天を落とす歌
エーデルは言った。「今からここに外界を召喚する」と。
ラズリィには、それがどういうことなのかさっぱりわからなかった。
エーデルの高らかな歌声が、再びこの場に響き渡った。やはり何度聴いても彼女の声は透き通るように美しく、誰もが認めるこの世に二つとない至高の歌声だった。
エーデルの主旋律の後を追って、ラズリィが伸びやかな対旋律で駆け抜けるように歌に入ってきた。彼の声は、男性とはにわかに信じがたいほどの高らかなボーイソプラノで、その声もまた、神からほんの一時のみ与えられた、奇跡の歌声だった。両者の声は、結びついては離れ、そしてまた交わり、ときには会話をするように、その歌声を互いに弾ませた。
二人の歌は破滅をもたらす音であり、それでいて、驚くほど慈愛に満ちあふれてもいた。誰もが二人の歌声に耳を傾けた。これほど美しいものがこの世にあるのかと。
フィンも、自分たちが命の危険にさらされているということを、このときばかりは忘れ、二人が奏でる美しく荘厳な音色に引き込まれていた。
やがて、生き残った歌姫たちが自然と二人の元に集まり始め、少しずつ、その歌の中に飛び込んでいった。音が輪になり、繋がっていき、示し合わせがなくとも、自然な形で次のクワイヤに音を託していく。そしてついには、今までにないほどの大合唱となった。その歌声は、歌姫ではない者たちまでをも盛大に飲み込んでいった。
この場にいる者たちの気持ちは、このときばかりはみな一つだった。男も女も、歌姫もゲルダも関係ない。ただ歌を聴いて、その心を打ち震わせている者同士というだけになっていた。まったく関わり合いのない者たちを、その声で結びつける。まさに神の御業だ。
エーデルは、歌いながら涙を流していた。その涙の理由を、ラズリィは歌を通じて知ることとなった。
歌には、過去に歌った者たちの思念が残されている。以前エーデルはそう言った。それは真実だった。ラズリィにも、その思念がはっきりと見えたのだ。大昔に外界で迫害されてきた人々の記憶。そして大空洞に逃げ込み、出口を固く閉ざしたときの記憶。それから、歌を失った男たちから非道な扱いを受けた女たちの記憶。それから、それから……――。
目を背けたくなるような光景もたくさん見えた。とても入りきらないほど多くの思念が頭の中になだれ込んできて、ラズリィは今にも意識を手放してしまいそうだった。それでも、歌うのをやめるわけにはいかない。
目の前がかすみ、足元がおぼつかなくなっても、たとえ声が枯れ果てようとも、歌い続けなければならなかった。
いつの間にか、ラズリィはフィンに支えられていた。ラズリィが倒れそうになったのを、フィンがその腕で抱きとめたのだ。
ラズリィは気を失いかけながらも必死で歌い続けていたが、そろそろ限界が近づいてきた。
――そのとき。
泉の真上の天井に大きな亀裂が入り始め、そこからさらに水が大量に流れ込んできた。――かと思えば、突如ものすごい音と衝撃がこの地を襲った。誰もが余震だと身構えた。
しかし、そうではなかった。
天井が――――今まで当たり前にそこにあったはずの天井が、一部崩れ去り、岩や瓦礫の累々が泉に向かって大量に降り注いだのだ。これにより泉の水かさは尋常でないほどに増し、その場の人々や物を、今まで以上に圧倒的な力で飲み込んでいった。わずかに残っていた照明の炎は、これで完全にかき消されてしまった。
天井には一つの大きな穴があき、そこから大量の水と激しく吹きすさぶ風までもが入り込んできて、なおもこの場にいる人々に辛酸をなめさせた。
穴があいた場所から上は、もう遮るものは何もなかった。人々は初めて目にする空に、ただ息を呑んだ。
空はただひたすらに黒く、厚いもやのようなものに覆われ、そこから大量の水と暴風をもたらすばかりだった。もやは時折ピカッと一瞬だけ光ると、それからしばらくして、凄まじく不気味な音をゴロゴロと鳴らし始めるのだ。空に棲む魔物が暴れ回っているように見えて、人々は身を縮ませた。
(空から水が降ってきている。そうか……この水が、たぶん雨というものなんだ)
ラズリィは、朦朧とする意識の中でぼんやりとそう思った。
外界は楽園などではなかった。外界も大空洞と何ら変わらない。どこまでも闇に包まれ、その上荒れ狂ってさえいる。
すべての力を使い果たしてしまったラズリィは、その場で力尽きて意識を手放してしまった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
寒さに身震いしてラズリィが目を覚ましたとき、誰かにおぶわれていることに気がついた。足元が水に浸かっている。そして、自分を背負っている人物は、さらに身体の半分ほどが、もうすでに水に浸かりきっていた。
ラズリィは、その短く切りそろえられた後頭部を見て、すぐにその人物が誰かを把握した。
「フィン……?」
「気がついたのか、良かった」
「ずっと僕をおぶってくれていたの? 重かっただろう、ごめんよ」
ラズリィはフィンの背から降りると、自身の下半身も一気に水の中に浸かりきってしまい、思わず足をとられそうになっていた。
増水した水かさから考えて、少なくとも数時間は気絶していたのかもしれない。予想以上に水温が低く、あまり長く浸かっていると身体が凍えてしまいそうだった。それでもラズリィは、気を失っている間はずっとフィンにおぶわれていたので、そのあいだは水に浸からずに済んでいた。
しかし、フィンや他の者たちは違う。彼女たちは今までずっと、この冷たい水の中で何時間も過ごしていたのだ。いい加減に、気力も体力ももう限界だろう。
それなのに、状況はラズリィが気絶したときから、ほとんど何も変わってはいなかった。むしろ、水かさが増した分悪化したとも言える。
天井を見上げれば、すぐそこには外界があるというのに。皮肉なことに、ラズリィたちはそこを登りきる術を持たなかった。この広場の天井は、セノーテホールの中でも特段高い位置にあったのだ。
せっかく大空洞の封印を解くことに成功したのに、これほど歯がゆくもどかしく、絶望的なことはなかった。
ラズリィは羨望と憧れの入り混じった眼差しで、暗く曇ったままの空を見上げた。
(あそこに行きたい。ずっと夢見ていたあの場所に、自分の足で立つことができたのなら……)
気がつくと、ほんの少しだけ雨足が落ち着いてきたように思えた。
「ラズリィ。お前、顔色が真っ青だぞ」
「そういうフィンこそ、ひどい唇の色をしているよ」
互いにそう声をかけ合うと、二人はそこで初めて気がついた。
何の灯りもないはずなのに、互いの顔がよく見えているということに。
するとそのとき、空に向かって声高に歌う、一人の少女の歌声が聴こえた。声の主はエーデルだ。
彼女は、雨がおさまるのをずっと待っていた。そして何より、夜が明けるのを待ちわびていたのだ。
エーデルは最後の力を振り絞って、この場にいる人々の憂いと憧憬の感情を具現化するような、儚く切ない旋律の曲を歌った。ラズリィも他の歌姫たちにも、もう歌うだけの力は残っていない。エーデルただ一人だけが、切実な想いを外界の言葉に乗せて歌うことのできる、唯一の人物だった。
穴の開いた天井から無数にぶら下がっていた植物の根やツタが、エーデルの歌声に応えるように、その先端をゆっくりと伸ばし始めた。一本一本が絡み合い、みるみるうちに低い位置まで垂れ下がってくる。
空から差し込んだ光の柱が植物を照らし出し、それはまるで天に続く梯子のようだった。
絡まり合ったツタが人々の目の前まで降りてきて、ついには水に浸かりきったところで、エーデルは限界を迎えた。
倒れかかった彼女の肩を背後からしっかりと支えたのは、男の集落の首長――マハンだった。
「感謝いたします、女首長殿」
「……あなた方のために歌ったわけではないわ」
エーデルが息も絶え絶えに答えた。マハンは少女の不愛想な返しを物ともせず、一つの提案をよこした。
「この梯子、最初に登る者は、我々の集落の中から選ばせていただいても構わないでしょうか? もし登る途中でこの植物が切れてしまいでもしたら、いくら下に水があるとはいえ、この高さではまず助からないでしょう。うちからは、集落一の岩登りの熟練者を出します。彼に先行を任せていただきたいのです」
そして、一人の男がエーデルの前に進み出た。
「必ず上まで登りきってみせます。登ってくる人々を、のちほど上から誘導させてください。それに、登った先の地上で何かが襲ってこないとも限らない。その見張りの役は、男が適任だと思います」
そう語った男の真摯な目をエーデルはしばらく見つめ、そして力なく息を吐きながら言った。
「――わかりました。あなた方を信じることにしましょう。正直なところ女たちには、もうそれをやり遂げられるだけの力が残っているとは思えませんから……。くれぐれも、どうかお気をつけて……」
男はエーデルに言われると、嬉しそうに力いっぱい頷いた。