秘密の鍵
「捨てる……ですって? 女神に託されたこの聖地を?」
「はい」
エーデルがフィンを睨みつける。対するフィンも、エーデルに気圧される様子は微塵もなかった。
「俺がお捨て下さいと申し上げたのは、何もこの泉のことだけではありません。セノーテホールを…………――――いえ、大空洞そのものを、お捨て下さい。どうか、俺たちを外界へ導いていただきたいのです」
エーデルは大きな瞳をこれ以上ないほど見開いた。二人の話をそばで聞いていたラズリィも、これには耳を疑うしかなかった。フィンは、どういうつもりでそんな突拍子もないことを口にしたのだろう、と。
エーデルは一瞬驚きはしたものの、そのあとはただただ呆れていた。
「真剣な顔で何を言うかと思えば、とんだ世迷言ね、フィン。堅実なあなたらしくもない。そこのラズリィに何か吹き込まれでもしたかしら? 彼も呆れるほど外界に心酔していたから、変な影響を受けたのではない?」
「エーデル様、俺は本気です。みながここから生きて脱出する方法は、もはやそれしかありません」
「馬鹿げたことを。話すだけ無駄だわ」
「エーデル様!」
まったく取り合おうとしない相手に苛立ちを募らせて、フィンがものすごい勢いでエーデルの肩に掴みかかった。そばで見ていたラズリィのほうが驚いているくらいだった。
フィンがエーデルの目を正面から見据える。
「あなたは御魂抜きの儀の直前に、俺に話してくれましたよね。あの小舟の中で眠りにつかされる前に。もうすぐ死にゆく身の俺に、最後の手向けの言葉として、あなたは重大な秘密を打ち明けてくださった。ラズリィが、外界の扉を開くための鍵なのだと。あなたは、どうせすぐに死ぬ者だからと、俺にただの気まぐれで虚言を弄されたのですか? 本当は、ずっとお一人で悩まれていたのではありませんか? この大空洞で生きるには、もう俺たちはとっくに限界を迎えているのだと。いずれ外界へ移るべきだと判断なさったからこそ、ラズリィを手元に置いていたのでしょう。いざというとき、最後の手段として彼を使えるように」
エーデルはばつが悪そうにフィンから目をそらした。ラズリィはそこで、もう口を挟まずにはいられなかった。
「エーデル、どういうこと? 僕が鍵って……。本当は、君は外界に出る方法を最初から知っていたの?」
ラズリィの問いかけにもエーデルは固く口を閉ざしたままだったので、ラズリィはかえって確信を抱くことになった。
「知っているなら、どうか教えてほしい。このままじゃ本当にみんな助からないよ。生き残るためには、もうそれに賭けるしか――」
「やめて、ラズリィ」
今まで口を噤んでいたエーデルが、初めて声を荒げた。
「……やめて、お願いよ」
消え入るような懇願だった。
こんなに弱ったエーデルを見たことがなかったラズリィは、一瞬たじろいでしまう。そこでフィンに腕を強く掴まれ、はっとして自分を取り戻していた。
フィンが力強い言葉でラズリィに語った。
「大昔、大空洞に逃げ込んだ俺たちの祖先は、女と男がそれぞれの陰と陽の力を掛け合わせて歌うことで、大空洞の出口を封鎖したらしい。だからその封印を解くには、もう一度同じように、男女が力を合わせて歌わなければならない。つまりここの歌姫様たちと、唯一男の歌姫であるお前の歌声が必要だということだ。――そうですよね、エーデル様。俺が眠りにつく直前に、そう話してくださいましたよね」
ラズリィが、信じがたい様子で呆然とつぶやく。
「僕の歌? ……で、でも、まだほんの弱い魔力しかない僕に、本当にそんな大きなことができるのかな……」
弱気なラズリィをフィンが一喝する。
「できなければ、全員ここで溺れ死ぬのを待つだけだ」
「そ、そうか、そうだね……。もう悠長なことを言ってる場合じゃないのか。とにかく、やれるだけのことはしなくちゃ」
いつの間にか、もうすねの部分まで水に浸かっている足元を見て、ラズリィは決心を固めていた。
「エーデル、一緒に歌おう。君が歌えば、他のみんなもきっと歌ってくれる。一緒にここを出るんだ」
「嫌よ、絶対に嫌!」
ラズリィの差し出した手を払いのけると、エーデルはその細い肩を振るわせた。
「二人とも、勝手なことばかり言わないで。あなたたちは、外界がどんなところかを知らないから、そんなのんきなことが言えるの。外界に行くだなんて、とんでもないわ。のこのこ出ていけば、結局また迫害されて殺されるだけよ。私は古い歌を歌うたびに、大昔に殺されていった人たちの思いをいつも感じていたわ。外界はとても恐ろしいところよ。外界の人間に捕らえられれば、生きたまま心臓を抜き取られ、業火に焼かれて殺される。あんな地獄のような場所にまた出ていくくらいなら、この聖地で死んだほうがよほど幸せ――」
「いい加減にしてください!」
パンッ――と目の覚めるような音が響き、ラズリィはぎょっとした。フィンが、エーデルの頬を思いきり引っぱたいていた。
フィンは、エーデルの頬を打った自分の手のひらを抑えながら、ものすごい剣幕で彼女に食ってかかった。
「見損ないましたよ。そんなにこの生まれ故郷が大切なら、ここにいるみなの命よりもこの場所が大事とおっしゃるなら、どうぞお好きにここで溺れ死んでください。そんな役立たずな統治者なら、もう俺たちはあなたなんかを必要とはしない。あなたの独りよがりな望みに、ここにいる者たちすべてを巻き込まないでいただきたい」
激怒するフィンを見て、今度はエーデルが唖然とする番だった。そしてみるみるうちに、エーデルの目からとめどなく涙があふれ始めた。
「フィン……ごめんなさい、フィン。あなたまで失ってしまったら、私、もうどうしていいかわからないわ。お願い、私を見捨てないで。一人にしないで。だって…………私怖いんだもの。外は、とても怖いんだもの」
恐怖を捨てよと群衆に語ったその口で、本当は、誰よりも恐怖の病にかかっているのは自分自身なのだと、エーデルは震える唇で告げていた。
まるで幼子のように泣きつくエーデルを、フィンは力いっぱい抱きしめた。
「ご安心ください、エーデル様。俺はあなたの守護者です。あなたを生涯守ると誓いを立てた者です。どんなことがあっても、俺が必ずあなたを守りますから。だから、みんなでここを出ましょう」
「フィン……ああ、ごめんなさい、フィン……!」
エーデルがフィンにすがりついている姿を見て、ラズリィはどこかそれを複雑な思いで見つめていた。こんなに強い絆を目の前で見せつけられては、自分は完全に蚊帳の外ではないか。
まるで彼女たちの間に割って入るように、ラズリィが早口でまくしたてた。
「エーデル、僕からも――その……約束するよ。君たちがもし外で危険な目に遭ったときは、僕が男として絶対に君たちを守るって。約束する。だから一緒に外に――」
「……嘘つき」
フィンに抱きついたまま、エーデルはラズリィを睨んでいた。
「心にもないことを言わないで。あなたが守りたいのは、フィンだけでしょう。私のことも、ここにいる他の女たちのことも、どうでもいいくせに。むしろ、憎んでいるくせに」
「ああ、そうだ、憎んでるよ。これ以上ないくらい憎んでる。でも、もういい。今は忘れることにする。――だってフィンもハービーも、僕の大事な人は、ちゃんと生きてるんだ。だから行かなくちゃ。一緒に外へ出よう」
ラズリィのその言葉が、エーデルを最後に後押ししていた。
「本当にやるのね? 言っておくけれど、あなたも自覚している通り、歌姫としてまだ未熟すぎるあなたには、分不相応もはなはだしいほどの大役よ。歌に魔力を使いすぎると、最悪命を落としてしまうことも十分ありえるわ。でも、もしあなたが途中でへばっても、私は歌うことをやめないわよ。私がやめなければ、あなたの命はどんどん私に引きずられて削られていくでしょうけれど、それでもいいの? その覚悟はある?」
「うん。僕がどんなことになっても、君は歌うのをやめないで。外の世界を見るまでは、僕は絶対に死なないから」
「……本当に、まったく。あなたのその自信は、いったいどこから来るんだか」
エーデルはため息を吐いたが、その顔はどこか喜んでいるようにも見えた。そして彼女はもう二度と、ラズリィの決心を確かめてくるような真似はしなかった。