プリマ・ソリスト
ラズリィもハービーも、自分たちはいずれ、いつか現れるであろう新しいマザーと子孫を残さなければならないと、小さな頃から大人たちに言われて育った。集落の若者として、それは集落存続のために当然果たさなければならない責務だと思っていた。それを疑問に思ったことなど、ただの一度もなかった。
そして見方によっては、その責務を果たす場所が、このセノーテホールにとって変わっただけではないかと、無理に思い込もうともしてみた。
しかし、そこにはあくまで、自分たちの能動的な意思が介在していなければならない。こんなふうに捕らえられて、自分の意思を捻じ曲げられながら何かを強要されることは、もはや人間としての尊厳を失っている。
ラズリィは女たちから「種」と呼ばれて初めて、自分たちの集落に捕らわれていたマザーエレナや、死んだ少女の気持ちを考えるようになった。彼女たちも女というだけで、かつて自らの意思に反して、男の都合に振り回されていた。彼女たちも、今のラズリィと同じ心境だったのだろうか。
与えられた専用の天幕で一晩休息を取ることができたラズリィは、翌朝には、美しく派手な装いの衣服に着替えさせられていた。そして再び両脇をがっちりと拘束されながら、広場から遠く離れた薄暗い洞穴回廊を歩かされていた。
「どこへ行くんですか?」
「お前の主人となられるお方のもとだ」
ラズリィの前をものものしく歩く女は、それ以上のことを口にしなかった。
両脇をがんじがらめにされるだけでなく、周りは剣や槍などの武器を持った女たちで囲まれていた。とても逃げられる状況ではない。
洞穴回廊は、奥へ進めば進むほどにだんだんと明るさが増していき、行き止まりの最奥にたどり着くと、それはもう眩しいほどの光が天井から差し込んで、辺りを明るく照らしていた。
この場では、松明がなくても周囲の景色がよく見えた。光のよく当たる壁や地面は、何か見たことのないような緑色のものでびっしりと覆われていた。
降り注ぐ光の先を追って天井を見上げると、天井は円錐の形に高くそびえていて、一番上の細い穴から、地面に向けて光が降り注いでいるようだった。
その光の先にもまだ何かあるようだったが、眩しすぎて、もはや光の白さしか見えない。
よく照らされたこの奥地の中央には、一つの天幕があった。その天幕から、一人の少女が姿を現した。
「エーデル様、連れてまいりました」
「ごくろうさま」
昨日会った美しい金髪の少女が、ラズリィの元に駆け寄ってきた。
「ラズリィ、よく来てくれたわね」
エーデルが促すと、あっけなくラズリィの拘束が解かれた。
エーデルは解放されたラズリィの手を取り、にこりと微笑んだ。
「その格好、よく似合っているわ。最初に会ったときは、まるで少女のように可愛らしい男の子だと思ったけれど、こうしてきちんと正装すれば、ちゃんと立派な殿方ね。とても素敵よ」
「あ、ありがとうございます……」
実際褒められているのかよくわからなかったが、エーデルの嬉しそうな顔を見ると、ひとまず彼女が喜んでいるということは伝わってきた。
エーデルはラズリィを連れてきた女たちに目をやると、微笑みながら手を振った。
「あなたたち、もう下がっていいわ。彼と二人にしてくれる?」
「それはなりません。私どもにはエーデル様をお守りする責務がございます。少人数だけでも護衛は必要です」
「大丈夫よ、心配いらないわ。いいからお下がりなさい」
「ですが、万一のことがあっては……」
「下がりなさい」
有無を言わせぬ迫力だった。柔らかな口調だが、その場にいる者すべてが、見えないエーデルの威圧感に身を震わせた。この笑顔が消えたときには、もう二度目はないのだと悟らせる凄みがある。
「も、申し訳ございません。差し出がましいことをいたしました」
「いいのよ。心配してくれてありがとう」
エーデルは、もう一度にこやかに女たちに手を振った。彼女たちは不安げな面持ちだったが、どうすることもできず、その場から立ち去るしかなかった。
残ったのは、本当にラズリィとエーデルの二人だけ。
ラズリィはあらためて、このエーデルという少女が女たちに与えている影響力の大きさを目の当たりにした。
彼女は、いったい何者なのか。
「私のことが知りたい?」
「えっ……」
核心を突かれて、戸惑う。エーデルは、またもクスクスと笑っている。
「いやだ、そんなに驚かないで。だってあなた、すぐ顔に出るんですもの。女は勘が鋭いのよ。ここではいろいろと気をつけることね」
「は、はあ……」
ラズリィは、なんとも気の抜けた返事しかできなかった。この少女には聞きたいことが山とあるのに、上手く考えがまとまらない。
ラズリィが話を切り出せずにいると、エーデルのほうから話し始めた。
「ここは素敵なところでしょう? この広い大空洞の中で、人間が発見した一番明るい場所なんじゃないかしら。火を使わなくても、あの天井の隙間から入ってくる光だけでこんなに明るいなんて、不思議よね」
そう言われて、ラズリィは今一度、縦に細長く伸びた天井を見上げた。
「あの天井の小さな隙間から漏れ出ている光は、おそらく外界からのものよ。太陽の光がここまで降り注いでいるの。でも、あんな高いところにある小さな隙間から人間が出入りすることなんてまず無理だから、本当に外界に繋がっているのかどうかは、誰も確かめようがないのだけれど。でも、それでもここには外界でしか育たないはずの植物が生い茂っているから、やっぱりこの光は太陽のもので間違いないと思う。現に、夜になるとあの光は入ってこなくなるもの」
エーデルの話を聞いて、ラズリィは開いた口が塞がらなかった。辺りに群生している緑色のものが「植物」だということも、このとき初めて知った。
思った以上にこのセノーテホールは、ラズリィが今までに見てきたものや築き上げてきた価値観を、簡単に覆してくる場所だった。
言葉もなく天井の光を無心に見ていると、エーデルがからかうような口ぶりで言った。
「私のことよりも、よほど外界に興味がおありなのね」
「ご、ごめんなさい。そういうわけでは……」
慌てるラズリィを見て、エーデルはまたもおかしそうに笑った。無邪気に笑う彼女は、ラズリィの目から見てもとびきり愛らしかった。
「ちゃんとした自己紹介がまだだったわね。私はこのセノーテホールのプリマ・ソリストの歌姫なの。これでも一応、ここでは一番偉いということになっているわ」
「歌姫」という単語を聞いて、ラズリィはハービーが教えてくれたことを思い出していた。たしか、「歌姫の歌には注意しろ」と彼は言っていなかったか。歌姫は、何か妖しげな術を使うとも。
ラズリィは、目の前で明るく笑う自分よりも小柄な少女が、それほどの脅威となる存在だということが、にわかには信じられなかった。
しかし、彼女が何か強大なものを内に秘めているだろうということも、出会ったときから感じていた。エーデルの周囲にいた女たちも、みな大なり小なり例外なく、敬意と畏怖を抱いているように見えた。
ただラズリィは、エーデルが漠然と恐ろしいと思うよりも、彼女の持つ力のことをもっと知りたくなっていた。
「あの、お聞きしたいことがあるのですが……」
「そんな、かしこまらなくていいのよ。昨日も言ったでしょう? あなたとは、できるだけ対等に話がしたいと思っているの」
「な、なるほど……」
エーデルの申し出は、ラズリィにとっては意外だった。しかし、何か理由があるにせよ、本人がそう望むなら拒む理由もないと、ラズリィは少し肩の力を抜くことにした。
「――わかったよ、エーデル。聞きたいのは〝歌姫〟のことだ。歌姫って……いったいなんなの?」
「歌姫は、歌を歌って魔力を操る者のことよ。魔力は先天性の力で、様々な超常現象を引き起こすことができるの。一人ひとりが持つ能力の種類や差はまちまちだけれど、一つ共通していることは、歌姫は全員女だということ。セノーテホールにいる女たちの半分くらいは歌姫なのよ」
ラズリィは、ふと思い当たってさらに質問を投げかけた。
「魔力……。――もしかして、その不思議な力を使って、外界の食料を手に入れたりもできる……?」
「お察しの通りよ。食べ物だけじゃない、様々な資源や道具、それに、場合によっては人だって外界から召喚できるわ」
「ひ……人……?」
ラズリィは、思わずのどをひくつかせた。
「それって……外界の人間を大空洞に呼び寄せるってこと?」
「そうよ。……ああ、そう。そのことも知らなかったのね。あなたたちがマザーと呼ぶ者――あれらは、私たち歌姫が外界から召喚してきた女たちなのよ」
ラズリィは驚いて目を見開いた。
「ど、どういうこと? どうしてそんなことを……」
「だって、あなたたちの集落には男しかいないじゃない。別にこちらが手を差し伸べる義理もないけれど、それでも、放っておいたらあなたたち一族は全滅よ。かといって、ここの女たちの中から、あのような文明の劣った集落に赴き、あげくそこに住みついて子供を産み育てなさいと言いつけるのは、あまりに酷だわ。あそこで育ったあなたには申し訳ないけれど……ここから誰も行きたがらないのは、わかるでしょう?
だから、外界から身寄りのない、そして生活に困窮している若い女を見繕って、あなたたちの集落に呼び寄せていたの。そのような境遇の女なら、外界から消えてもさほど影響はないし、あなたたちに引き渡すことで、女のほうも生き延びる術を得られる」
「それは……。つまり外界の女の人を、今までずっと誘拐して、僕らの集落にあてがってきたってこと? その人の意思は関係なく」
「あら、私たちの行いを非難しようというの?」
エーデルは、あくまで余裕のある表情を崩すことはなかった。
「そうね、私たちがしてきたことは、外道とののしられても仕方のないことよ。でもね、その下劣なやり口に、あなたたち男はいつだって必ず便乗してきたという事実を忘れないことね。ラズリィ、あなたも知っているはずよ。あなたの集落では、女と見ればすぐに捕らえ、強制的に篭絡して次々に子供を産ませる。私たちが外道なら、あなたたちも同類なのよ。あなたたちには、感謝こそされても非難される筋合いはないと思うわ。そもそも、私たちがそうしていなければ、あなただってこの世に生まれてすらいないのよ」
「……その言い方は、卑怯だよ」
「そうかもしれないわね。でも、私は別にいい子でいるつもりはないの」
エーデルは開き直り、少々不満げな顔をした。
「ねえ、こんな堅いつまらない話、すこぶる不毛だわ。だいたい、別に私やラズリィが引き起こしたことでもないのに。すべては、私たちの祖先や大人たちが勝手にやってきただけのことでしょう。知ったことではないわ。それよりも、これからの――未来の話をしましょうよ」
エーデルは繊細可憐な見た目とは裏腹に、中身は闊達で強気な性格をしているようだった。
ラズリィは、それもそうだと、彼女の言い分をひとまず素直に受け止めることにした。
「たしかに、君の言う通りだ。君自身が直接関わっていないことなら、君を責め立てるのは筋違いだね。悪かったよ。――じゃあ、話題を変えよう。ここに連れてこられる前に、妙なことを聞いたんだ。エーデル、君はその……僕のご主人様になるの?」
すると、つまらなそうにしていたエーデルの顔が、即座にぱっと明るくなった。まるで、「ようやく楽しい話ができるのね」とでも言いたげな、歓喜に満ちた表情だ。
「そう、私はラズリィの主人になったの。主人といっても、あなたを意のままにしようというつもりは決してないのよ。ただ、他の女にあなたを渡すのが嫌だったから、それならいっそ、形だけでも夫婦になってしまおうと思って。もう知っているわよね? セノーテホールに連れてこられた男の役目を」
ついに来た、とその身を密かに震撼させて、ラズリィは拳を握りしめてから、小さく頷いた。
「そう、なら話は早いわね。せっかく捕らえた貴重な男ですもの。いくらプリマ・ソリストの歌姫とはいえ、本来なら私一人がラズリィを独占する権限なんて、実はまったくないの。最初に私に子供を授けたあとに、あなたは他の女たちにも回されるはずだった。でも、ラズリィがセノーテホールに来る少し前に、もう一人男を捕まえていたの。彼もたしかあなたと同郷のはずよ。男が二人同時に手に入るなんて、なかなかあることじゃない。だから、今回の私のわがままも、特例として許されることになった」
(もう一人の男……ハービーのことだ)
ラズリィは、何も知らないふうを装って話を聞くことにした。
「あの男――たしかハーベルトといったかしら。彼もなかなかの容姿ね。最初は私には、彼があてがわれる予定だったのだけれど、なんというか薄幸そうな雰囲気がどうにも気に入らなくて……。結局、手をつけずに次の女に回したのよ。そうしたら、それから女たちがひっきりなしに彼を取り合い始めて、毎日のように争いが起きるほどなのよ。皆が気に入る男が手に入ったのは喜ばしいことだけれど、集落の統率が乱れるようなことがあっては困るのよね。色男すぎるのも考えものだわ」
ラズリィは、覚悟していたこととはいえ、あらためて兄の置かれた現状を聞かされて、ひどく狼狽し心を痛めた。
あの真面目で純朴なハービーが、この環境に順応できるとはとても思えなかった。