祭りの始まり
拘禁されてからどれほどの日数が経ったのか、ラズリィはもう数えるのを諦めてしまった。
幾日も一つの場所に閉じ込められ続けていると、心も身体も疲弊し、少しずつおかしくなっていくのが自分でもわかった。
ここに捕まってからというもの、まともに眠れたためしがない。極限にまで疲れきった状態になって、やっと気絶するように眠りに落ちるのだが、眠るとすぐに悪夢にうなされてしまうので、ラズリィは眠ることを何よりも恐れるようになった。
夢の中で、何度フィンやハービーが殺される場面を見てきたか、ラズリィにはもうわからない。ただの夢なのか、それともこれこそが現実なのかと、混濁した意識の中で答えの出ない問いに振り回され続けていた。
エーデルにも、もうずいぶんと会っていない。しかし、ラズリィがエーデルに呼ばれていないということは、少なくともフィンもハービーもまだ殺されてはいないということだと考えた。エーデルは、すべてが終わったらラズリィを抱くと宣言したのだから。
ラズリィは、その確証のない小さな希望だけを拠り所にしながら、苦痛しかない毎日を生かされ続けていた。
そして、とある夜のこと。
刻限はもうすっかり遅いはずなのに、天幕内の照明が弱められる気配がないことを、ラズリィは不思議に思っていた。
また、いつもならこの時間は静まり返っているはずだが、外がやけに騒々しく、はやるような人々の足音や話し声などが、すぐ近くからも聞こえてくるようになった。
何があったのかとラズリィが気にかけていると、天幕内に突然女が数人で現れて、ラズリィの元へとやってきた。彼女たちは、ラズリィの両手足の拘束や口を塞いでいた布を、乱暴に取り去っていく。
「出なさい。今宵は女神の泉で祭儀がある。セノーテホールで暮らす者は、老若男女問わず、たとえ罪人であろうとも、みな必ずこの儀式に参加しなければならない」
天幕の外にはすでに大勢の見張りの女たちが、ラズリィを連行するために待機していた。突然女たちに連れ出され、ラズリィはわけも分からずに戸惑っていた。
(何があるんだ……?)
長いこと拘束され続けてまともに歩いていなかったため、身体の節々が痛んだが、速く歩くように厳しく急かされ、ラズリィは足が絡まりそうになりながらも、強制的に歩かされ続けた。
連れていかれた場所は、以前にも来たことがあった。休暇を与えられた折に、連れ回された場所の一つ――女神の泉だ。
しかし、以前訪れたときとは印象が大きく違って見えた。初めてこの地を訪ったときには、神聖な場所ながらも人々の憩いの地のようであったが、今宵はセノーテホール中の人々がこの泉に詰めかけひしめき合っており、異様な光景そのものだ。
みなが一様に両手指を組み、何かをぶつぶつと唱えながら熱心に祈りを捧げている様も、拍車をかけてラズリィには奇怪なものに見えていた。
泉の周辺には多くのかがり火が焚かれ、また高い天井にも吊るされた巨大な燭台がいくつもあり、昼間よりもよほど炎は煌々と燃え盛っていた。
以前は青くきらめいていた泉が、今宵は人々の熱気と踊り狂う炎にあてられ、真っ赤に染まって見えた。
ラズリィが到着すると、女たちがみないっせいに刺すような視線をこちらに向けてきて、思わず怯んで足がすくみそうになった。しかし、幸運にも彼女たちの注意は、すぐに別の興味の対象へと移ろっていった。
ひしめき合う女たちが、次々に道を開けひざまずいていく。たった今できたその真新しい道を、悠然と少女が進んでくるのが見えた。
長く美しい金の髪を揺らし、青い瞳は遠くの泉を見据えていた。しばらく会っていないあいだに、プリマ・ソリストの風格はさらに増したようだ。
ラズリィには一瞥もくれずに、エーデルは彼の目の前を通り過ぎていった。とてもこの場で彼女に話しかけられる雰囲気ではなかった。
エーデルが去ったあとも、彼女の引き連れた長い行列はずっと続いていた。その列の中に、大きな細長い木箱が、幾人かの手によって、厳かに担がれていくのが見えた。遠目からでもあまりに目立っていたので、ラズリィも身を乗り出してその光景を凝視する。
運ばれていく木箱の前方部分は鋭角に尖っており、そこからちらと人の足のようなものが見えて、ラズリィはぎょっとした。そして、箱の中に入っているものの全体像をようやく把握すると、彼の目はそこに釘づけになった。
箱の中に入れられているのはフィンだった。
真っ白な一続きの衣服に身を包んだ彼女は、眠るように閉眼し、腹部の上で両手を組んでいた。周囲には見慣れない色とりどりの植物が、箱からあふれんばかりに敷き詰められている。
フィンの表情は驚くほど穏やかに見えた。ただ眠っているだけなのか、それとももしかするとすでに……と考えると、ラズリィはもう気が気ではなくなり、思わずその場で叫んでいた。
「フィン!」
しかし、ラズリィの不審な行動を警戒していた見張りによって、彼はすぐに取り押さえられ、体格の大きな女からみぞおちをえぐるように殴られていた。あまりの痛みと衝撃でその場に倒れこみ、うずくまりながらしばらく呼吸ができないほどの苦痛にのたうった。
自力では起き上がることもできず、咳き込みながら喘いでいると、周囲から異常なまでのどよめきが上がり始めた。中には悲鳴を上げる者までいる。この泉の広場全体が、すぐにも騒然とした雰囲気に包まれていた。
(いったい、何があったんだ……?)
ラズリィは地面に這いつくばったまま、その異様な雰囲気を肌で感じ取っていた。
荒々しい息遣いと無骨な足音が、いくつも近づいてきていた。このセノーテホールに住まう女のものではないと、なぜかラズリィにはすぐにわかった。地面から顔を上げて、その光景に目を奪われた。
男たちが――ここにいるはずのない男たちが、幾人もラズリィの前を通り過ぎていった。
ラズリィが地面から起き上がれずにいるので、大勢の女の壁に遮られ、彼らが足元に転がっているラズリィに気づくことはなかったが、男たちの顔をラズリィはよく見知っていた。
彼らは紛れもなく、ラズリィがかつて生まれ育った、男だけの集落の住人たちだった。男たちはみな衣服も身体も汚れきっていて、両手を拘束され小突かれながら歩かされていた。ずいぶんと疲弊しているようで、もしかすると、集落からここまでの長旅を終えてきたばかりなのかもしれない。
(どうしてこんなところに彼らが……)
あまりに唐突な巡り合わせに困惑していると、先ほどラズリィを殴った女が、いつまでも起き上がらないことに痺れを切らし、乱暴に両脇を抱え込んで、無理やりラズリィを立たせていた。
「いつまでへばっている。さあ、もっと前に出てよく見ろ。エーデル様は、お前のために今宵の儀を用意されたのだからな」
ラズリィはぐいぐいと押し出され、ほとんど観衆の先頭にまで連れてこられていた。
そこまで行けば水際はもう目の前で、泉のほとりに立つエーデルや、彼女のそば仕えの歌姫やゲルダ、それから憔悴しきった男たちの顔までもが、非常によく見えた。
男たちはようやくラズリィの存在に気づくと、信じられない様子でこちらを凝視してきた。ラズリィも男たちも、互いがこの場にいることを、言葉を失うほどに驚いていた。
そして、一番目立つ中央にいるエーデルの傍らには、フィンが埋納された木箱が置かれていた。
女たちの囁き合う声が自然と耳に入ってくる。木箱の宝飾が美しいだの、フィンの衣装や装飾品が素晴らしいだのと、彼女たちはこんなときでも低俗な話をやめることがない。
その話の中で、あの木箱は「舟」というもので、どうやら水上に浮かべるものらしいとうことを知った。今から何が始まるのか、ラズリィには見当もつかなかった。
エーデルは小舟の中のフィンを一瞥すると、再び群衆に視線を向けて、右手を天井に向けて高く掲げた。するとあれほど騒々しかったその場は、一瞬にしてしんと静まり返っていた。誰もが一切の私語を慎むようになると、その場に残ったのは、人々のかすかな息遣いだけだった。
エーデルは群衆を見渡すと、彼らに強く語りかけていた。
「聞け、セノーテの民よ。気高い聖なる同胞たちよ。我らの偉大なる祖先は、かつてこう告げた。『もうすぐ夜が来る。眠りに、キミに行こう。キミには永遠がある。すべての善と悪は崩壊し、キミは犯した悪行の限りを許す。明日の光のため、夜の力を蓄えよ。キミは死と平静と喜びの象徴。ツォルキンの六番目の日。死後に新たな命への復活をもたらす日である。恐怖は病だ。一切の恐怖を捨てよ。死への恐怖を捨てよ。その先に、新たな始まりがある』――と」
エーデルの言葉は、この広場中に反響していた。群衆は、みな彼女の言葉に聞き入っていた。
「悪しき心に惑わされ、大罪に手を染めた者たちが、今この地に集った。我が守護者であるにもかかわらず、その誓いを破ったフィン。――そしてみなも知っての通り、ここにいるのは、かつて我らの同胞を迫害し、その声と純潔を奪った卑怯な男たちの末裔である。彼らの穢れきった哀れな魂を浄化し、その罪の重さから解放してやろうではないか。キミの日の名のもとに。彼らの旅立ちと、そして新しい始まりに、祝福を。グラン・セノーテ・イン・ラケチ」
『グラン・セノーテ・イン・ラケチ』
女たちの群衆から割れんばかりの歓声が上がった。長きに渡ってずっと憎んできた「男」という敵を前にしたことにより、歌姫もゲルダも互いにあった溝のことは忘れて、今まさに強い一体感を得た様子であった。
そんな女たちを、もう誰も止められる者などいなかった。この勢いに戸惑っているのは、ラズリィや、今しがたここに連れて来られたばかりの男たちだけ。
エーデルが再び右手を振り上げると、沸き立つ女たちはまた瞬時に静かになっていた。騒然としていた空間が一瞬にして無音になり、張り詰めた空気に塗り替えられる様は見事なものだった。
時が止まったかのような静寂を引き裂いたのは、ざぶんという水が激しく揺らいだ音だった。
フィンの小舟が、女たちの手によって泉に放流されたのだ。小舟はゆっくりと泉の中心部に向けて、水上を滑るように移動していった。
ラズリィがフィンの名前を再び叫んだとき、まるでその声をかき消すように、突然女たちの大合唱が始まった。エーデルの周りに集った、歌姫たちの精鋭集団――第一クワイヤの歌声だった。よく統制のとれた、とても鋭く研ぎ澄まされた声だった。
すると、突然男たちが叫び声をあげて苦しみ始めた。彼らは両手の拘束を解こうともがいていたが、それがかなうはずもなく、膝をついて額を地にこすりつけて悶絶し始めた。凄惨極まりない光景だった。
続いて第二クワイヤがそこに加わると、さらに割れんばかりの大合唱となり、歌はますます激しさを増して、凄まじい威力を発揮した。
歌を聴いていたラズリィも激しい頭痛に襲われ、反射的に耳を塞いだ。耳を塞ぐと頭痛はかすかに和らいだが、彼女たちの歌声は力強く、血液が煮えたぎるような感覚をもたらした。