのと、遊具の中に隠れるというのは一周回って見つかりにくいのではと考えたからだ。もうほとんど大人な高校生が、隠れ場所に、子どもがかくれんぼで隠れるような遊具を選ぶとは、彼らは夢にも思わないだろう。思わないはずだ。

 さて、隠れ場所も決めたし、あとは隠れるだけ。だが、隠れるには使用人達を一度、巻かなければならない。隠れるところを見られては意味がないというのは、小学生でも分かるだろう。大丈夫。たとえ三十人が相手でも、本気を出せば十分の内に一回くらいは巻けるはず。相手は人間、ミスの一度や二度、起こらないことの方が少ないだろう。

 そう思っていた時期が、私にもありました。





 十分後、私は未だに走り続けていた。


「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 足が痛い。脇腹が痛い。頭が痛い。喉が痛い。

 もしかしたらもう追ってきていないかもしれないという淡い期待を抱いて後ろを振り向くが、五人ほどの使用人がしっかりと追ってきていた。ダメだ。全然巻けない。追い付かれないのが不思議なくらいだ。

 おそらく、私の心を折るためにわざと一定の距離を保ち続けているのだろう。私がスピードを上げると使用人達もスピードを上げてくるし、スピードを落とすと彼らもスピードを落とす。

 だが、私の心はまだ折れていない。私の中の『何か』が、諦めてしまいそうになる私の理性を強引に押さえつけてくる。私の足は壊れてしまいそうだが、止めようにも止められない。私の中の『何か』は私の足が止まることを許していない。

 吐き気がする。目眩がする。酸素が足りない。耳鳴りが酷い。


「あっ」


 足がもつれた。自分の右足で左足を蹴飛ばし、バランスが崩れる。一瞬アスファルトが見えて、それからすぐに火花が散った。とっさに手をつくこともできず、派手にすっ転んだようだ。

 痛い。痛いを通り越して熱い。全身が炎に包まれているような感覚。熱い、熱い、熱い。

 いつの間にか耳鳴りは止んでいた。たくさんの足音がこちらに近づいてくるのが聞こえる。『何か』は私の体に鞭打って立たせようとしてくるが、動かない。疲労と痛みが私の体を地面に固定する。

 クソッ、これまでか。短い人生だった。来世ではもっと運動しよう。別に死ぬわけでもないのに、そんなことを考えてしまう。


「やっと諦めましたか。全く、追う側の気持ちにもなってくださいよ。……あなたと話せる機会はおそらくもうないでしょうし、いくつか質問させてください。一体どうしたらあのお嬢様を落とせるんですか? ずっと気になっていて夜も眠れないのです。教えてください」


 使用人の一人が私の耳元で囁く。そんなこと聞かれても、私の髪の毛がユカの琴線に触れたとしか答えられない。というか普通に答えられない。痛すぎて。……いや、でもさっきの暴露大会では私の下着盗んだりしてたとか言ってたし、本当のところどうなんだろう。実はユカ、髪フェチじゃないのか?だが、仮にそうだとして、あの暴露大会を思い出してみると(思い出したくないし、忘れたいが)、ユカの変態行動には一貫性がなかったように思う。なんだろう、私関連のことを片っ端からヤっていたような?

 ユカの性癖、謎が深まるばかりである。本当は何フェチなのだろう。


「狸寝入りですか? 無意味ですよ。私達は訓練されているので、それくらいは分かります。お願いしますよ。ちょっとでいいんです。ちょっと出会いの時の話をしていただければいいんです」


 出会いの時か……。幼稚園年少の頃のことなんて全く覚えていない。アルバム残ってるかなぁ。


「だんまり、ですか。じゃあいいです。さっさとお嬢様に明け渡しましょう」


 地面と熱いキスをしている私には見えないが、私の耳元で囁くためにしゃがんでいたであろう使用人は、多分立ち上がった。


「気絶はしてないけど、口も動かせないくらい疲れてるから大丈夫。運ぶわよ」


 くっ、万事休すか……。


「待ちなさいっ!」


 ブオンブオンとけたたましいエンジン音、そして聞き覚えのある声。


「不知火さんへのこれ以上の狼藉はこの私が許しません! さっさとお家に帰りなさい!」


 多少回復した体力を振り絞って、首を声のした方に向けると、そこには、救世主がいた。


「こあ……くま……?」

「不知火さん! 大丈夫ですか!?」


 救世主、古典の小悪魔が私の方へ走ってくる。使用人の一人がそれを止めようとしてくるが、小悪魔は流れるような動きでその使用人に頭突きをかまし、ダウンさせる。その様子に呆気にとられた残りの使用人達も小悪魔のヘッドバッドの餌食になったのは言うまでもない。ゴスッゴスッという痛々しい音が、あまり本調子でない今の私の耳にもよく聞こえてきた。

 ……やばい。惚れた。アニメとかでピンチのところを主人公に助けられたヒロインが主人公に惚れるというシーンに、ヒロイン惚れっぽ過ぎるだろうとか思ってたけど、これは惚れる。どうしよう、告ろうかな。でも女同士だし、先生と生徒だし、難しいかなぁ。


「不知火さん! 一体何があったんですか!」

「……は……なしは……あと……で……しま……す……。……とり……あえず……いまは……にげ……なきゃ……」

「よく分かりませんが、分かりました。とりあえず、私の家でいいですか?」


 私は首を縦に振る。どうやらちゃんと伝わったようで、小悪魔は頷いて私をお姫様抱っこして、バイクのサイドカーに乗せた。バイクについてはあまり詳しくないのでよく分からないが、真っ黒の、『仮面ライダー』が乗ってそうなバイクだった。『仮面ライダー』知らないけど。

 ……やばい。バイクの王子様って。なんかロマンティック。キュンキュンしちゃう。抱かれたい。

 私がヘルメットを被ったのを確認して(キュンキュンして体力がちょっと回復した)、小悪魔がバイクを出す。

 ふぅ。これでもう安心だろう。いくらユカがお金持ちでも、流石に一般道路でカーチェイスを仕掛けられるような使用人はいないはずだし。

 そう思うと、なんだか眠くなってきた。小悪魔には悪いが、少し寝させてもらおう。


 おやすみなさい。


 ちなみにサイドカーはちゃんと風除けが付いているもので、結構快適だ。音が少しうるさいが、二度も限界まで体力を使ったあとの私にはエンジンや風の音なんて無いも同然だった。





「……きてください、起きてください、不知火さん。着きましたよ」

「……ん、ふぁ〜……ん……?」


 目を開けると、そこには愛しの小悪魔が……。


「ふぁっ!? お、お、おはようございますぅっ!」

「今はまだ夜ですよ。それにそんな気合の入った挨拶は必要ありません。私は先生ではあっても番長ではないんですから」

「はぅ……」


 やってしまった。変な子だと思われていないだろうか。ここは私がひとつ、手料理でも振舞って挽回せねば。


「先生っ! 私晩御飯作りますよ! 私、料理は割と得意なんです!」

「声が大きいですよ。そんなに叫ばなくても聞こえています。もう夜中なんですからあまり大きな声を出すのは控えてください。それと、晩御飯はもうコンビニで買いました。その申し出はありがたいのですが、今日は必要ありません」

「はぅ……」


 またやってしまった。好きな人の前でテンパらない方法とかないのだろうか。


「っと、まあ、とりあえず中に入りましょう。まだ夜は寒いですからね。風邪を引いてしまうかもしれません」

「は、はい」


 小悪魔の家は悪魔の館とかでは全然なく、私と同じで、マンションの一室だった。一階の端っこの部屋。ドアには1ー3と書かれている。1ー3、しっかり覚えたぞ。あとはマンションの住所を特定できれば…………ぐへへ。

 小悪魔の部屋は私の部屋の二倍くらいの大きさがあった。まさか結婚しているのか、と内心かなり焦ったがそんなことはなく、ちょっとお金持ちなだけだった。ほっ。

 リビングで、二人でソファに座る。


「そう言えば、顔の怪我、大丈夫ですか? 湿布は貼りましたけど、結構腫れてましたし」

「顔の怪我?」


 そういえばこけて顔面強打したなぁ。そう思いながら顔を触ってみる。


「痛ったあ!?」

「え? イった?」

「はぅっ」


 あれ、なんだろう。小悪魔にいじられてちょっと嬉しい。というかもっといじってほしい。どうせなら物理的にも弄ってほしい。

 何か、目覚めてはいけないものに目覚めてしまった気がする。


「まだ痛みは引いていないようですし、お風呂はやめておきましょうか。お腹が空いていないなら食事も避けた方がいいかもしれません。唇も腫れていましたからね。どうしますか?」

「えっと、じゃあやめておきます。お腹あんまり空いてないですし」

「分かりました。じゃあ今日はもう寝てください。ベッドは使っていいですから」


 え、いいの!?いや違うそうじゃないそうじゃない。


「いや、悪いですよ。私はソファで寝ます」

「生徒に、それも怪我をしている子に、ソファで寝させるわけにはいきません。私はこれでも教師です。私は大丈夫ですから、遠慮なくベッドを使ってください」


 惚れた。惚れ直した。この人はどれだけ私の好感度を上げれば気が済むんだ。

 ……そうだ。


「……じ、じゃあその……一緒に寝ませんか……? あ、いや違うんです! 決してやましい思いがあるとかではなくてですね……えっと……その……そう! ちょっと一人で寝るのは心細くて…………ダメ、ですか……?」

「……ふふっ、構いませんよ。ただし、私はお腹が空いていますしお風呂にも入りたいので、その後でよければ」

「は、はいっ! ありがとうございます!」


 よっしゃあ!早くも添い寝だ!でもうわぁぁーー!何が『一緒に寝ませんか?』だよ!完全にビッチじゃん!うぅっ。咄嗟の思いつきを実行するんじゃなかった……。

 でも、ベッドに入ってちょっと経ってから『この部屋、暑くないですか?』とか涙目に上目遣いで言えば…………ぐへへ。


「じゃあ先にお風呂行ってきますね。眠くなったら先にベッドに行ってください。ソファで寝たら風邪を引いてしまいますからね」


 そう言って、パジャマを持ってリビングを出て行く小悪魔。

 ……よし、行ったな。

 ソファのさっきまで小悪魔が座っていたところに顔を突っ込む。


「すぅ〜……はぁ〜……すぅ〜……はぁ〜……」


 やばい。めっちゃいい匂い。なんだか安心する匂いだ。やってることがユカやマナと変わらないが、気にしない。

 ただ、顔が滅茶苦茶痛い。もう十分ほどこのままでいたかったが、これ以上は我慢できそうにないので顔を上げる。顔がヒリヒリする。

 保冷剤でも借りようかなと思っていたその時だった。


「私としたことがパンツを持って行くのを忘れてしまっていました……。こんなはしたない格好ですみません、不知火さん」

「ぶはっ」


 バスタオルに身を包んだ小悪魔が現れた!

 反射的に目をそらす。

 危ねぇ!もう少し顔を突っ込んでたら変態認定されるところだった。そしてもう少し私の我慢が足りなかったら鼻血を噴き出すところだった。

 くぅ。本当はもっと見たいが今の私には刺激が強すぎる。二秒以上見たら卒倒しかねない。

 私が頬を赤らめて俯いているうちに小悪魔はパンツを回収し終えたようで、『失礼しました』と出て行ってしまう。う〜ん、やっぱり卒倒してでも凝視すべきだっただろうか。なんだか損した気分。

 さて、これからどうしよう。テレビでも見るか?……いや、やめよう。なんか不完全燃焼だし、小悪魔のベッドで枕をクンクンしてよう。

 リビングを出て寝室へ行く。

 ベッドは割と大きかった。ダブルほどではないがシングルよりは大きい。セミダブルかな?

 あれに飛び込んだら小悪魔の優しい香りに包まれるんだろうなと思うと、体が火照ってくる。なんだかえっちぃ気分になってきた。

 そういえば、さっき派手に転んだからパジャマ汚れているのではないだろうか。そう思って、部屋の端っこにあった姿見を見てみると、パジャマは傷も汚れも全くなかった。

 というか別のパジャマになってた。猫ではなく、犬のパジャマ。小悪魔が買って着替えさせてくれたのだろうか。別に動物じゃなくてもいいのに。こういうの結構高そうだし、今度お金払わないとなぁ。

 よく見たら靴下も履いている。白い生地に、くるぶしあたりに猫の絵が描いてある靴下だ。こんな時まで校則をしっかり守っているあたり、教師という感じだ。

 これらは大切にしよう。小悪魔からのプレゼントだ、タンスの奥に仕舞って腐らせるわけにはいかない。がんばって使い潰そう。

 ベッドを汚してしまう心配は無くなったのでダイブしようと思ったが、また顔を痛めそうだったので一度座ってからゆっくり横になる。


「……ふああぁぁ〜〜……」


 ……やば……意識が……持ってかれる……。

 今日一日で色々ありすぎた。この疲労はバイクで数時間寝たくらいじゃ回復し切らなかったようで、小悪魔セラピーも相まって、これまで感じたことのない程の眠気に襲われる。

 これはもうダメだ。小悪魔の添い寝は諦めるしかない。だが、枕は諦められない。嗅ぎたい。クンクンしたい。

 その一心で、眠気と戦いながらベッドを這っていき、遂に枕に辿り着いた。

 そして、枕に顔を埋める。

 痛みで目が覚めるかと思ったがそんなことはなく、むしろ鼻に直接小悪魔スメルが侵入してきて、眠気を更に加速させてくる。幸せすぎて痛みを感じない。小悪魔はそこらの麻薬よりも危険かも知れない。


「……お……や……す……み……」


 私の意識は小悪魔の枕によって一瞬で刈り取られた。

 これが私が『コッチ』で感じた、最後(・・)の純粋な幸せである。


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