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アルーシュの歌姫 ~洞窟世界の住人たち~  作者: ゴリエ
第二章 歌姫と守護者
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古よりの使者

 ラズリィは、エーデルのいるいつもの奥地へと無理やり連れて来られていた。

 今日は暇を出されていたはずだったのに、結局一日もあけることなく、エーデルと顔を突き合わせることになった。


 ずっと暴れて抵抗し続けていたラズリィは、エーデルの元に来たときには、すでに体力が底を尽いており、それでも腕の拘束は解かれることのないまま、地に膝をついてうなだれていた。

 対するエーデルはとても涼やかな表情で、自分の前でかしずくように膝を折るラズリィを見下ろしていた。


「まあ、その唇の傷どうしたの? とても痛そう」


 まず第一声がそれだった。ラズリィが答えずにいると、エーデルは彼の返答を待たずして、たおやかな笑みを浮かべたままで言った。


「さぞ楽しい休暇を過ごせたようで、何よりだわ。でも、少し羽目をはずしすぎてしまったのかしら。あなたもフィンも」

「誤解だよ、エーデル。フィンは、何も悪くない……」


 叫び疲れて、かすれた声でラズリィが答えた。


「僕が一方的に彼女を襲ったんだ。それにはいろいろ理由があって――」

「報告では、フィンがあなたを誘惑したと聞いているけれど。近くに使用済みの、誘惑の術の歌箱が落ちていたと」

「違うよ。むしろ、フィンは僕を助けてくれたんだ」


 エーデルはしばらくラズリィを見てから、口元に少し困ったような笑みを浮かべた。


「おかしいわね。フィン自身は、間違いなく自分がラズリィを計画的にかどわかした上に、薬で眠らせて寝込みを襲ったと、自白しているのだけれど……」

「どうしてそんな嘘を……!」


 言いかけて、ラズリィの中で一つの考えが浮かんだ。


(そうか。僕と、僕を襲ったゲルダの女たちのことを、かばおうとしているんだ……)


 すべての罪を自分一人でひきかぶる気でいるフィンのことを思い、なんとも彼女らしい人の良さを感じたが、ラズリィはそれをまったく嬉しいとは思わなかったし、称賛する気にもなれなかった。むしろ非常に不愉快だ。フィンは、ラズリィが共犯者でいることすら、認めてはくれなかったのだから。


 ラズリィは、フィンが助かるなら他の人間がどうなろうと構わないと考え、事の経緯を洗いざらいすべてエーデルに明かしていた。

 そして、フィンをそそのかし、手籠めにしようとしたのは紛れもなく自分のほうなのだということも、はっきりと主張した。


 それを聞いていた周囲の女たちが、不穏な様子でざわつき始めた。

 その中でエーデルだけが、唐突に高らかな声をあげて笑い出したので、喧噪としていた場は、かえってしんと静まり返っていた。


「ああ、おかしい。あなたたちは、まるで見せつけてくるように互いをかばい合うのね」

「いや、だから誤解だと――」

「そうね、もし仮にラズリィの言ったことが正しいのだとしても、フィンを釈放してあげることはできないの」

「……どうして?」

「誰がどんな申し開きをしようと、何が真実かなんて、結局はその場にいた者にしかわからないからよ。――ラズリィ、あなたも故郷で嫌疑をかけられたとき、あなたの無実を証明することなど一切できなかったからこそ、今こうしてここにいるのではない?」


 そう言われると、何も言い返すことはできなかった。どうすればこの手ごわい少女を説き伏せることができるのか、まるで考えつかない。

 ラズリィが悔しそうに歯噛みする様を見て、エーデルはころころと品よく笑っていた。自分の手のひらで意のままにラズリィを転がすことを、楽しむように。


「この狭い大空洞の中ではね、疑わしきものは、何であろうと取り除くしかないの。そうしないと、秩序を保っていられないのよ。でもラズリィ、安心していいわ。あなたが罰せられることだけは、絶対にないから」


 柔和な微笑をたずさえて、エーデルははっきりとそう告げた。

 そして彼女は周囲の女たちに、この場から今すぐに退去するよう命じた。

 すると、あれだけラズリィが抵抗し続けても敵わなかった女たちが、エーデルのたった一言であっさりと身を引き始め、全員がこの奥地を去っていった。


 こんな非常時ですらもエーデルに従順な女たちに、さすがのラズリィも気味の悪さを感じた。

 訝しむラズリィに、エーデルは邪気のない笑みを向けた。


「やっと二人きりになれたわね。私、人が大勢いるのって苦手なのよ。雑音が多くて落ち着かないんですもの。でも、これでいつものように、あなたとゆっくり話ができるわ。ここは私たち夫婦の神聖なねや、他人が踏み込んできていい場所じゃないのよ」


 エーデルの「夫婦」という言葉に、ラズリィはこれほど違和感を覚えたことはなかった。

 エーデルはさらにラズリィに近づくと、ゆっくりと彼の前にかがみこんでいた。


「ねえ、そんなことよりもどうだった? 昨夜の私の贈り物は」

「贈り物……?」

「あなたが見た夢のことよ。夫婦の営みがどういうものかを知ってもらいたくて、私があなたに見せたの。奥底で眠っている潜在意識を呼び起こしてね。ラズリィが選んだお相手は誰だったのかしら? ふふふ、気になるわ。私でないことは確かなのよね。もし私が選ばれていれば、その夢を共有できたはずですもの。一人寂しく捨て置かれ、夜な夜な涙で枕を濡らすこともなかった」

「そうか……! 僕にあの夢を見せたのは君だったのか。……ずいぶんと悪趣味なことをするんだね。君がそんな人だとは思わなかったよ」


 ラズリィが強い口調でエーデルを非難したので、彼女もまた負けじと応戦した。


「あら、幻滅した? まだあなたが私に幻滅する要素が残っていたのね。もうとっくに嫌われきっていると思っていたわ。挽回の機会をみすみす逃してしまったかしら。でもあの夢のおかげで、無自覚だった気持ちに気づくことができたでしょう。――フィンなのね? あなたの心の中にいるのは、最初から」


 ラズリィはあえて質問に答えず、エーデルもまたいちいち確かめてくることはしなかった。


「フィン――あの子、とても良い子でしょう? あの子の魅力にいち早く気づくだなんて、ラズリィってば、意外と女を見る目があったのね」


 まるで、わざと煽るように茶化してくるエーデルの扱いに困り始めたラズリィは、話をどうにか本筋に戻そうと努めた。


「何度も言っているけど、フィンは本当に無実だよ。むしろ、今回の件で一番の被害者だと言ってもいい。彼女は僕の身勝手な欲のために、ただ巻き込まれただけなんだ」

「ええ、そうでしょうね。少なくともあの子には、私からラズリィを奪い取ろうだなんて気持ちは、はなから微塵もないと思うわ」

「だったら……!」

「ねえ、ラズリィ。お忘れかしら? フィンは私のゲルダなのよ」


 エーデルは深い青の瞳の中に、静かに滾る炎を宿していた。


「あなただけがフィンのことを想っているとでも? 私はこれでも、あなたなんかよりずっと先に、あの子を見出しあの子を選んでいる。誰かに奪われるくらいなら、いっそ完全に私のものにしてしまっても構わないのよ。それも永久にね」


 ぞっとするほど冷たい声音で、エーデルは恐ろしいことを口にした。


「高位の歌姫には、歌で魂を肉体から抜き取ることができるの。抜き取った魂は、どう扱おうと歌姫の自由よ。その気になれば、半永久的にそばに置いておくことだってできる。不完全な肉の入れ物に入れておくよりも、そのほうがよほど美しく清らかな状態で保たれるはずよ」


 エーデルはうっとりしながら、細い指先でラズリィにもわかるように、魂の形をかたどってみせた。


「私はそのほうが、フィンとずっと一緒にいられて幸せだけれど、魂が離れれば肉体は滅びるしかなくなるから、それは死とほとんど同義であると誰もが考えるでしょうね。――それならいっそのこと、フィンを処刑するということにして、見せしめとして御魂抜みたまぬきの儀を行うのも良いかと思っているの。

今後、またラズリィを襲おうとするゲルダが他に現れないとも限らないし、確かな抑止力になるはずだわ。フィンのような、ゲルダの中でも英雄的な存在である者が処刑されたとなれば、さぞセノーテホールは震撼するでしょうね。ますます歌姫とゲルダの溝も深くなるかしら。でも、それがきっかけで小さな反乱一つでも起きてくれれば、それこそ増えすぎたゲルダを減らす粛清の口実にもなるし、良いことずくめだと思わない?」

「エーデル……どうしちゃったの……?」


 過激な言動を繰り返すエーデルを、さすがのラズリィも案じずにはいられなくなっていた。

 しかし、エーデルは自暴自棄になったわけでも、冷静な思考を欠いているわけでもなかった。彼女はとうに腹をくくっていたのかもしれない。


「私はもともとこういう性格よ。別に、後世に名君として名を残したいわけでもないし」


 エーデルは潔いまでにあっさりとしたものだった。


「私、たとえラズリィとフィンがどうにかなってしまったとしても、別にそれでも良いと思っていたのよ。ラズリィだって、初めての相手くらいは好きな女がいいでしょう? 最初の相手が誰であろうと、最後にこの私を選んでくれるなら、それで構わないと思っていたの。――さすがに、フィンに子供を産ませてあげることはできないけれど。

……でも、あなたたちのことがここまで大々的に知れ渡ってしまった以上、もうフィンを助けてあげることは不可能よ。残念だけれど、あなたたち二人のどちらかを悪者にして処罰してしまわない限り、もう収集はつかないわ」


 この若さで集落を統治する者としての、重みのある言葉だった。


「私ね、初めはラズリィに好かれたいと思って、私なりにいろいろ考えていたのよ。でも、それももうやめることにするわね。だってどうがんばっても、結局私は嫌われることしかできないんですもの。それなら何をどうしたって同じことだわ。――それにね、いくらあなたが私のことを嫌いになっても、あなたはずっと私のものなの。たとえ、あなたの大切な人を私がすべて殺すことになったとしても、あなたは私から逃れられない」


 エーデルの言葉にラズリィは目の色を変えた。とても聞き流すことなどできなかった。


「……ちょっと、待って。大切な人をすべてって、どういうこと……? ねえ、エーデル。どういうことだよ」


 唇をわななかせ、そうであってほしくないと祈る気持ちで、ラズリィは恐る恐る顔を上げた。エーデルは冷ややかな目をしたまま、口元だけで笑っていた。


「こういうときには、あなたは察しがよくて助かるわ」

「そんな――そん、な……」

「私が気づいていないとでも思った? ハーベルトが複数の出口のルートを調べてまわっていたことくらい、もうずっと前から知っていたわ。今まで何も咎めずにいたのは、それがとるに足らない――まったく脅威に値しないことだと判断していたからよ。それでも目の端を飛び回る羽虫のように目障りなことに変わりないから、鎖につないで自由を奪い、休むことなく毎日子種だけをひり出させて、用が済んだらすぐにでも処刑することだってできるわね」

「そんなことをしたら、僕は一生君を許さない」


 ラズリィはあまりの理不尽さに怒りがこみ上げてきて、拳を震えるほど強く握りしめた。

 エーデルはそんな彼をただ静かに見下ろして、淡々とした口調で語った。


「少し、私の話をしましょうか。私の初恋の人は、私の父親だった人よ。外界で学者のような仕事をしていたらしくて、とても博識だったわ。大空洞の言葉も独学で勉強して、私が物心ついた頃には、日常会話くらいは難なくできていた。頭が良い上に、誰よりも情に厚くて素敵な人だったのよ。子供ながらに、一人の女としてその人のことが大好きだったわ。でも私が八つのときに、先代のプリマ・ソリストだった母の命によって殺されたの」


 何の感情もこもっていないような話しぶりだった。


「セノーテホールで捕らえられた男にしては、かなり長く生かされた事例だと思うわ。母も苦渋の決断だったのでしょうけれど……私は心底母を憎んだ。けれどもね、最近になって、母の気持ちが少しわかるようになってきたの。たぶん一番辛かったのは、誰でもない母自身だったのよ。そのことを証明するみたいに、母は心を病み、みるみるうちに衰弱して、結局彼女も若くして亡くなってしまった」

「そんな負の連鎖、いつまでも続けていてはだめだ!」


 ラズリィが叫ぶと、エーデルはまるで、地の底を這う蛇のように毒々しい視線でラズリィを射抜いていた。


「じゃあ、あなたがそれを断ち切ってよ。私たちにかけられた呪いを解いてちょうだい」

「ああ、きっと解いてみせる」

「どうやって? たかだか少し歌が歌えるだけのあなたに、いったい何ができるの? 何の力もないくせに、無責任に軽口を叩かないで。私、あなたのそういう根拠のない自信ばかりが先に出てくるところ、本当に虫唾が走るのよ」


 心底毛嫌いした様子で、蔑む眼差しを向けてくる。ラズリィは、エーデルのそんな目を見るのは初めてだった。

 しばらくの沈黙のあと、彼女は同じ人物とは思えないほど一変して、とても穏やかな表情になり変わっていた。


「どうせ私の大切な人は、私の前からいなくなる。いつもそう。……でもね、やっと失くさなくてもいい人に出会えた。それがあなたなのよ、ラズリィ。あなたはセノーテホールに来た、今までのどんな男たちとも違う。もちろん私の父とも。

あなたは男でありながら、その身の神聖さをあらわす歌姫なの。あなたと初めて会ってその声を聞いたとき、思わず我が耳を疑ったわ。そしてその事実を確信すると、私は驚愕と歓喜に打ち震えた。まるで、歌姫が繁栄を極めていた頃の黄金時代より使わされた、いにしえの使者だとさえ思ったわ。あなた以上に神聖で尊い男なんて、他にいないわ。あなたは殺さないでいられる。どれだけ私を憎んだって構わないから、あなただけはずっと私のそばにいてちょうだい、ラズリィ」


 エーデルの狂気を孕んだ瞳は、恐ろしいまでに青く美しく澄んでいた。彼女が偽りなく本心からそう告げているのだと、疑う余地もないほどに。


 今までのやりとりがすべて嘘であったかのように、エーデルはもうすっかりいつもの朗らかな笑顔を取り戻していた。


「さあ、今日はもうお帰りなさい。この混乱が落ち着いたら、次こそはあなたを思う存分可愛がってあげるから。今まで抱いてこなかった分も取り戻さないとね。泣いて暴れたって、絶対許してなんてあげないわ。楽しみにしていてね、ラズリィ」

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