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アルーシュの歌姫 ~洞窟世界の住人たち~  作者: ゴリエ
第三章 明けない夜の向こう側
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光の道筋

 数時間前まで、殺すか殺されるかという間柄だったとは、信じ難いようなやりとりが交わされた。

 植物でできた梯子の強度を確かめ、とても頑丈だと確信したのちに、男は躊躇うことなくひょいひょいと梯子を登り始めた。ここにいる全員が、その様子を固唾を呑んで見守っていた。男の姿が遠く小さくなっていき、ようやく最上まで梯子を登りつめると、彼はそこから下に向かって大きく手を振った。見守っていた人々から、大きな歓声が湧き上がった。


 そして少しずつ、人々は後に続いてその梯子を登り始めた。登る順番をめぐって争いが起きることは、不思議となかった。誰もがその明るく照らされた梯子を、神聖な光の道筋のように感じていた。

 梯子が安全だと十分わかると、まだ幼い子供や妊婦、負傷者、寒さにあてられ凍えきった者などが、優先されて次々に上へと運ばれていった。その誘導を、男の集落の首長マハンは実に手際よく行った。マハンが率先してその役目を買って出たのを見た他の男たちも、みな協力的な姿勢でそれを手伝った。


 ハービーが、例の女性を連れて、いよいよ梯子を登ることになった。


「必ず上で会おう、ラズリィ。約束だ」

「ああ、気をつけて」


 彼は弟と固く抱擁を交わしたのちに、恋人を守り支えながら、梯子をゆっくりと登っていった。男も女も、多くの者が梯子を登っていく様子を、エーデルはフィンに支えられながら見守っていた。


 だんだんとこの場に残っている者の人数が減っていく。半分以上は、もうとっくに登っていっただろう。マハンは、たいそう衰弱している様子のエーデルにも上に行くよう声をかけたが、彼女は最後まで人々が登りきるのを見守ると言って、その場を動こうとはしなかった。

 エーデルに近しい歌姫やゲルダたちは、彼女のことをとても心配していたが、「先に登って待っていなさい」とエーデルが強く言うので、後ろ髪を引かれる思いで、彼女たちはしぶしぶ梯子を登っていった。


 そんなエーデルのことが気がかりで、フィンはまだ登ろうとはせず、ラズリィも二人を見守ることにした。

 そして長い時間が過ぎ去り、最後の一人を見送ると、ついにここに残ったのは、もうラズリィとフィン、エーデル、マハンの四人だけとなっていた。

 マハンがエーデルに言った。


「まさか、あなたはここに残るおつもりなのですか?」

「私は最後に登ります。みなを無事に誘導してくれて本当に感謝しています。さあ、あなたも早く登ってくださいな」

「……罪滅ぼしのおつもりですか?」


 マハンは低い声でエーデルに言った。


「私たちのマザーをいつも亡き者にしていたあなた方一族の罪を、何もあなたがお一人で背負われることはないでしょうに」

「え……? マハン、何を言って……」


 ラズリィが思わず聞き返すと、首長は淡々と語った。


「我々のマザーは、どういうわけか、昔からときどき不審な死を遂げることがあったそうです。それも奇妙なことに、歌いながら死んでいくのだと。このラズリィが集落から逃げたあとに、最高齢の者からそう聞きました。私はその話を聞いて、マザーエレナが亡くなったときに、奇妙な歌を聴いたことを思い出しました。そして、あなた方が歌で我々を葬り去ろうとしたときに、私は確信したのです。マザーたちは、歌いながら死んでいったのではない。あれは、歌であなた方に殺されていたのだと」


 マハンの話を聞いて、ラズリィもようやく思い出していた。自分が洞穴牢で見張っていた少女が死んだときのことを。あのときも、遠くでどこからか歌が響いていたような気がした。てっきり、あの少女が歌っているものだとばかり思っていたのだ。

 エーデルが静かに瞳を伏せた。


「ええ、その通りです。私たちは、もう何年も前から、あなたたちの集落に歌を送り込んでいました。セノーテホールでは、男を生かしておくべきだと言う者と、男を恐れるがゆえに、一刻も早く根絶やしにするべきだと主張する者と、何年も前からずっと二つの意見が対立していました。歌を送り込んでいたのは、その後者の意見の者たちです。本当はあなたたちのマザーではなく、あなたたち自身を殺すことが目的でした。でも、セノーテホールから遠く離れた地に歌を送り込むだけでは、男たちを殺すことはできなかった。

代わりにその歌にあてられて死ぬのは、いつもまったく魔力に耐性のない、外界から来た彼女たちだけ。それがようやくわかったから、私たちはあなたたち男をわざわざセノーテホールに攫ってきて、ここで確実に殺すことにしたのです。もちろん反対する意見もあったけれど、すぐに飲み込まれました。大空洞に男は必要ない、と」


 それを聞いたマハンは、大きく息を吐いた。


「……たしかに、昔男はこれ以上ないほどに女を追い詰めたのでしょう。ですが、我々はもう十分すぎるほどの報いを、長い年月をかけて受けたと思っております。それに我らとて、祖先の男たちの非道な行いは、我らの意に反していると心から思っているのです。もう不毛な争いは、終わりにしませんか?」


 マハンは、決して怒りをあらわにすることはなかった。父親ほどにも年の離れた大人の男に諭されて、エーデルは何も言えずただ閉口していた。

 ラズリィは二人の話を黙って聞いていたが、いい加減に、もう口を挟まずにはいられなかった。


「ねえ、そういうややこしい話は、上に登ってからいくらでもすればいいじゃないか。それよりマハン、フィンが身体も冷えて弱ってきているんだ。彼女を連れて、先に登っていてくれないか」

「それは構わないが……。ラズリィ、お前はどうするんだ?」

「エーデルと一緒に登るよ」

「――わかった。先に行っているぞ。必ず上がってこい」


 マハンはそう言うと、寒さで震えているフィンを、ひょいと抱きかかえた。

 フィンが最後に、ラズリィの手を必死に握りしめて言った。


「エーデル様のことを、どうかよろしく頼む。……それから、ラズリィ。お前もどうか無事で」


 フィンがラズリィの手を名残惜しそうにして離すと、マハンはすぐにもフィンを抱え、梯子を力強く登っていった。二人が無事に上に着いたのを見届けると、ラズリィはエーデルに手を差し出した。


「さあ。僕たちも行こう、エーデル」


 ラズリィがそう言っても、エーデルはその場を動こうとしなかった。彼女はやはりこの場に残る気でいるのだ。

 痺れを切らしたラズリィが語気を強めた。


「エーデル!」

「ごめんなさい。やっぱり、私は行けない……」


 目に涙をためてエーデルが言った。


「ごめんなさい、ラズリィ。ごめんなさい……」


 泣きじゃくるエーデルを見て、ラズリィはいろいろな思いが脳裏を駆け巡った。彼女を許したわけではない。――いや、きっと完全に許すことなど、どれだけ時が経ってもできないのかもしれない。

 しかし、それはきっと、今目の前で泣いているこの少女も同じ気持ちなのだ。


「エーデル、行くよ。ちゃんと落ちないようにするから」


 そう言って、ラズリィはツタでエーデルと自分の胴を強く結びつけ始めた。


「ラズリィ、何するのっ……」

「歌が歌えなければ、君はただの女の子だ。こうすれば、嫌でも登るしかないだろう? 大丈夫、必ず君を上に連れていくから」


 ラズリィは、エーデルを背負いながら梯子を登り始めた。もう何人もこの梯子を登っていったので、人々が踏みしめてできた頑丈な部分の足場が、探さなくてもすぐにわかり、登るのは思いのほかそう難しくはなさそうだった。

 背負われて戸惑っているエーデルに、ラズリィはあえて何も声をかけなかったが、ふいに下を見た彼女がか細く声をあげて震え上がったので、少し苦笑してしまった。


「あまり下を見ない方がいいよ。見たって怖くなるだけだから」

「そんなこと言ったって……」


 エーデルは、自然とラズリィの背にしがみつかずにはいられなかった。彼女はそれが悔しくもあり、しかし、温かい背に守られているのが不思議と心地良くもあった。

 ようやく観念しておとなしく運ばれることにした彼女は、ふとラズリィに尋ねた。


「……どうして私を助けるの? 一人で登ったほうがうんと楽でしょう? 私はあなたをさんざん苦しめたわ。放っておけばいいじゃない」


 エーデルの問いかけに、ラズリィは額から汗を流しながら答えた。


「わからないよ、僕にだって。どうして自分がこんなことをしているのか。でも、君を放ってはおけなかった。君が死んだら、たぶん僕はとても悲しい。だから助ける――――それだけだ。今はそれ以上のことは考えられないよ」


 ラズリィの話を、エーデルは黙って聞いていた。


「大丈夫、僕らはやり直せるよ。エーデルや他の歌姫たちと一緒に歌ったときに、そう感じたんだ。気持ちを共有できたような……よくわからないけど、あれが魂が触れ合うってことなのかな。少しだけ、君の――君たちの心がのぞけたような気がした。エーデル、君はとても綺麗だった」

「え……?」

「うわあっ! しっかり掴まってないと落ちるよっ!」

「ご、ごめんなさい。だって、ラズリィが突然変なことを言うから……」


 エーデルは珍しく頬を赤らめていたが、彼女を背負っているラズリィは、それに気づくことはなかった。


「あ、いや……。君の魂が綺麗だと思ったんだよ。歌っているときに、エーデルを通じていろんなものを見たり感じたりした。昔のことも、そのときたくさん見えたよ。正直何が正しいかなんて、今の僕にはまだわからない。だから、自分以外の人たちの思いに振り回されるのは、もうやめることにした。これからは、僕が感じたことを一番に大事にしたい。僕のやるべきこと、やりたいことを自分で考えていきたいんだ。外の世界でね」


 ラズリィの言葉をエーデルは黙って聞いていた。そして、彼女は独り言のようにつぶやく。


「私は……自分がどう思うかよりも、昔の人々の思念や周りの人々の声にばかり捕らわれて、そちらに耳を傾けてしまっていたのだわ。一番大切な、自分自身の声を聞いていなかったのかもしれない。死んだ父は、こんな不甲斐ない娘の私にさぞ呆れているでしょうね。結局、母と同じ穴に落ちてしまった私を、きっと笑ってるわ……」


 エーデルの消え入りそうな声を背後で聞いていたラズリィが、懸命に梯子を登り息を切らせながら、小さくかぶりを振った。


「君のお父さんは、君も君のお母さんのことも、憎んでなんていなかったと思うよ。君だって、とっくに気づいてるんだろう? 君のお父さんのことをまったく知らない僕ですら、歌を歌ったときに、この地に眠るその人の思念に触れることができたんだから。エーデル自身が、いっそお父さんから嫌われているほうがマシだと思っていたから、そんなふうに信じ込んでいるんだね。彼は、ただ君と一緒に生きていけないことをひたすら悲しんでいたよ。君たち親子のことを、大事に思っていたんだろうね」

「そんな……嘘よ。そんなでたらめ、何の気休めにもならない。ラズリィ、やっぱりあなたは嘘つきだわ……」


 エーデルが震えながら泣いているのが、背中越しに伝わってきた。

 ラズリィがふと顔を上げると、はっとするような素晴らしい光景が眼前に広がっていて、思わずエーデルに声をかけた。


「見てよ、エーデル。なんて眩しいんだ。きっとあの向こうにあるのが、太陽だよ……」


 二人が梯子をようやく登りきろうとしているときに、いつの間にか晴れ渡った空の果てで、赤く燃え立つ朝日が、今まさにその顔をのぞかせようとしていた。

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