罪の代償
「さあ、早くさっきの続きをしよう、フィン。僕もう待ちきれないよ」
フィンに驚く暇も与えず、ラズリィは性急に彼女の唇に吸いついていた。
何が起きているのかわからなかったフィンも、さすがにこうまでされては、ただ身を任せているわけにはいかなかった。
「や、やめろ、何を……っ」
「どうして嫌がるの? 君のほうから誘ってきたくせに」
「はあ? 寝ぼけたことを――」
フィンの制止を要求する声にはまったく耳を貸さず、ラズリィは暴れる彼女を抑え込みながら、余計な言葉を封じるように唇を求め続けた。口内に舌を割り込ませ、熱心に絡める。呼吸すら許さない強引さだった。
普段の穏やかなラズリィからは想像もできないほどの豹変ぶりに、フィンはこれが現実のことだとはにわかに信じがたく、ひどく狼狽した。暴走するラズリィが恐ろしくなり、とっさに彼の唇に噛みついて、相手が怯んだその隙をついて、思いきり腹部を蹴り上げていた。
「ぐっ……!」
「――いい加減にしろ! やめろと言っているのがわからないのか!」
必死に抵抗したので、勢いあまって逆上していた。フィンは肩で息をし、今までにないくらいの怒りを込めて、ラズリィのことを睨み据えた。
痛みの衝撃でようやく正気を取り戻したラズリィは、目を瞬かせただ呆けていた。
「ぼ、僕……いったい何を……」
まだ自分を最大限警戒しているフィンを見て、ラズリィは、自分が何をしでかしたのかを遅まきながらに理解した。
「ごっ……ごめんよ、フィン! 本当にごめん! 僕、君になんてことを――」
「……もう、いい。正気に戻ったんならいいんだ。お前は誘惑の術に惑わされていたんだろう。仕方ない、俺もうかつだった」
そう言われても、乱れた髪と衣服を整え始めるフィンを見て、ラズリィは平気でいられるはずなどなかった。
昨夜の夢の続きと勘違いして、あろうことか、現実の彼女までも自分の慰みものにしようとしてしまったのだ。後悔してもしきれなかった。
自分を恐れて見つめるフィンの目が、いまだ脳裏に焼きついて離れない。正直、怒られることよりその目が一番こたえた。
「フィン、大丈夫? どこか痛んだり、怪我したところは……」
「平気だ、なんともないよ」
「でも、唇に血が……」
「俺の怪我じゃない。お前の血がついたんだろう」
「え? あ――そ、そうか……」
ラズリィは自身の唇を拭い、そこで初めて、噛み切られた創部から出血していることに気がついた。
フィンは呆れたような、安堵のような息を吐く。
「もう気にするな。怪我を心配するなら、お前のほうがよほど負傷している。お前は正気じゃなかったんだ。今日のことは俺も忘れるから、お前も綺麗さっぱり忘れろ。いいな」
一切尾を引いていない素振りを見せるフィンに、ラズリィはかえって戸惑いを覚えた。こんなことが起きて、フィンも本当は、平気なはずがない。今の言葉は彼女のこれ以上ない譲歩であり、優しさなのだとラズリィにも十分伝わった。
しかし、それと同時に、とても聞き入れられない忠告だとも思った。
「忘れるなんて、できるわけない……」
堰を切ったように、フィンへの想いがとめどなくあふれ始める。
「たしかに僕は正気じゃなかったよ。でも相手がフィンじゃなくて、誰か別の女の人だったら、あんなにまで自分を見失ったりしなかった。やっぱり、僕はフィンが好きだ。どうしようもないくらい好きなんだよ。……これは言わないでおこうと思っていたんだけど……僕は夢では、もうとっくに君を抱いている。
自分でも本当に馬鹿で情けない話だけど、さっきのことが昨夜の夢の続きだと錯覚してしまった。言い訳と思われても仕方ないし、心の底から軽蔑してくれて構わない。だけど、僕はもう、フィン以外の女の子じゃだめなんだ。君とのことは、どんな些細なことでも忘れるなんてできないよ」
「ど……どさくさに紛れて、何てことを口走ってるんだ……」
ラズリィの唐突な告白を受けて、フィンが耳まで真っ赤に染めていた。
彼女はしばらく、ラズリィのあけすけすぎる物言いを、思いつく限りの言葉でなじっていた。――が、ふと顔を上げて、何かに思い当たった様子でラズリィを見つめた。
「まさか、お前も昨夜、あの夢を……?」
「あの夢……?」
「あ……――い、いや、何でもない! 今のは無しだ!」
慌てふためくフィンを見て、「何でもない」ということは決してなさそうだと、ラズリィは拭えない違和感を覚えた。
「待ってよ、フィン。もしかして…………フィンも昨夜、夢を見たの?」
ラズリィは、自分の中に浮かんだある一つの考えを、初めはばかばかしいと思っていた。しかし、口を滑らせたらしいフィンの尋常でない様子を見ると、完全に否定もできないと考えた。それどころか、少しずつ確信に近いものすら抱き始めている。
意地悪な気もしたが、少しかまをかけてみることにした。
「フィン、もしかして、あのとき痛かったの? 泣いていたものね。ごめんよ、僕はただ無我夢中で……」
「し、知らないっ! 何のことだ、俺は何も知らない!」
口ではそう言い張りつつも、さらに顔を赤くしてどうにもならない状態に陥っているフィンを見て、ラズリィはついに答えにたどり着いていた。
「……やっぱり。フィンもあの夢を見たんだね。驚いた……。僕たちは、夢を共有していたってことなのかな」
「な、何が『驚いた』だ。白々しい。お前が俺に見せたんだろう、あんな最低最悪な夢っ……!」
「いや、そんなはずは……。僕も実際、どうしてあんな夢を見たのか、ちっともわからないんだ」
こんなことを真面目に話し合うのは無性に恥ずかしかったが、ラズリィ以上にフィンが心配になるほど取り乱していたので、ラズリィ自身はかえって冷静でいることができた。
「どうしてあんな夢を見たかはわからないけど……。でも、あのときのフィンは本当に可愛くて。君って、普段は男っぽいけど、夢の中では意外と――」
「頼むからやめてくれ、それ以上は本当に……」
真っ赤に染まった耳を塞ぎ、うつむいて今にもくずおれてしまいそうな様子で懇願するフィンに、ラズリィはふと、自分でも信じられないような悪趣味な感情が湧き上がるのを感じた。
「あの夢のことを僕に知られたのが、そんなに恥ずかしい? ねえ、フィン。どうしてあの夢の中で、君はおとなしく僕に抱かれたの? てっきり僕は、あの夢が自分の都合の良い妄想だとばかり思っていたんだよ。でもあれは、妄想でもなんでもなくて、驚いたことに君自身だったってことだよね? 嫌ならさっきみたいに抵抗すればよかったじゃないか。なのに、それどころか君は自分から僕にキスを……」
「だ、黙れ! それ以上余計なことを喋り続けたら、今度は腹じゃなくて、お前の股ぐらを蹴り上げる!」
ものすごい剣幕で怒鳴られて、ラズリィは思わずその舌を引っ込めた。少々やりすぎてしまったようだ。
ついにフィンが涙をこぼして泣きだしてしまったので、今度はラズリィが慌てふためく番だった。
「ご、ごめんよ、フィン――」
「どうして……俺の逃げ場をどんどんなくすようなことばかり言うんだ、お前は。追い詰められるこっちの身にもなってみろ。いつも自分ばかりが苦しんでるような顔をして。俺が必死に守ろうとしているものを、次から次へと奪っていく。なのに、お前はそれに気づきもしないんだ。耐えているのは自分だけだと、当然のように思い込んでいる」
「え……? フィン、それって――」
ラズリィの問いかけに、フィンが律儀に答えることはなかった。その代わりに、彼女が今泣いていることがすべての答えなのだと、ラズリィはようやく悟った。
いつもの毅然とした風格が、跡形もなく消え失せてしまった細い肩をそろそろと抱きしめてみる。先ほどのような激しい抵抗には、もうあわなかった。
胸の高鳴りが抑えられない。フィンの温かな体熱を全身で受け止められるこの時を、何よりも尊く感じていた。
夢の中のように激しく衝動的な欲求ではなく、それとは相対するとても穏やかな気持ちだった。
ただフィンのことが愛おしく、彼女にもっと触れたい――キスをしたいと思った。
「ねえ、フィン。唇を怪我したんだ。なめてくれる?」
「な……何を……」
「君が噛んだんだから、君が手当てしてよ」
フィンは一瞬、いつもの刃向かってくるような表情を見せたが、しかしそれはすぐにも影をひそめ、躊躇いがちに目を伏せた。それでも熱心に自分を見つめ続けるラズリィを無下にもできず、戸惑いながらも、フィンはついにラズリィの要求を呑んでいた。
彼女の震える唇がラズリィにかすったところで、ラズリィがすかさず捕らえて優しく吸い上げた。
フィンは羞恥から唇を離して逃れようとしたが、今度は口元からするりと首筋へ、ひたむきな愛撫を受けることになった。
目まぐるしく降り注ぐ新たな感覚に次々と翻弄され、何も考えられなくなりそうだった。奇妙な浮遊感に身を任せることの心地良さと、とんでもないことをしてしまっているという罪悪感が交互に押し寄せ、そのすべてをひっくるめて、脳が勝手に快感へと作り変えていく。
目の端で涙をこぼすフィンに気づき、ラズリィはとっさに彼女への行為を中断していた。
「フィン……?」
「こんなこと、いけない……絶対許されることじゃないのに……」
フィンがまるで何かを諦めるように、嗚咽混じりにつぶやいた。
「どうしてこんなに幸せなんだ……」
「僕もだ」
互いに額を擦り付け、どちらからともなく、もう一度口づけを交わした。
――そのとき。
「あなたたち……そこで何してるの?」
突如自分たち以外の者の声を聞いて、ラズリィとフィンは途端に現実へと引き戻されていた。
二人の前に現れたのは、先ほどまでラズリィを連れ回していた女。必死でラズリィを探し回ったようで、髪も息も気の毒なほど乱れている。
彼女はラズリィとフィンの二人を交互に見やると、血相を変えてわななき始めた。
「なんという……恐ろしい……恐ろしいことを……!」
「ち、違うんです、これは――」
ラズリィの弁解にもまったく耳を貸せないほどパニックに陥っていた女性は、その場で半狂乱になって叫んでいた。
「大変よ、誰か来て! ラズリィ様がゲルダに襲われているの!」
すぐに大勢の女たちが、この天幕内に詰めかけた。
ものすごい数の女たちの手により、彼ら二人はあっけなく引き離されていた。
ラズリィは最後まで連行されることに抗い続け、フィンの無実を声高に訴えたが、フィンのほうは捕まったときから抵抗一つ見せることなく、おとなしく拘束されていた。
彼女はその後も、一言も弁解することはなかった。