言葉の代わりに交わす歌
コウモリたちが巣穴に帰ってくると、大空洞での朝が始まる。
大空洞での一日という概念は、コウモリの活動時間に準拠している。コウモリが棲みかを離れると夜、帰ってくると朝というように、コウモリが時間の流れを人間に教えてくれるのだ。そうでなければ、終始暗闇に閉ざされたこの洞穴の中では、時間感覚を正確に保持することは困難だった。
この集落から少し離れた場所にある巣穴に、おびただしい数のコウモリが、疲れた羽を休めにくる。何千、何万という数のコウモリが岩の天井をびっしりと埋め尽くす様は圧巻だ。その下には、コウモリの糞が積もってできた大きな山があり、その糞を食糧としている小さな虫たちが集まってくる。
食糧の少ない大空洞では、コウモリは人間にとって貴重な栄養源だ。
祝い事の際には川の魚を捕って食べることもあるが、何しろ数がきわめて少ない。首長の許しがあったときのみ捕ることを許されている、一番のご馳走だ。
この大空洞では、食糧を求めて狩りをするのはいつでも命懸けだ。コウモリたちの棲みかや川に行くためには、暗闇がひたすら続く険しい道のりを進まなければならない。
熟練した大人でも、少しの油断で足を滑らせ、深い谷底に落ちてしまうこともあった。
人ひとりが這ってやっと通れるくらいの狭い道の洞穴もあれば、松明の灯りが天井まで届かないほど巨大な空間が広がる場所もある。
このように大空洞には様々な地形が存在するが、必ず共通しているのは、とにかくどこまで行っても、石灰岩の壁や天井が恒久的に道を覆っているということだった。
それゆえに、ラズリィを含めた集落の住民たちは、自分たちの住むこの土地のことを「大空洞」と呼んでいるのだ。彼らにとって、この暗闇に閉ざされた世界こそがすべてだった。
大空洞では、光――灯りが何よりもなくてはならないものだ。この土地で光源となり得る物は二つしかない。
一つは火。火は、川から採れる流木を燃やすことによって、松明やかがり火として用いられている。
そしてもう一つは、天井に棲むヒカリバエの幼虫――ツチボタルだ。ツチボタルは、粘液状の糸を天井から垂らし、自らの体を発光させることによって、エサとなる小さな虫をおびき寄せ、糸に絡ませて捕らえる蠕虫だ。
ツチボタル一匹一匹の光は小さいが、それが天井を埋め尽くすほどの数にもなれば、幻想的な青白い光の空間を作り出す。その光が、エサとなる羽虫たちをおびき寄せるための悪魔の誘いだということは、とうてい信じがたいほどには美しい光景だった。
火とツチボタル、その二つがなければ、暗闇に順応しにくい人間など、たちまち方向感覚すら失ってしまう。それがたとえ、何度も通ったよく見知った通路であっても、灯りなしにはほぼ間違いなくまともに進むことはできず、すぐに遭難するはめになる。
流木も無尽蔵に採れるわけではなく、またツチボタルもコウモリに食べ尽くされてしまわないように、いつも集落では交代でツチボタルの巣の見張りをして、ずっと気を配って生活しなければならなかった。
だからこそ、きつい狩りの仕事よりも、穴底にいる少女一人をただ見張っているだけで良いという楽な任務につくことができて、ラズリィとハービーはとても喜んでいた。――最初のうちだけは。
一日三度の食事に、衣服や水や布など生活に必要なものを、ラズリィとハービーで日がな交代で少女のもとへと運んだ。
初めは毎回律儀に洞穴牢の中へと降りていたが、近づくと異様なほどに少女が怯えるため、必要時以外は穴の上からただ見守るだけになっていた。
少女はラズリィたちを警戒して、食事もほとんど手をつけようとはしなかったが、数日もすれば空腹に耐えかねて、涙を流しながらやっと食べるようになった。それでもなかなか心を開いてはくれず、ラズリィやハービーが何か話しかけても、目を合わせようともしなかった。
彼女は一日のほとんどを泣いて過ごしていた。言葉が通じない以前の問題で、とても懐柔するどころではなかった。
ただ、泣くにも体力は必要なようで、今では食事の半分ほどには手をつけるようになっていた。少女には、この集落で用意できる最高級の食事を提供していたが、食べている様子を見る限りでは、食事が口に合っているとは言えなさそうだった。
毎回見張り役の交代の際に、ラズリィとハービーは、「どうだった?」「今日もだめだったよ」と報告し合うのが日課になっていた。少女と言葉は交わせなくても、身振り手振りでどうにか意思疎通が図れないものかと、二人はずっと模索していた。
そして、そろそろ「だめだったよ」以外の返答を言いたいし、聞きたくもあった。
少女の監視だけをして日々をやり過ごすことが、いい加減辛くなってきたのだ。
このままではこちらの気が滅入りそうだと思ったラズリィは、ただ何かを話したい一心で、少女の前で独白することにした。気恥ずかしさや体裁を気にするより、今はとにかく何らかの変化を欲していた。
突然するすると洞穴牢の中に降りてきたラズリィを見て、少女は身を固くした。
「怖がらないで。何もしない、ただ君と話がしたいだけなんだ」
それで少女の警戒心が和らぐとは思えなかったが、とにかく優しく語りかけようと努めた。
「君は、やっぱり外の世界から来た人なんだよね?」
案の定、彼女は訝しげにこちらを見るだけだった。それでもラズリィはめげずに話しかけていく。
「外の世界の話なんて、皆の前で言うと馬鹿にされるから、普段は滅多にしないんだ。でも君のように言葉の通じない人と出会うと、やっぱり希望を持ってしまうよ。僕たちのマザーも、ここの言葉をほとんど話せない人だった。大人たちの話では、女の人は、いつもどこからかふらっとこの集落に迷い込んでくるんだって。彼女たちがどこから来ているのかは、よくわかってないみたい。なにしろ言葉が通じないから、聞き出すことも難しいようで」
大人たちの前では大人しいラズリィだが、外の世界の話をするときだけは、妙にいきいきとした、年相応の少年の目になるのだった。
「この大空洞は、どこまで行ってもずっと岩に囲まれているだろう? ――でも外の世界には、この岩の天井も壁もまったくない、どこまでも地面だけが果てしなく広がっているんだって。天井がない代わりに、空という一面青の不思議な景色が広がっていて、空には目に見える大きな白い水蒸気――雲が浮かんでいるんだ。そして風が雲を絶え間なく押し流している。首長は、昔おとぎ話として僕にその話をしてくれたけど、初めて聞いたときはとてもわくわくしたよ。もしそんな世界があるのなら、僕らはもう地震にも、落盤にも、酸欠にも、毒ガスにも、暗闇にも怯えなくて済む」
ラズリィの舌はまだ回り続けていた。
「そして、もっとすごいのは、空には火やツチボタルの光なんて比べ物にならないくらい、ずっとずっと眩しい太陽という火の玉が、一日の半分ほどもずっと浮かんでいるってことだ。それはもう、直接目で見ることができないくらい、強い強い光だって。想像もできないよ。君は、もしかしたら太陽の光を浴びたことがあるかもしれないんだろう? そう考えると、いてもたってもいられない」
ラズリィは外の世界にしばらく憧憬の思いを馳せてから、その夢のような場所とはあまりにも違いすぎるこの現実世界に、苦い気持ちで肩を落とした。
わずかな光でさえも大空洞では何よりも尊ばれる。その貴重な光が、外の世界では無尽蔵に難なく手に入るというのだから、それが本当のことなら心底羨ましくて仕方ない。
太陽の下で、誰もが平等にその暖かな光の恩恵を一身に受けられる。しかし、その弊害か、だからこそというべきか、外では太陽の影響力が強すぎて、すべての生物の暮らしは太陽を基準にして営まれているという。太陽が浮かんでいる明るいうちは昼、落ちている暗いうちは夜と定められ、その火の玉に支配された中で、人も動物も過ごさなければならない。太陽に背くことなど、そこでは誰であっても不可能なのだという。
「そうそう。外の世界には、男と同じくらいの数だけ女もいるって本当かい? とても信じられないよ。僕らの集落には、もう何年も前から、女の赤ちゃんは生まれていないんだ」
そう言ってから、ラズリィはいったん話すのをやめた。
ラズリィが一方的に話している最中、こちらを伺うように何度か視線をやってくれていた少女だったが、さすがにわからない言葉を聞き続けることに辟易したのか、すっかりうつむいてしまい、もう目も合わせてくれなくなっていた。
「ごめん……。ずっとわけの分からないことばかり言って。僕、一人でうるさいよね」
ラズリィは、想像以上に手ごたえが得られなかったことに虚しさを覚え、一瞬めげそうになった。
しかし、繊細な見た目とは違い、切り替えと立ち直りだけは早いのも、ラズリィの持ち味だった。
「じゃあ、これなら知ってる?」
彼は自身の胸に手を当ててゆっくり呼吸を整えると、高らかな声でいきなり歌い始めた。ずっと反応の薄かった少女もこれには驚いて、何事かとラズリィを注視した。
歌を歌うときのラズリィの声は、普段の地声よりもさらに高くなり、そして伸びやかでよく通った。それこそ、男性よりはむしろ女性に近い声質になる。
本人には自身の声質が特殊であるという自覚はなかったが、ようするに、歌を歌うのにさほど違和感のない、耳に心地の良い声の持ち主なのだ。
歌を聴いて少女の目の輝きが変わったことは、ラズリィにもすぐにわかった。彼女の関心を引けたことが嬉しくて、ラズリィは思わず歌うのをやめて話しかけていた。
「歌は好き? これ、マザー……僕の母から教わった歌なんだ。たぶん、外の世界の歌だと思う」
すると、つい先ほどまで暗い表情をしていたのが嘘のように、少女は興奮気味に、ラズリィに何かをしきりに話しかけてきた。
しかし、言葉ではやはりどうやっても伝わらないと悟ったのか、ひとまず話すことをやめて、代わりに彼女も歌い始めた。ラズリィが先ほど歌ったものと同じ旋律だった。
「それ……さっきの歌の続きだ!」
ラズリィは思わず手を叩いて喜んだ。
少女はあまり歌い慣れてはいないようで、遠慮がちな声ではあったが、きちんと最後まで歌いきった。
彼らが初めて心を通わせた瞬間だった。ラズリィは嬉しくて仕方なかった。
「この歌はマザーしか知らない歌なんだ。教えてもらった僕とハービー以外、この集落では誰も知らない。でも、君はこの歌を知ってるんだね。やっぱり、君はマザーと同じ場所からやってきた人なんだ。きっと、そこが外の世界なんだ!」
あまりにもラズリィがはしゃぐので、少女もいつの間にか笑顔になっていた。
少女が笑うのを見て、ラズリィはよりいっそうの親しみを覚え、彼女のことを心から可愛いと思った。