君だけに捧ぐ歌
「ご、ごめんなさい……」
ラズリィは、とっさに謝罪の言葉を返していた。なんとなく、少年から非難されている気がしたのだ。
「――いや、謝らなくていい。今まで育った環境の中で知る機会がなかったのなら、仕方ない。お前だけのせいでもないのだろう」
それに、と少年は続ける。
「実のところ、俺自身も外界にさほど詳しいわけじゃない。偉そうに言える立場でもなかった。ぶしつけな言い方をして悪かった」
少年は、一転してラズリィに謝罪した。
ラズリィはそれを見て、この少年をいっそう好ましく思った。今日会ったばかりで、さほど多くのやりとりを交わしたわけでもないのに、もうすでに、かなりのところで彼に好感を抱いていた。
命の恩人ということを差し引いても、きっと変わらないだろう。
歯に衣着せぬ物言いでも、心根の優しさや実直さが透けて見える。質はまったく違うが、どこか兄のハービーを彷彿とさせた。
彼の話をもっと聞いてみたいと思った。
「あの、外界……だっけ? 君たちの集落では、本当にそれがあるってみんな信じてるの?」
ラズリィが恐々尋ねると、少年はきょとんとした。
「信じるも何も、実際に外界は存在している」
「いや……。外界は絶対にあるって、僕もずっと信じてきたよ。ただ、僕の集落では、僕のように考える人は少ない。あるはずのない楽園を夢見るおろか者だと思われている。……でもね、もし外界なんて最初からなくて、世界がこの大空洞だけなら、僕たち人間は、もっとこの大空洞に適した生物になってたんじゃないかと思うんだ」
「ほう」
わずかに少年の目の色が変わった。彼がラズリィの話に興味を持ったことがわかり、ラズリィも話に熱が入る。
「ずっと、考えていたんだ。この大空洞の中で、一番生きづらそうにしているのは、どう考えても僕たち人間だ。大空洞で生きている生物の多くは、この暗闇を上手く利用している。でも僕たち人間だけは、なぜかこの暗闇が一番の弱点だ。これっておかしいだろう? 僕たちのこの目は、どうしてもっと闇に順応しないのか。あるいは役に立たない目なら、ここの魚たちのように、退化していたっていいはずだ。その分他の器官が発達するだろう。
僕は思うんだ。僕たちがもともと明るい世界に住んでいた生物だったと仮定するなら、この不自然さは全部解消するんじゃないかって」
「なるほど。……前言撤回する。お前は本当は、物事を深く考えられる賢いやつだったんだな」
少年は、ラズリィの話に感心したようだった。
「お前の推論は正しい。俺たち人間はもともと外界で生まれ、そこで長い間進化を遂げてきた。この身体の機能は、もともと外界で暮らすのに適した作りになっている。それが昔、一部の人間――つまり俺たちの祖先が、この大空洞に移り住んだことから始まった。……そうだな、一つ面白いことを教えてやろう。コウモリは、この大空洞と外界を、毎日自由に行き来している」
「え……?」
思わず目を見張ったラズリィに少年はにっと笑い、得意げに話し始めた。
「俺たちの集落の近くにも、コウモリの巣がある。それも、ものすごい大群の巣だ。たぶん、お前の知るところも似たようなものだろう。そんなおびただしい数のコウモリの群れは、いったいどこで餌を捕っているのか。もしもコウモリが大空洞でしか狩りをしないのであれば、あれだけの数が毎日食べる分の餌は、どこから捻出していると思う? ――つまり結論から言うと、コウモリは外界で狩りをしているんだ。
やつらは夜行性だから、太陽が落ちて暗くなるころの外界に出て狩りをして、太陽が昇って外界が朝を迎えれば、光の届かない大空洞へ戻って羽を休める。コウモリを追っていけば、きっと外界への出口が見つかるはずだが、追跡調査はいつも失敗に終わっている。たぶん人間の足の及ばない、とうてい見つけることのできないような場所から飛び立っているんだろう」
ラズリィはしばらく言葉を失っていた。自分たちにとって一番身近と言ってもよい生き物が、まさかそのような一面を持っていたとは。
ラズリィは、あれもこれも、疑問に思ったことはとにかく聞きたい一心で、少年を質問攻めにした。少年は、がっつくラズリィを軽くあしらいながら笑った。
「もっと外界のことが知りたいか? 俺のいる集落には、俺なんかよりずっと外界に詳しい人たちが大勢いる。きっと、お前にもいろいろ話して下さるだろう」
「君のいる……集落?」
「ああ、そうだ。外界の食べ物をどうやって俺たちが手に入れているのか、お前は興味があるんじゃないか?」
「ある!」
何ら躊躇ない返答を聞き届けると、少年はラズリィに右手を差し出していた。
「自己紹介が遅れた。俺はフィンだ。セノーテホールのフィン。よろしく」
「あ、えっと……僕はラズリィ。こちらこそ、よろしく頼むよ」
ラズリィは、やや照れながら少年――フィンの右手を握り返していた。その手はとても温かかった。
「セノーテホールって?」
「俺たちの集落の名だ。セノーテは『聖なる泉』という意味だ。お前――ラズリィの集落に名はないのか?」
「……ない。そういえば、気にしたこともなかった。僕たちの集落以外で大空洞に人がいるなんて知らなかったから。そもそも名前なんて必要なかった。数十人の小さな集まりで、皆で助け合いながら暮らしていた。……フィンたちは、自分の集落以外にも、僕たちの集落があるってずっと知ってたの?」
「……ああ、まあ一応。――なあ、ラズリィの集落の話も聞かせてくれないか」
ラズリィは「もちろん」と快く返事をしようとして、しかし、命からがら逃げ出してきたことを思い出して、胸が締めつけられた。
急に顔色を変えたラズリィを、フィンが心配そうに覗き込んでくる。
「……ラズリィ、元いた集落に帰りたいか?」
まるで、子供を諭すような優しい声だった。
「俺……ラズリィを見つけたとき、なんとなくピンときたんだ。この暗闇の中で、灯りも荷物もなしに、身一つで倒れているお前を見て。お前、何か事情があって、集落を出てきたんじゃないのか?」
すっかり見破られてしまい、ラズリィは気まずい思いで肩をすくめた。
「僕には、帰るところなんかないんだよ……」
ラズリィは、ぽつりぽつりと今までのいきさつを話し始めた。
集落には男しかいないこと。そこに現れた言葉の通じない少女。兄の失踪と、それから少女の突然の不審死。そして、少女を殺した犯人として罪を着せられ、集落を追われてしまったことまで。洗いざらいすべてをフィンに話した。
フィンは親身に話を聞いてくれてから、一言「辛かったな」と、慰めの言葉を口にした。ラズリィは、それだけで救われる思いだった。
フィンはしばらく黙ってから、顔を上げた。
「それならなおのこと、うちの集落に来い、ラズリィ。セノーテホールで暮らせばいい。少なくとも、食う寝る分には何ら困らない」
それからフィンはこうも言った。
「ただ、もしそうするなら、元いた集落には二度と帰らないと約束してもらわなければならない。セノーテホールは他部族の干渉を嫌う。すべてを捨てて、セノーテホールに骨を埋める覚悟があるというなら、俺たちはお前を歓迎するよ。ラズリィ、どうするかはお前が決めるんだ」
ラズリィはしばらく黙ってうつむき、目ににじんだ涙をフィンに見られないようひと拭いした。それから、奮い立つように顔を上げた。
「さっきも話しただろう? 僕には、もう帰るところなんてないんだ。君の誘いは願ってもないことだよ。ぜひ、セノーテホールに連れて行ってほしい。ありがとう、本当に……」
その言葉を聞き届けたフィンは、何も言わずに頷くと、静かにラズリィの頭を撫でた。ラズリィはフィンの優しい手のぬくもりを頭部に感じながら、その心地良さにしばらく身を預けることにした。
不思議と、今までにないほどの安らぎを得ているような気分だった。
「ラズリィ、お前は綺麗だな」
突然、フィンがそう言った。
「綺麗? 僕が?」
ラズリィは驚いて目を瞬かせる。フィンは茶化すわけでもなく、至極真面目に話していた。
「正直に言うと、俺たちセノーテホールの人間は、お前たちを蛮族の集まりだと思っていた。粗野で乱暴で、頭の悪いやつらしかいないと聞かされてきたから。だから、俺たちはずっとお前たちの集落とは関わらないようにしていたんだ。でもラズリィ、お前はちっともそうじゃない。お前は素直で純粋で、とても綺麗だ。髪も透き通るような銀色で、瞳はこの泉のように深く青い。それに何より――とても綺麗な声をしている。初めて喋ったときに思ったんだ。男のくせに、まるで歌姫様のように、高く澄んだ綺麗な声で話すやつだって」
「そ、そうかな。それは、僕がまだ子供だからじゃない? フィンだって、僕からすると高くて綺麗な声だよ。それに、顔だって可愛い」
それを聞いて、フィンは途端に頬を赤くした。意外な反応だった。
「お、俺のことはいいんだよ。……というか、可愛いとはなんだ。それは褒めてるつもりか? ちっとも嬉しくないぞ。かっこいいならともかく――」
「気を悪くしたなら謝るよ。でも、僕は好きだな、フィンの顔も声も。……そもそも、君のほうから僕の見た目や声についていろいろと言ってきたんじゃないか。どうしたんだよ、急に……」
ラズリィが首を傾げる。それを受けて、フィンはわざとらしく咳払いをした。
「お、覚えているか? 俺が最初にお前に言ったこと。――助けた代わりに、何らかの見返りが欲しいと要求した」
「ああ、そういえば」
ラズリィは軽く頷く。特に気にもとめていなかったので、すっかり忘れていた。
しかし、フィンのほうは、落ち着いているラズリィとは対照的に、恥ずかしそうにずっと下を向いていた。その反応に、ますます首をひねる。
「その……。良かったら……歌ってくれないか?」
「歌?」
「ああ。ラズリィの歌を聴いてみたいんだ。外界から来た少女に聴かせたように、俺にも歌ってほしい。嫌か……?」
なんだ、そんなこと――とラズリィは笑った。あまりにフィンが言い出しにくそうにしていたので、実際何を要求されるのかと思っていたのだ。
「いいよ。でも、あまり騒がしくするとツチボタルたちが驚くから、少し声を落とすね」
ラズリィは胸に手を当てて深呼吸をした。そして、あの少女に歌ったように、フィンの前でも同じ歌を歌ってみせた。
初めは突然歌を乞われて、正直少し戸惑った。
しかし、その場に座って真剣な眼差しで歌に聴き入っているフィンを見ると、自然と緊張はほぐれていった。自分の歌を誰かが熱心に聴いてくれるというのは、思いがけず気持ちの良いものだった。
歌が後半にさしかかったとき、ラズリィはふと、フィンの衣服の模様が、先ほどよりもずっと鮮やかに見えることに気がついた。そこで、ようやく周囲の景色の変化を悟った。
(さっきよりも、明るくなっているような――)
当初は半信半疑だったが、やはり気のせいではなかった。ツチボタルたちが、まるでラズリィの歌に呼応するように、強く光り輝き始めたのだ。
フィンもそのことに気づき、なんとも不思議なこの現象に、ただただ目を奪われていた。
ラズリィが歌い終えると、ツチボタルたちの光もまた急速に弱まっていき、むしろ歌う前よりも周囲はいっそう暗くなってしまった。
しばらく言葉を失っていたフィンだが、我に返ると、ひたすら無心に拍手を送り続けた。