誘惑
セノーテホールはいつも通りの朝を迎えていた。
歌姫による朝の歌――始まりの歌が集落に響き渡ると、かがり火や燭台の灯りが次々とひとりでに灯り始めた。
ラズリィは真夜中に目を覚ましてから、結局一睡もできなかった。
世話係の者が運んできた湯で、彼は朝の湯浴びを行った。
ラズリィの世話係兼見張り番は日ごとに変わるので、そのたびに彼は彼女たちの好奇の視線にさらされ続けていた。湯浴びのときには特に、直接覗かれることはさすがにないものの、隔てた一枚の薄い布越しに、女たちの絡みつくような視線を感じることが多く、ラズリィは一日のうちで、湯浴びが一番嫌な時間だった。
しかし、今日ばかりは一刻も早く汗を洗い流してしまいたかったので、見張りの女が湯を持ってきてくれるのを待ち遠しく思っていた。
身体の汚れは落とすことができても、一度知ってしまった心の穢れは二度と落ちないのだということを、ラズリィはこのときに悟った。あれはすべてただの夢だったはずなのに、夢の中で味わった感覚が、まだ彼の身体に強烈に染み込んでいた。
あんな夢を見たことが、心底不思議でならない。あれが生殖行為なのだと、誰に教わるでもなくいつの間にか受け入れている自分に対しても、同じことが言えた。
フィンのことは純粋に好きだったが、だからといって、彼女と即座にそうなりたいと願い、あの夢にいたるようになるまでには、自分には絶対的に知識が足りなかったはずなのだ。それなのに――。
誰かに相談してはどうかと一瞬考えたが、夢の内容が内容だけに、やはり誰にも話すことなどできないと思い直した。特にフィンにだけは、絶対に知られるわけにはいかない。
ラズリィは、一人で思い悩むことにほとほと疲れきっていた。そうでなくても、気がかりなことは他にも山ほどあるのだ。
湯浴びを済ませたあとは朝食だが、食卓についても、ラズリィはまだ魂が抜けたようにぼんやりとしたままで、食はなかなか進まなかった。
そこへ女の兵士が一人この天幕を訪れて、ラズリィにこう告げた。
「エーデル様より、本日はラズリィ様に休暇をお与えになるとのお達しがありました。付き人が同行すれば、ホール内を自由に行動しても良いそうです」
「エーデルが休暇を、僕に……?」
こんなことは、ラズリィがセノーテホールに来て以来初めてのことだった。それまでは毎日あの奥地に呼ばれ、エーデルに歌の指導を受けていた。彼女と相対しない日など、ただの一度たりともなかったというのに。
(そういえば、昨日はエーデルとも気まずくなったんだっけ。やっぱり、怒ってるんだろうか)
男の赤子が生まれたら殺すのか、と問い詰めたときに、沈黙を守ったエーデルだった。あの様子だと、彼女にも何か言い分はあったのだろうし、それを聞かずに、一方的に責めてしまったのはよくなかったかもしれないと、今になって反省した。
ひとまず、最近の自分には反省すべき点が多すぎるということも、ラズリィの心持ちをまた重くしていた。
次にエーデルに会うときには、謝らなくてはならない。
(とりあえず、せっかく自由時間ができたんだ。今日は僕も、セノーテホールの中を探検してみよう。少しでも良い脱出ルートを見つけられるように)
そう考えていたラズリィだったが、いざ外に出てみれば、まったくそんなことができる雰囲気ではなく、心底がっかりしていた。
休暇中にラズリィの付き人に任じられたのは、やたらとよく喋る年かさの女だった。ラズリィの一番苦手なタイプだ。むき出しの俗嗜好を隠すこともなく、いろいろと嗅ぎまわったり、知りえた話を噂の種にすることを至高の喜びとしているような人種だった。決して悪気がなさそうなところも、またやっかいだった。
それでも彼女は人当たりだけはすこぶる良く、それゆえ下手に無下にもできず、余計にラズリィの心身を摩耗させていった。
彼女はホール内のあらゆる華やかな場所へと、ラズリィを強引に引っ張り回した。
とても探索どころではなく、結局ラズリィが望むところには、一つも足を運ぶことができなかった。
「エーデル様の夫君とはいえ、こんなに若くて麗しい殿方と一緒に外を歩ける日が来るだなんて、私もとんだ役得者だわ」
そう言われて、ラズリィは苦笑いを浮かべることしかできなかった。こんなことなら、エーデルに歌を教わっているほうがずっと良かった。
市場や様々な演芸を披露する広場、そして、人々が祈りを捧げるための女神の泉――など、ありとあらゆる華やかな主要地に連れていかれた。
どこも物珍しく興味をそそられる場所ではあったが、その中でも特に女神の泉は素晴らしかった。とてつもなく広大な儀式場で、その水は青く透き通って美しく、非常に神秘的な場所だった。聖地についてよく知りえないラズリィなどは、フィンと出会ったツチボタルの泉のことを連想していたが、それでも、土地として力を秘めているのは、こちらが格段に上のような気がした。
重要な祭儀などは、いつもこの泉のほとりで執り行われているということだった。
散々連れ回されたあげく、最終的には喉が渇いたと言われて、ラズリィは飲食のできる天幕へと引き入れられていた。
正直もうくたくただった。身体の疲労よりも、親しくもない女に終始話しかけられ続けたことのほうが響いた。
席について出された果汁飲料を一口飲むと、わずかでも疲れが癒された。
よほど気疲れしていたのか、少しまどろむような感覚に襲われ、次第にラズリィはその場で意識を失っていたのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
胸元をくすぐられているような感触がして、朦朧とした意識の中で目を覚ます。目の前には見知らぬ女が自分に覆いかぶさり、ラズリィの衣服を今まさにはだけさせようとしていた。
何が起こっているのかわからなかった。ラズリィはいつの間にか、自分のものではないどこか別の閨の寝台に寝かされていた。
声を出そうにも、身じろぎしようにも、一向に思う通りにいかない。どうやら口は布で塞がれ、両手足は寝台の柱にくくりつけられているようだった。
圧し掛かっていた女が、ラズリィが目を覚ましたことに気づいて、その場から飛び退いていた。
「何してる、早く服を脱がしな。連れの女が起きないうちに、さっさと済ませるんだよ」
「で、でも姐さん、この男、起きて……っ」
「何だ。もうお目覚めかい、坊や。仕方ないね」
そばにいたもう一人の女が舌打ちをして、動けないラズリィの顎をくいと持ち上げた。
「お前たち、顔を見られないようにしっかり布を巻きな」
一人の指示のもと、その場にいた女たちが、すぐさま巻き布で自分たちの顔を覆った。この場には、三人の女たちがいるようだ。
「坊や、何も怖がることはないからね。良い気分にさせてやるよ」
リーダー格の女が、手に持っていた小箱をラズリィに向けて開けた。小箱の中身は空だったが、不思議なことに、その中から歌が流れ聴こえてきた。とても美しい歌声だった。その歌を聴くと、ラズリィはまた意識が遠のいていった。
声も出せず体の自由も奪われて、この上ない恐怖を感じていたはずなのに、不思議とそんなことはすぐにどうでもよくなっていた。
「ラズリィ」
フィンの声がした。目の前にはいつの間にかフィンがいて、この場には自分と彼女しかいなくなっていた。
フィンは妖艶に微笑むと、身動きのとれないラズリィに覆いかぶさり、はだけられた首筋にそっと唇を這わせた。触れられた箇所が、熱を持ってうずきはじめる。
(あれ……これは、昨夜の夢の続き? それとも……)
眼前の閃光感が拭えず、ラズリィは眩しさに目を細めた。相変わらず意識もおぼろげのままだ。
しかし、身体は妙な浮遊感にどんどん侵されていき、考えるのがどうでもよくなってしまうくらい非常に心地良かった。
(夢かどうかなんて、どっちでもいいや。フィンが僕を愛してくれさえすれば、それで……)
ラズリィがそのまま身を委ねかけた――そのとき。
「大丈夫か、ラズリィ!」
突然思いきり身体を揺さぶられ、ラズリィは前後不覚に陥ったような感覚に苛まれた。
目の前には相変わらずフィンがいたが、なぜか彼女は、急に血相を変えてラズリィの両肩を力強く掴んでいた。
「どうしたの、フィン……?」
「どうしたの、じゃない! まったく、何てことだ。あとをつけてきて正解だった。まさか、こんな事態になっているとは」
「どうしてやめちゃうの……? 早く続きをしようよ」
「はぁ? 何をわけのわからないことを。お前は、辱めを受けるところだったんだぞ!」
フィンが精一杯声を荒げようとも、ラズリィはまだ反応が鈍くぼんやりとしたままだ。彼女はそれに苛立ち、もうラズリィに話しかけるのはやめていた。
代わりに今度は、その場にいた女たちのほうに鋭い視線を向ける。
「お前たち、血迷ったか。なぜこんなことをした」
「――だって。こうでもしなきゃ、あたしたちは永久に子供が持てないじゃないか」
リーダー格の女が答えた。
「あたしたちは、生半可な気持ちでこんなことをしたんじゃないよ。全部覚悟の上で、ここにこうしている。罰せられたって構わない。エーデル様があたしたちを殺すことで、ますますゲルダの間で反発が広がるだけなんだから」
女はフィンを恐れるどころか、口元に不敵な薄ら笑みさえ浮かべていた。
「どうしてゲルダってだけで、自分の子を産んじゃいけないのさ。歌姫ばかりが特権を振りかざして、私たちのことなんて同じ人間としてすら見ちゃいない。危険な任務でゲルダが何人死のうが、やつらは毛ほども気にしていない。食いぶちが減ったくらいにしか思っちゃいないんだ。何もかも不公平なことばかりじゃないか。その上、そんなやつらが産んだ子供を育てさせられるだけの人生だなんて、あたしは絶対にごめんだね。フィン様だって、本当は思うところがあるんだろう?」
女の言葉は力強く、どこか人を決起させる力がある。フィンは一瞬だけ眉をひそめ、その場で小さく息を吐いた。
「……たしかに、お前たちの不満はもっともだ。しかしエーデル様だって、何もその問題をよしとしているわけではないんだ。歌姫とゲルダの大きな溝として横たわる様々な案件については、あの方ももうずっと以前から胸を痛められ、たいそう頭を悩ませておられる。エーデル様には、私からもなんとか掛け合ってみよう。だから、もうこんな馬鹿な真似はよせ。今回だけは見逃してやるから、何も言わずにここを去るんだ」
女たちには多少不満の色がにじんでいたが、計画がすでに失敗したことはもはや明白であり、渋々フィンに従いこの天幕から立ち去っていった。
ひとまずこの場を無事に収めることができて、フィンは心の底から安堵した。
「……おい、大丈夫かラズリィ。何か薬でも盛られたか」
フィンは彼の拘束を解いていた。それでもラズリィはまだぼうっとして横たわったまま、身じろぎ一つしなかったので、フィンはいよいよ心配になって彼に手を差し伸べた。
「どうした、しっかりしろ」
すると彼女は、そのとき突如世界が反転したかのような錯覚に陥って、ラズリィを抱き起こすことに失敗していた。
フィンの背中には柔らかなシーツの感触があった。そして目の前には、フィンを見下ろしながら、彼女の肢体に折り重なっているラズリィ。
先ほどまで生気が抜けたように脱力していたはずの彼が、急に起き上がって、いつの間にかフィンを寝台に組み敷いていた。