エピローグ
月日は流れ、かつて大空洞の住人だった者たちも、外界の暮らしに徐々に慣れ始めていた。
彼らが迎合した民族は、狩猟採集と農耕牧畜の両方を得意としていた。知恵も力もある、活気に満ちあふれた者たちの集まりだった。彼らは流れ者でも疎まず歓迎し、そこからもたらされる新しい知識や技術を、次々と柔軟に取りこむことを得意とした。そういう民族性だったので、いつの間にか、かなり大きな集落へとなり変わっていた。
集落の先住民たちは実に陽気で、歌と踊りと祭りを心から愛し、そして何よりも人を愛した。ラズリィは、そんな彼らをすぐに好きになっていた。
集落付近の森での狩りから帰ったラズリィが、仲間たちと別れたあとに、今しがた都から帰還した様子のエーデルと出くわしていた。
「エーデル、お帰り。長旅大変だったね。――フィンは? 一緒じゃないの?」
「私がラズリィに会いに行きましょうと言ったら、先に荷を置きに行ってしまったわ」
「相変わらずつれないなぁ。……それはそうと、都はどうだった? 王様に会ったんだろう?」
ラズリィが問いかけると、「ああ……」とつまらなさそうな様子で彼女は答えていた。
「がっかりだったわ。大した男ではなかったの。あれだけ何日もかけて遠くまで出向いたのに。私やマハン殿との会談なんてほとんど上の空で、終始私や侍女たちの身体ばかりをじろじろと眺めてきて、とってもわかりやすい無能だったわ。あの分だと、今の王政もそう長くは続かないのではないかしら」
「エ、エーデル……そんなことあまり大きな声で言わないほうが……」
「誰も聞いてないわよ」
自分の話にいまいち乗ってこないラズリィに、エーデルはやや不満げであった。統治のほとんど行き届かない田舎とはいえ、曲がりなりにも現君主の悪口を二人で言い合うのもどうかと思い、さりげなく話題をそらしてみる。
「――にしても、エーデルもマハンも大変だね。いつだって、いろんな交渉の矢面に立たされてさ」
「本当にその通りよ。ラズリィからもみんなに言ってちょうだい。私に重い役目を押しつけすぎだって。もう歌の魔力なんてほとんど消えかかっているのに、それでもまだプリマ・ソリストでい続けなくちゃいけないなんて。こんな小娘に、いったい何を期待しているのかしら」
「そうか……やっぱり、君の魔力もなくなってしまったんだね。僕も、歌ってももう何も起きないんだ」
ラズリィは少し寂しげにうつむいた。そんな彼を叱咤するように、エーデルが力強く言った。
「それでいいのよ。ここで生きる分には、魔力がなくたってそれほど困りはしないもの。あの力はセノーテホール――あの聖地だったからこそ、混血を繰り返して魔力の薄れた私たちにも扱えたものだったのよ。私は好きよ、ここで歌うのも。歌が空に舞い上がって、思いきり歌えるもの。大空洞のときのように、壁に声が反響するのも、それはそれで素敵だったけれど」
エーデルが精一杯自分を励ましてくれているのがわかって、ラズリィはそれを素直にありがたく思った。
「都に人はたくさんいた?」
「ええ、それはもう。こんな田舎の集落とは比べ物にならないほどにはね。男も女も、それはもう大勢ひしめき合っていたわ。素敵な殿方もたくさんいらしたの。みんな率先して私の世話係を申し出てくれて、少し困ってしまうくらいだったのよ」
「へ、へえ……そう」
エーデルはさらに得意げに胸を張っていた。
「外界に出て、いろいろな男を見てよくわかったわ。外界には、大空洞の男なんかよりもっと良い男が大勢いる。今になって、自分の視野の狭さを思い知ったというところね。あなたみたいな小さな男にずっと執着していたのかと思うと、自分が情けないわ。それにラズリィ、もともと私たちって、最初からあまり反りが合わなかったわよね。今は私、あなたみたいな男は正直ごめんだわ」
「おいおい……。一方的に、ずいぶんひどい言い草じゃないか。だいたい、そっちが勝手に囲ってきて、勝手に放り出したくせに。……というか、エーデルは僕の歌姫の力が欲しかっただけで、初めから僕自身を好きなわけじゃなかったでしょ?」
その問いにエーデルはしばらく考え込んだが、やがて大きくうなずいた。
「ええ、その通りだわ。あなたのことなんて、本当はまったく好きじゃなかったの」
あまりにきっぱり返されて、正直かなり複雑な気持ちだった。傷ついていないと言えば嘘になる。過去にあれだけこの少女に振り回されたことを思うと、自分が憐れでならない。
エーデルはさらに煽るように言ってのけた。
「……まあ、大空洞の男の中からどうしても選ばなければならないとしたら、私ならマハン殿かしらね。彼はラズリィの何倍も素敵よ。口にしたことはすべて成し遂げるし、誠実さも実力も両方兼ね備えている。そして何より、落ち着いた大人の魅力があふれているの。若い男と違って切羽詰まっていない、すべてに余裕があるのよ」
「……そうかい。エーデルは年上好みだもんね」
ラズリィはやや不貞腐れながら相槌を打った。エーデルがマハンをことさらに褒めたことが、面白くないことだけは確かである。それも自分を劣っているほうとして引き合いに出されたのだから、なおさらだ。
そういうところに余裕がないと言われてしまう所以があるなら、ラズリィはもう本当に口を閉ざすしかなくなってしまう。
「ねえ、ラズリィの父君って、いったい誰なの? ずっと気になっていたのよ。私はあなたとマハン殿が、目元だけは少し似ている気がしなくもないと思っていたのだけれど」
「僕たちのいた集落に、父親という概念はなかったよ。子供は集落みんなの子供だということになっていた。誰が父親かなんて、実際のところわからなかっただろうしね」
「そう……。考えてみれば、男って憐れな生き物なのね。自分の子孫を残すことができているか、絶対的な確証が得られないんですもの。女は子供の父親が誰であっても、自分が産む以上、確実に我が子だと確信できるのに」
「そうだよ、男はかわいそうな生き物なんだ。だからできればもう少し、今よりも優しくしてやってくれないかい」
「何言ってるの、女は出産で死ぬことだってあるのよ。それくらいで甘ったれないでちょうだい」
エーデルが手厳しいことを言ったのちに、二人はこらえきれなくなって、ついには笑い出してしまった。こういうやりとりを交わすときは、いつも結局落としどころなどどこにもないということを、互いに嫌というほど悟る。
ひとしきり笑ったあとに、エーデルは何やら意味深な言葉を繋いだ。
「ラズリィ、あなたみたいな男、やっぱり私はごめんだけれど。でもそうは言っても、先のことはわからないわよね。何せ、私たちはまだ若いんですもの。これからいくらだって心変わりをするわ。――フィンだって。自分の手元にあると油断していると、すぐに他の誰かに取られてしまうわよ。都で侍女の正装をしていたときのあの子ときたら、本当に見違えるほど綺麗だったんだから。くれぐれも用心することね。それじゃあ、私はもう行くから」
そう言って、エーデルはあっさりとどこかへ行ってしまった。
もしかすると、フィンがこちらに向かってきているのが見えたから、彼女なりに気を使ってくれたのかもしれないと、ラズリィはあとになって気づいた。
駆け寄ってきたフィンは、もう侍女の正装とやらからはとうに着替えて、いつもの男物の衣服を着こんでいた。ラズリィはそれを多少なりともがっかりしていたが、できるだけ顔には出さないように努めた。
「久しぶりだな、ラズリィ。エーデル様とは話せたか?」
「うん、お陰様で。ねえフィン、もしかしてわざわざ着替えてきたの?」
「いや、その……。やっぱり、俺にはこのほうが性に合ってるみたいだ。女物の服は、いちいち気をつけないといけないことが多くて、着ているだけで気疲れしてしまうから」
「そうなの? 残念だなぁ……」
「え?」
「あ、いや、ええっと……」
うっかり口にしてしまった言葉に自分で照れてしまい、それを誤魔化すように話題を変えた。
「そ、そうだ、フィン。僕もいつか、君と一緒に都に行ってみたいな。そこで、君が気に入るような素敵な服を、君に贈るよ」
「ど……どうした、急に。気持ち悪いな。熱でもあるのか?」
「いや、油断するなってアドバイスをもらったからさ……」
ますます訝しがるフィンを見て、ラズリィは慌てて再び話題を変えていた。
「そ、そうだ。君たちが留守にしているあいだに、ハービーの赤ちゃんが生まれたんだ。ぜひフィンにも会いにきてほしいって、夫婦で言ってたよ。男の子と女の子の双子なんだ。それはもう、すごく可愛いよ。今から見に行かない?」
「それはめでたいな。ああ、早く行こう」
二人はハービーたち夫妻の住む天幕へと、足早に駆けていった。