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アルーシュの歌姫 ~洞窟世界の住人たち~  作者: ゴリエ
第三章 明けない夜の向こう側
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傷だらけの手

 騒動から数日が経過したのちも、ラズリィは自身が寝起きしている天幕に拘禁され続けていた。もともとは軟禁であったが、ラズリィが何度も見張りの目を盗んでは脱走をはかろうとしたため、やむなくの措置だった。

 彼は幾度となく「エーデルに会わせてほしい、話がしたい」と見張りに頼み込んでいたが、その願いが聞き入れられることはなかった。


 ここに閉じ込められ続ける限り、ラズリィのもとには何一つ外の情報が入ってはこない。フィンやハービーが今どうなっているのかなど、誰も何も教えてはくれなかった。

 歌の力の行使を警戒され、口は四六時中ずっと布で塞がれて苦しかった。


 今日までの日を、ラズリィは絶望の淵に沈むような思いで過ごしていた。

 フィンやハービーが命の危険にさらされているのは、すべて自分が取った軽はずみな行動が原因だというのに、そんな中で自分だけがただ一人命を保障され、のうのうと安全な場所で暮らしていることが、心底辛かった。

 それならいっそ、何か罰を与えられてひどい目に遭わされているほうが、よほどマシな気さえする。


 食事もほとんど喉を通らず、押し寄せてくる不安と罪悪感から、夜間はおちおち眠ることもできない。

 毎日を重苦しく過ごしていると、突然「ハーベルトに会わせてやる」と見張りの者に告げられ、ラズリィは心底驚いて目を瞬かせていた。

 ずっと待ち望んでいたことが実現されて嬉しい反面、悪い予感も拭えず、ハービーに会うことがとても怖くなっていた。


 複雑な思いを抱え、戸惑いながら道中の道筋をたどった。閉塞感と闇で息が詰まるような下り坂の続く洞穴回廊を、ひたすら歩かされていた。周囲の岩壁にはわずかな照明しか備えつけられてはおらず、広いセノーテホールの中でも、一番暗澹あんたんとした場所ではないかという印象を受けた。

 やっとたどり着いた回廊の突き当たりには、小さな天幕が一つ。ラズリィはその中に案内されていた。


「ハービー……」


 自然と涙がこぼれた。

 天幕の奥には、上半身()のままでいるハービーが、両手足を鎖で繋がれ、片膝を立ててうな垂れるようにして座していた。

 首や胸、腹など見えている部分だけでも、真っ赤なひっかき傷や太いミミズ腫れのごとくただれた傷が無数につけられている。思わず目を覆いたくなる痛々しさだった。きっと同じような傷は、見えない箇所にも存在しているに違いない。


 ハービーが思いがけない来客に気づき、嬉しそうに笑みを浮かべた。


「ラズリィ、元気にしていたか? どうやら私はヘマをしてしまったようで、見ての通りこの有様だよ」

「ハービー…………ああ、ハービー!」


 ラズリィは見張りが制止するのも聞かずに、すぐにハービーに駆け寄ると、彼のその傷だらけになった身体や腕を優しく抱きしめていた。


「ハービー……ごめんよ、僕のせいだ……っ」

「それは違うぞ、ラズリィ。決してお前のせいじゃない。遅かれ早かれ、いずれこうなっていた。もとより私は覚悟の上だった。お前が気に病むことなんて一つもないんだ」


 ハービーは変わらずに優しく、そして気丈にそう言った。ラズリィは涙が止まらなかった。

 この天幕の中には、必要最低限の簡素な小卓や台座、そして寝台以外は、他に何も備え付けられてはいない、非常に殺風景な空間だった。寝台や寝具だけは美しく立派なものが用意されており、ラズリィはそれが何に使われているのかを悟って顔をしかめた。

 きっとこんな状況でもなお、ハービーはまだ種としての役目を負わされ続けているのだろう。


 ハービーの痛々しい姿を見るのはひどく辛かったが、それでも兄が生きていたという事実を知ったことだけはたまらなく嬉しくて、心の底から安堵した。


「この傷は女たちが? なんてひどいことを……っ」

「心配いらない。見た目は派手だが、もうそれほど痛くはないんだ。興味深いことに、首から上を傷つけられたことは一度もない。男の顔が醜悪だと、女はどうもその気にならないらしい」


 ハービーは嘲笑を交えて皮肉げに言った。


「ラズリィ、今日はお前にどうしても伝えておきたいことがあって、私から看守に無理を言って頼み込んで、なんとかお前をここに呼んでもらったんだ」


 ハービーが真剣な顔をしたので、ラズリィは何事かと耳を傾けた。


「ラズリィ。お前と会うのは、今日で最後だ」

「え……?」


 あまりに唐突すぎて、ラズリィは言われたことをすんなりとは呑み込めなかった。


「私はもう逃げることはできない。今すぐではないにしろ、そう遠くないうちにいずれ始末されもするだろう。こうして会っても互いに辛くなるだけだから、私のことは忘れて、お前はこれからを生きるんだ。今日は、それを言うためにお前をここに連れてきてもらった。私の最後の願いとして」

「……冗談じゃない。冗談じゃないよ。そんなこと言われて、僕が頷くと思ったの? 涙を呑んで、ハービーのことを諦めるとでも?」

「――お前の気持ちは痛いほどわかる。でも、私にはもうこれしか言えないんだ。頼む、お前は生きてくれ」

「嫌だよ、嫌だ嫌だ嫌だ!」


 幼い子供が駄々をこねるように、ラズリィはその場で泣き崩れていた。


「僕がなんとかエーデルに頼み込むよ。頭でもなんでも下げるし、やれと言われたら彼女の足だって這いつくばって舐めてやる。服従して、今後一切逆らわないと誓いを立ててもいい。その代わりに、ハービーを殺さないって約束してもらうんだ。彼女は、ちゃんと話せばわかってくれる人だよ。だからお願い、諦めないで……」

「ラズリィ、お前には辛い思いばかりさせて、本当にすまない……。お前を心細くさせてしまうことだけは、私も胸が痛んでやまない。だがな、ラズリィ。こんなことを言ってもお前はちっとも救われないかもしれないが、私は今、自分がそれほど不幸だとは感じていないんだよ」


 ラズリィは思わずハービーを見上げていた。


「え……?」

「私の愛する女性が懐妊した。そのひととの子供ができたんだ。その子が生まれる時期くらいまでは、計算上、どうにか私はまだここで務めを果たさなければならないらしい。つまり、それまでは生かされているということだ。――プリマ・ソリストを説得しても意味はないぞ。なぜなら、他の誰でもない彼女自身が、誰よりも私の処刑を強く推しているからだ。お前がいくら彼女に進言したところで、決定事項が覆ることはまずないだろう」


 ラズリィは呆然とした。ラズリィがついていけないまま、ハービーは偽らざる本心を弟に話していた。


「私は今まで数えきれないほどの数の女を相手にしてきたけれど、そのうちの一人の女性を好きになったんだ。彼女はもともと身体が弱くて、妊娠もしづらいだろうと宣告されていたらしく、他の女たちのように積極的に私を求めてはこなかった。形式的に私をねやへ招き入れはしても、身体の関係は持たずに、ひたすら話をして過ごした。彼女との時間だけが、私に安らぎをもたらしてくれた。彼女のおかげで、女をすべて憎まずに済んだんだ。その彼女が、私の子を孕んだ。心から嬉しかったよ。私はきっと、このためにセノーテホールに来たのだと本気で思った。

――実を言うと、私はお前とセノーテホールから逃亡するという計画を練っているあいだも、自分の中ではずっと迷いがあった。ラズリィと逃げて生き残りたいという気持ちと、彼女のそばを離れたくないという思いがいつもぶつかっていた。……それにやはり、私を逃がすためだけにお前まで巻き込みたくはなかった。お前はここに残って生きてくれ。私からの最後の願いだ。そして、できれば私の子供の成長を見守ってほしい。私の分まで」


 勝手な言い分ばかりで済まない、とハービーはラズリィに頭を下げた。

 ラズリィは、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまい、もう何も言うことができなくなっていた。


 ハービーはいずれ自分に迫りくるであろう死を、驚くほど冷静に受け入れており、ラズリィには一切相談することもないまま、何もかもすべて一人で考え一人で決めてしまっていた。完全に自己完結してしまっている彼の中に、ラズリィが入り込む余地はもうどこにもなかった。


 ラズリィは、ただその場でハービーの傷だらけの手を握りしめ、うなだれながら涙を流した。

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