せめて夢では
ラズリィが毎日寝起きしている天幕にたどり着くと、フィンは次の見張りに彼を託して、さっさと行ってしまった。
ラズリィが余計なことを話しかけてくる前に、すぐにでも立ち去りたい、というフィンの意思がありありと見てとれたので、ラズリィはついに彼女と仲直りできないまま別れてしまった。
夕食を済ませたあとも、フィンやハービーのことを考えては落ち込み、沈んだ気持ちのまま床に就こうとしていた。
そんなときに、思いがけない客人がラズリィの閨を訪れていた。
「ラズリィ、夜分にすまない。来てしまった」
「ハービー!」
ラズリィは心底驚いて、寝台から飛び起きた。
ハービーは供も連れずに一人で来たようで、しかも以前のような女装ではなく、先ほど見かけたときと同じ服装だった。
「大丈夫なの? こんなところに一人で来て。それも変装もなしに……」
兄に会えたことが嬉しくて、ラズリィは思わず衝動的にハービーに抱きついていた。ハービーも目を細めて、いとしげに弟を抱きしめ返す。
「心配いらない、出歩く許可は得ているよ。おそらくは、もうすっかり従順な囚人だと思われているのだろうな。短時間なら、一人で出歩くこともそう難しくはなくなった。それに今夜のお前の見張りは、私の顔見知りの歌姫だ。彼女はいつも私に甘いんだ。弟に会いたいとせがんだら、少しならと見逃してくれたよ」
それを聞いて、ラズリィは目を丸くしてハービーを見上げた。ここの女たちは男に対してかなり警戒心が強いと思っていたのに、それをハービーは、あっさり懐柔してしまったというのだから。
しかし、考えてみればさほど不思議なことでもない気がした。ハービーは男の集落にいたときから、生真面目でずるができない性格で通っていた。それは言い換えれば、誰もが彼の誠実さに信頼を寄せていたということだ。
ハービーの人柄は、きっと女たちにもすぐに伝わったのだろう。どんな形であれ、ハービーは自分を必要としている者を簡単には見捨てることのできない人間なのだ。
そんな彼の人間性が功を奏したといえばそうかもしれなかったが、ラズリィはなんとも複雑だった。
そんな弟の思いなど知らず、ハービーが興奮した様子で話し始めた。
「私が以前よりも大幅に自由がきくようになったのは、お前のおかげでもあるんだ、ラズリィ。聞いたぞ、プリマ・ソリストの歌姫に気に入られて、そばに置かれているそうじゃないか。セノーテホール一の権力者だ。私は、ここに来て最初に彼女にあてがわれたが、何か粗相をしてしまったのか、一言二言交わしただけで、すぐに送り返されてしまった。あのときは、小さな少女ながらにずいぶん気位の高い女性だと思ったが……。でもそんな彼女に、お前が私のことをいろいろと提言してくれたんだろう。最近は伽の回数も減って、うんと楽になった。本当に感謝するよ」
「いや、その、うん……」
ラズリィはなんと言って良いかわからず、歯切れの悪い返答しかできなかった。その反応に、ハービーは困ったように笑う。
「先ほどは、恥ずかしいところを見られてしまったな……。あんな行為、もう私にとってはさほど珍しいことではないし、今となっては慣れてしまったが。それでも弟のお前に見られてしまうのは、やはり辛いものがある」
慣れたなんて嘘だ、とラズリィは心中で否定したが、しかしその思いは決して口にはせず、黙ってハービーの話を聞いていた。
「私は、自分はどれだけ汚れても構わないと思っていた。だが、ラズリィを見かけたとたん、少し前の何も知らなかった自分を思い出してしまって――あの場から動けなくなった。そして、あらためて思ったんだ。お前は決して、私のようになってほしくないと。お前があのプリマ・ソリストに囲われたと聞いて、私は心の底から安堵したんだ。真っ白なお前が、大勢の女たちに穢される様なんて、私は絶対に見たくない。私の二の舞になどさせない」
「ハービーは、穢れてなんかいないよ……」
ラズリィは心から思ったことを口にした。ハービーは今も昔も変わらずに、まっすぐで綺麗な心根のままだと、言葉を交わして確信したからだ。
しかし当のハービーは、違う思いのようだった。
「そうだろうか……」
「そうだよ、以前と何も変わってなんかいない」
「いや、やはり私は――」
ハービーはうつむき、拳をかたく握りしめていた。
「……たしかに、苦痛は苦痛なんだ。自分の意にそぐわないことを強いられて、そうしなければ命はないと脅された。初めは恐怖でどうにかなりそうだったし、とにかく早く終わらせたいとばかり考えていた。――しかし、その……なんと言うべきか……。時々、苦痛だけではないこともある。そういうときは、自分が自分ではなくなってしまいそうになるんだ。正直、私はそのときが何よりも一番恐ろしい。その感覚に負けてしまうときの自分は、何よりも惰弱で、愚劣で、穢れた存在なのだと痛感する」
「そ、そんなことない! ハービーは誰よりも綺麗だよ。穢れてなんて絶対にない。だから、大丈夫だ」
ラズリィは咄嗟にそんな言葉がけをしたが、何も知らない自分がうかつに「大丈夫だ」と口にすることほど、無責任な発言もないだろう。しまったと思ったが、もう手遅れだ。
ハービーの無理をして取り繕ったような笑みを見たとき、何も言わないほうがまだいくらかマシだったとすら思ったし、きっと最低の言葉がけだったに違いない。ハービーにこんな顔をさせたかったわけではないのに。
ラズリィにはまだわからないことが多すぎて、ハービーの気持ちに寄り添えるだけの知識も経験も、何一つとして持ち合わせがない。それがとてももどかしくて悔しい。
双方気まずくなり、しばらく黙りこくっていたが、それでもせっかく与えられた貴重な面会時間だ。
気を取り直して、ラズリィが話題を変えた。
「そ、そうだ、ハービー。聞いてほしいことがあるんだ。僕ね……」
ラズリィは、これまでの出来事や、自分に歌姫の力があったことなどをかいつまんで説明した。ハービーはこれ以上ないほど驚愕していたが、しばらく考え込んで、かなり腑に落ちた部分もあったようだった。
「――そうか。マザーエレナは、よくお前に歌を聴かせ教えていたな。マザーは普通の人間だったが、お前の声が特別だということを、それとなく気づいていたのかもしれないな」
それからハービーはふと考えたのちに、意を決した様子で語った。
「ラズリィ。もしかしたら、お前は逃げずにセノーテホールでこのまま暮らしたほうがいいのかもしれない。ここの女たちは、歌姫を生ける聖者として崇めているから、歌姫のお前なら、きっと殺されはしないはずだ」
「な、何言ってるの? それじゃあ、ハービーは……?」
「私のことより自分の心配をしろ。いいか、よく考えるんだ。ここから二人で無事に逃げられたとして、そのあとたった二人だけで、どうやって大空洞の中で生きていく? 欲張って危ない賭けをするよりも、一人でも確実に助かる方法があるなら、私はラズリィにはぜひそちらを選択してもらいたい。一番最悪なのは、逃げることに失敗して、二人ともここで殺されてしまうことだ。そうなるよりは、よほど意義のある選択だと思う」
「ハービー! そんな馬鹿な話を二度と僕にしないでくれ。ハービーを見捨てるなんて、できるわけないだろう。ハービーは今でも十分、僕の代わりに犠牲になっているのに。僕は守られてばかりいることなんて、最初からちっとも望んでいない。自分が何もできないことのほうが、よっぽど辛いんだ。その上ハービーまで失ってしまったら、僕はどうやって生きていけばいいの? そんな辛い思いは絶対にごめんだよ」
ラズリィが珍しく本気で怒ったので、ハービーはとても驚いていた。
ラズリィは一歩も譲る気はないと、毅然として言った。
「絶対に、この状況からハービーを助け出すから。僕が歌姫としてもっともっと強くなれば、召喚術の力で、食料や物資の調達も可能になる。二人だけでもなんとか生きていけるよ、何も心配いらない。だから諦めないで、もう少しの辛抱だよ。僕、精一杯がんばるから」
ラズリィに励まされ、ハービーは驚きながらも、しかしすぐに朗らかな笑顔になっていた。
「驚いたな。いつの間に、そんなに大きくなったんだ。わかった、必ず二人でここを出よう。約束だ」
それからは、セノーテホールから脱出するための作戦案を互いに出し合った。セノーテホールは広場を中心に、そこからいくつもの洞道が放射状に延びている。一番大きな道は、おそらくラズリィが初めに連れて来られた、巨大な石柱がそびえ立つ入り口だった。
しかしあそこは人通りも常に多く、逃げるなら別のルートを使うべきだとハービーは言った。
ハービーは、自由に行動できる時間のあいだに多くの洞穴を見て回り、どこが出口になっていて、どれだけの警備が敷かれているのかを、密かに調べて回っていたという。その中で、一番人通りが少なく、警備が手薄な場所を探していこうというのだ。
「私のほうが今のところ自由はきく身だから、今後もより良い脱出ルートを探しておこう」
「わかった。じゃあ僕は、召喚術を使いものになるレベルにまで引き上げられるよう、修練を積んでおくよ。お互いに、早く算段がつくといいね」
「ああ、そうだな」
あまり長居をするとさすがにまずいので、そこそこ話がまとまったところで、ハービーは退散していった。
ラズリィはハービーを見送ったあと、いろいろと考え込んでしまい、今夜は眠れそうにないと思った。しかし、身体は疲れていたのか、いつの間にかまどろみ眠りに落ちていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ラズリィは夢を見た。不思議と、これは夢なのだと自覚できる、妙な夢だった。
夢の中には女性が現れた。顔は靄がかかったようにぼんやりとしていたが、よく見ると、その人物はマザーエレナだった。ラズリィが幼い頃に亡くなった彼の母親。あまりよく覚えていなかったが、ラズリィが唯一、それなりの時間を共に過ごした女性だった。
彼女は優しく微笑むと、温かな腕でラズリィを抱きしめた。ラズリィはそれが嬉しくて、童心に帰る思いで存分に甘えた。母の腕の中は柔らかく居心地が良くて、今までの嫌なことなど、何もかも全部嘘だったのではないかという気さえした。
母の顔をふと見上げると、ラズリィが抱きついていた人物は、いつの間にかフィンにすり変わっていた。
ラズリィはひどく驚き、すぐに身体を離した。またフィンに怒られるのではないかと、びくびくしながら身体を硬直させた。
しかし、予想外にもフィンは優しげな表情を携えている。彼女は何も言わずにラズリィの頬を包み込むと、自身の唇を彼にそっと重ねた。
ラズリィは、一瞬何が起こったのかわからなかった。柔らかな唇の感触や温かさだけが脳裏に焼きつき、痺れるような感覚が体中を駆け巡った。それが口づけであると頭で認識したのは、ずいぶんと時が経ってからだ。
フィンが唇を離したあとは、まるで箍が外れたように、今度はラズリィのほうが彼女の唇を何度も求めた。自分でも信じられないほど大胆な行動に出ていた。
身体は熱に浮かされる一方で、頭の中は驚くほど冷静に働いていた。
(ずいぶん五感のはっきりした夢だ。でも、これは夢には違いないんだ。それなら、夢でくらい自分の好きなようにしたい。せめて、夢の中だけでもフィンと……)
自分も口づけを交わしながら、昨夜に見たハービーと見知らぬ女性の口づけの場面を、脳内で幾度も反芻した。あのとき見た光景に感化されて、今このような夢を見ているのだとしたら、恥ずかしすぎていたたまれない。まだ子供でいることしかできない自分だからこそ、無意識のうちに、あの光景をどこかで羨ましく感じてしまったのか。
(ハービーはあの先を知っている。もう珍しくもなんともない、慣れてしまったとすら言っていた。いったいどんな感覚なんだろう)
そう思うと、無性にその先を知りたくてたまらなくなった。
目の前にはフィンがいる。彼女との口づけは、夢の中ですら至高のものだった。それとも夢だからこそそう思えるのか。とにかく、彼女ともっとその先に進んでみたいと強く思った。
ラズリィはまるで我を忘れたかのように、衝動に突き動かされるまま、フィンの衣服を剝いでいた。そして、生まれたままの姿の彼女を、夢中でくまなく愛した。蒸気した白い素肌は唇や手に吸い付くように滑らかで、ラズリィの理性を狂わすのに十分だった。
夢の中のフィンは、非常に女性的であり蠱惑的であり、そして信じられないほどに美しい。彼女は戸惑い恥じらいながらも、ほとんどラズリィのされるがままに、ついには彼を受け入れていた。
現実の彼女とはまるで違う。本物のフィンが、こんなに従順になるとはとても考えられなかった。ラズリィは、もうすっかりフィンの虜になっていた。
(知らない。こんなの知らない。なのに、どうして僕は……)
強い快感が何度もラズリィを襲った。
自分が自分ではなくなってしまいそうになる――ハービーが言っていたのはこのことだったのかと、遠のく意識の中でぼんやりと思い返していた。
ラズリィは、そこでようやく目を覚ましていた。
先ほどの心地良い夢とはあまりにも落差の激しい、猛烈な疲労と虚脱感が、一気に現実の身体に重く圧し掛かってきた。
ただ夢を見ていただけのはずなのに、自分でも驚くほど呼吸は乱れ、全身に汗をかいて気持ちが悪かった。
少ししてから頭がはっきりしてくると、ラズリィはこの上ない自己嫌悪と罪悪感、そして羞恥心に打ちのめされ、しばらく立ち直れそうになかった。