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アルーシュの歌姫 ~洞窟世界の住人たち~  作者: ゴリエ
第一章 常闇に生きるもの
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ツチボタルの泉

 緩やかな水の流れる音がして、ラズリィは目を覚ました。

 気がつくと、眼前には見たことないほど美しく幻想的な景色が広がっていた。

 広大な天井一面に、無数の青白い光がぽつぽつと輝いていている。天井を埋め尽くすツチボタルの大群だった。

 灯りを持っていなくても、周囲の景色が容易に見渡せる。


 大空洞にこんな場所があったのかと驚いた。

 すぐそばには青い泉が広がっており、どうやらそのほとりで横たわっていたようだ。

 小高い場所にある岩穴から絶えず水が流れこんでおり、その溜まり場としてこの泉が形成されているようだった。


 ラズリィが立ち上がると、何かがはらりと地面に落ちた。布だ。見事な刺繍が施された、手触りの良い美しい布だった。もちろんラズリィの私物ではない。


 ラズリィの育った集落では、布はとても貴重なものだった。布の原料となる繭糸を作り出す穴蚕(あなかいこ)が、コウモリや害虫に捕食されてしまうせいで、年々その生息数が減少してしまっている。

 この掛布のように糸を惜しまず贅沢に使った華やかな織物など、首長であってもなかなか手にしがたい代物のはずだ。


 大空洞ではほとんど気温の変化はなく、さほど厚着をせずとも過ごしていられる。――とはいえ、泉のそばはやはり少し冷えた。

 この掛布のおかげで、身体を冷やさずに済んだかもしれない。


(誰かが僕を助けてくれた? でも、いったい誰が……)


 少々腕や足にかすり傷はあるものの、取るに足らない軽症で、あの大きな崩落に巻き込まれたことが嘘のように、ラズリィはすっきりとした岩の平地に寝かされていた。

 崩れた岩や石の破片、瓦礫なども見当たらない。少なくとも、直接落ちてきたところではなく、別の場所に移動させられたようだ。


 ラズリィはふらふらと歩いていき、泉を覗き込んだ。魚が酸素を吸うために、水面に上がっている。他にも無数の魚たちが、深い場所でひらひらと泳いでいた。こんなにも水が透き通っている泉を、ラズリィは他に知らなかった。

 ここは水にも食糧にも光にも恵まれた、とても豊かな土地なのだ。


「魚がそんなに珍しいか?」


 背後から声がして、ラズリィは飛び上がるほど驚いた。自分以外の人間が近くにいる可能性は想定していたが、実際に声がかかると、仰天せずにはいられない。


 振り返ると、見慣れない服装の少年がいた。

 先ほどラズリィに掛けられていた布と、同じ模様の衣服を身にまとっており、頭部はほとんど頭髪が見えないほど巻布で覆われていた。


「君は……」

「目が覚めて良かった。驚いたぞ。地震とともに、まさか天井から人が落ちてくるなんて思わなかった」


 この少年は、ラズリィの集落の者ではなかった。集落では、互いに知らない顔の者など一人もいない。住人はたかだか数十人の集まりだ。それが、ラズリィの知る大空洞の世界のすべてだった。


 ラズリィは、あの亡くなった少女を例外とすれば、初めて自身の集落以外の人間を目の当たりにしていた。そもそも自分の集落以外で、大空洞に人が存在しているということ自体、今まで考えたこともなかった。


 少年は、ラズリィが手にしていた掛布を自分のものだとあごで示すと、奪うようにラズリィからもぎ取り、手際よくさっと羽織った。

 今でも十分すぎるほど厚着に見えるが、まだそんなに布が必要なのかと、薄着のラズリィからは不思議に映った。


「久しぶりの地震だった。存外大きなものではなかったが。……とはいえ、お前のいた場所はひどく揺れただろう。災難だったな」


 初対面のラズリィに、少年は臆面なく親しげに話しかけてきた。だが、ラズリィが微妙に当惑していることを悟ると、やや皮肉めいた口調に変わった。


「恩着せがましく言うつもりはないが。俺はあの地震のあと、安全なこの場所に、一人でお前を運んだんだぞ。そのまま見捨てることだってできた。感謝しろとまでは言わないが、そこまで警戒されるいわれもない。お前をどうにかするつもりなら、気絶してる間にやってる」


 たしかに、もっともな言い分だった。

 仮にも命の恩人であるこの少年に、まずは謝罪と、それから礼を述べなければならない。


 ラズリィは慌てて口を開こうとした。――が、しかし。


「ぼ、僕……」


 話そうとした瞬間に、目から涙がこぼれ始めた。止めることができず、ラズリィは慌てて袖で拭う。しかし、次から次へとあふれ続け、拭っても拭っても追い付かない。ついには嗚咽混じりの声まで抑えられなくなった。


「お、おい……どうしたんだ、急に」


 ラズリィがおさな子のようにわんわん泣きだしたので、不満げだった少年も、さすがに狼狽するしかなかった。


「悪かったよ、少し意地悪な言い方だったか。何もそんなに泣くことないだろう。それとも、どこか痛むのか?」


 心配されればされるほど泣けてきて、ラズリィはひどく困った。


 せっかく仲良くなれた少女が突然死に、何の前触れもなく兄が失踪し、住み慣れた集落まで追われた。

 あげく、真っ暗闇の中で一人地震に巻き込まれ、とんでもない不安と恐怖を味わいつくした。そんなときに、こうして奇跡的に人と出会うことができた。そして、まったく見ず知らずの自分を助けてくれた。

 それが何よりも嬉しくて、心底ほっとして、そんな様々な想いが混じり合って流れた涙だった。


 目の前の少年は、ラズリィが落ち着くまで律儀に待ってくれた。どうやら自分の強い物言いのせいで泣かせてしまったと思い込んでいるようで、少し気の毒だった。

 ラズリィは、涙でぐしゃぐしゃになった顔のままで、突然かしずくように膝を折った。


「ど、どうした?」

「ありがとう……。君がいなかったら、今ごろ僕は生き埋めか、のたれ死んでいたか、どの道生きてはいなかったかもしれない。本当に、何てお礼を言ったらいいか……」


 ラズリィが大業に話すので、少年は照れて「やめてくれ」と慌てた。

 しかしまんざらでもなかったらしく、彼はやや誇らしげに胸を張ってみせた。


「そこまで感謝してもらえたのなら、こちらも少しは見返りを期待してもいいのだろうか」

「見返り……?」

「まあ、いい。まずは腹ごしらえでもしないか? お前は丸一日気を失っていたんだ。さすがにそろそろ何か食べたほうがいい。食べながらゆっくり話そう」


 そう言われて、ラズリィは自分がこれ以上ないほど空腹だったことを自覚し、ますます少年を崇めるように見つめた。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 ツチボタルは音や光に敏感な生物だ。ツチボタルの前では、大声で喋ったり火を使ったりしないことが鉄則だった。それゆれに、泉に魚がたくさんいるとわかっていても、捕まえて焼いて食べることができないのが、ラズリィは心底残念でならなかった。

 その代わり、少年が荷物の中から手持ちの食糧を分けてくれた。


 手の平にちょうど収まる大きさの、赤く丸い形のものだった。てっぺんのくぼみには、細く短い特徴的なヘタがついている。表面にはつるつるとした光沢があり、案外手にずっしりとくる重さだ。匂いを嗅いでみると、ほのかに甘酸っぱい香りがした。見たこともない食べ物だった。


「これは……?」

「リンゴだよ。知らないのか」

「リンゴ?」

「果物の一つだ」

「果物?」


 説明するごとに聞き返してくるラズリィに、少年は呆れるのを通り越して、むしろ新鮮そうに目を丸くした。


「果物も知らないのか。話には聞いていたけど、お前の集落は、想像以上に貧しい暮らしぶりなんだな」

「僕の集落を知ってるの?」

「いや、俺は話に聞いた程度のことしか……。まあ、まずは食べよう」


 少年は自分のリンゴを袖で拭うと、見ていて気持ちが良いくらいにがぶりとかじりついた。

 ラズリィも少年の見よう見まねでリンゴを拭い、一口小さくかじってみた。すると、今まで食べてきたどんなものとも似つかない味がした。それでも、一つ確実に言えることは――。


「美味しい……」


 すぐにラズリィは二口目、三口目とリンゴにかじりついた。シャキシャキとしたみずみずしい歯ごたえも、かじったときにこぼれるほどあふれ出る汁も、この上なく素晴らしい味わいで、あっという間に全部食べてしまった。身体全体が喜びで満たされるような、そんな味だった。


「こんな美味しいもの、初めて食べた。……というか、毎日コウモリやヘビの丸焼きくらいしか食べるものがないんだ。魚だってめったに食べられない。コウモリがなかなか巣に帰ってこないこともあって、どうしてもひもじいときは、虫を捕まえて食べることもある」

「うげ……」


 少年が信じられないという顔をしたので、逆にラズリィも不思議でならなかった。この食糧の少ない過酷な大空洞の中では、人間が食べられるものなど、ほんの一握りのはずだ。


 しかし、どうやらこの少年は、ラズリィが考えつきもしないような、およそ異なった文化の中で生活してきたのではないか。それならもっと詳しく話を聞きたいと思った。

 このリンゴもそうだ。少年の口ぶりでは、リンゴを知らなかったラズリィのほうが、異常とばかりに思われている様子だった。


「このリンゴは、いったいどこで捕まえてくるの?」

「捕まえるんじゃない。植物の実は木になるんだ。リンゴのなる木を育てて、実が大きく実ったらもぐ。……まあ、俺も実際に、リンゴのなる木をこの目で見たことはないけど」

「植物……?」


 ラズリィは、それらの言葉に馴染みはなかったが、しかし聞き覚えだけはあるような気がして、記憶を必死にたどった。そしてすぐに思い当たった。首長が昔話してくれた、おとぎ話の外の世界に出てくる言葉だった。

 ラズリィは思わず少年を見た。


「それってもしかして、外の世界にあるもののこと……?」

「外の世界とは、外界げかいのことか。ああ、そうだ。外界には肥えた土地と太陽があるからな。植物がよく育つんだ」


 ラズリィは自分で聞いておきながら、思わず自身の耳を疑った。


「え……? ご、ごめん、もう一度、言ってくれないか」

「だから。リンゴは植物だろう? 植物が育つには、水と、あとここにはない土と光が必要だ。リンゴは外界の食べ物なんだよ」


 ラズリィはしばらく呆けてから、もう食べてしまったリンゴの味と食感を思い出して、両手をわなわなと震わせた。

 そして、抑えられない興奮とともに大声で言った。


「やっぱり外の世界はあったんだ!」

「ちょっ……あまり騒ぐな。ツチボタルたちが驚くだろうが」


 少年に諌められ、ラズリィは我に返って閉口する。しかし、それでもまだ胸の高鳴りは抑えられない。ラズリィの異様さに、少年はため息を吐いた。


「まさか、そこまで無知だったとは。お前の集落の連中は、どうやらとても大事なことまでも、忘れてしまっているようだな」

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