変わっても変わらないもの
ラズリィの耳には、フィンの言葉の響きが妙に残っていた。
恋仲。意味を理解することはできても、それが自分事になるとは今まで想像したこともない。
いろいろと考えを巡らせたあと、ラズリィは神妙な面持ちで話した。
「ねえ、フィン。僕ね、ゲルダの話をエーデルから聞いて、そして君がゲルダだと知って、なんだか少しほっとしたんだ。君は子供を作らなくてもいい。ハービー……ハーベルトに取られる心配はないんだってわかったから。……これってどうしてだと思う? どうして僕は、そのことで安心したんだろう?」
フィンが呆けている。いつもきりりと口の端を結ぶ、凛々しい彼女らしからぬ表情だった。
ラズリィはおや、と思いながらも、言いたいことはまだ残っていたので、そのまま喋り続けた。
「僕、子作りのためだけに自分が利用されるのは嫌だと思ってたんだけど。もし仮に、そうしなければならない相手がフィンだったとしたら、嬉しいかもって思ったんだ。まあ、そんなことは起こりえないんだろうけど。今後フィンが誰にも取られる心配がないかわりに、僕がフィンとそうなれる可能性もないってことだから」
「……正気か?」
「何が?」
きょとんとしているラズリィに向かって、フィンは鬼気迫る勢いでまくし立てた。
「自分が何を言ってるかわかってるのか? なんてことを口走ってるんだ、お前は。何か変なものでも食べたのか。おかしくなったとしか思えない」
「どうして? だって、フィンはとても魅力的だもの。僕は女の人にはまだどうしても慣れなくて、苦手意識さえ持っている。皆ギラギラしていてなんだか怖いし。でも、フィンとなら楽しく話せるんだ」
「……俺が、男のようだからだろう」
「それもあるかもしれない。少なくとも、最初のとっかかりは、それで気を張らずに済んだんだ。でも今はそれだけじゃなくて、なんとなく、僕はフィンの内面に触れて惹かれたんだと思う。なんて言ったらいいのかな。考え方とか話し方とか仕草とか……あと顔も声も、すらっとした体型も好きなんだよね。あ、これは内面じゃなくて外見か。とにかく、別に僕はおかしくなんてなってないから」
「なら馬鹿なんだ、お前はとんでもなく大馬鹿者だ」
どうにかやっと一言ひり出すと、フィンはそれからすぐに、耐えられないとばかりに顔を覆った。その様子から、どれほど動揺させてしまったかは、さすがのラズリィにも伝わっていた。
自分の言葉がどれほど強い力を持って放たれてしまったのかを、否が応でも知るはめになった。
「ごめん……。なんだか考えなしすぎたのかな、僕は」
「もう遅い。本当に聞くに堪えないから、頼むからこれ以上はやめてくれ。金輪際、そんな言葉は口にするな。……とりあえず、二人きりだったことが不幸中の幸いだ」
「ふ、不幸って……。そんなに嫌だったの? そんなに? 僕、フィンとはこれでも少しは仲良くなれたと思ってたのに……」
ラズリィは無性に悲しくなって、泣きたい気持ちになった。ここまで徹底して、拒絶されるとは思っていなかった。
そこで、エーデルの話を思い出していた。「自分は気に入っていても、相手は自分のことを何とも思っていないのは寂しい」という旨の話だった気がする。
まさにこのような気持ちのことだったのかと、ラズリィは大いに納得していた。
本当に泣きそうなラズリィを見て、さすがにフィンも気がとがめたようだった。
「別に、お前が嫌いという意味で言ったんじゃない。でも、もしさっき言ったようなことがどこかで知れたら、お前はどんな目に遭わされるか。エーデル様が、どれほどお前にご執心か知らないわけじゃないだろう。いいか、今後絶対そんなことは口にするなよ。あと、俺のことも巻き込むな。もし俺にまでとばっちりがくることになったら、死んでもお前を恨むからな」
「わかったよ……ごめん……」
相当に気落ちした様子でうなだれるラズリィを見て、フィンは少し言い過ぎたかもしれない、と自身の口の悪さを省みた。
「悪かったよ、少し言い過ぎた。気をつけてくれればそれで良いんだ。俺には応えることはできないけど、ラズリィの気持ちだけは、その……別に嫌ではなかったから」
フィンは、そのときだけは急にしおらしくなっていた。彼女の罪悪感につけこむつもりはなかったが、ラズリィには、そこでどうしても聞いてみたいことがあった。
「……ねえ。フィンは、誰か一人のためだけに歌を歌うということが、愛を囁く行為だって知っていたの?」
「え……?」
唐突に聞かれたフィンが顔を上げると、ラズリィはその返答を待たずして、さらにこうも尋ねていた。
「もし……もしもの話だよ。君とエーデルが、今とは逆の立場だったら、どうなっていたんだろう? それでもやっぱり、僕はフィンに拒絶されていたのかな」
「……どういう意味だ?」
「もしもフィンが、誰にも従わなくていいくらいの立場だったら、それでもフィンは、僕を拒んだ?」
「な、何を言って……! いい加減にしろ。これ以上くだらないことを喋るな」
「ここには知っての通り、僕と君しかいないよ。だから、フィンの本音を聞かせてほしいんだ」
「くどい! そんな愚かな質問をしてくるようなやつなら、初めから大嫌いだ!」
フィンはものすごい剣幕でラズリィを一喝すると、それ以降は、もう目を合わせてもくれなくなり、ラズリィがどれだけ謝罪しても、なだめすかしても、もう一言も口をきいてはくれなくなった。
フィンはひたすら無言でずんずんと歩き続けた。その背中からは、とてつもない怒りが伝わってくる。
(ああ……しくじった。フィンの言うとおり、僕は本物のバカだ。あれだけ注意されたのに、それでも訊かずにはいられなかった……)
きっと、自分は無自覚にフィンを傷つけてしまったのだ。一人猛省したところで、もう遅い。
やっと薄暗い回廊を抜けて、広場へとやってくる。相変わらず、天井で燃え盛る炎は明るい。行き交う人々の数も多く、喧噪と活気に満ちていた。
人の多い中でフィンに連行されていると、ふと見知った人物が、ある天幕から出てくるのが見えた。――ハービーだ。
男の集落にいた頃とは違い、彼は頭部を巻き布で覆い、色とりどりの鮮やかな衣服を重ね着ていた。その身を彩る装身具も見事なものだ。セノーテホールに来てから、少しは外見の美醜や衣服のセンスを見分ける目が培われたこともあり、ラズリィの目から見ても、ハービーはひときわ美しい青年として映った。身内びいきを抜きにしても、だ。
もうすっかり、ハービーはセノーテホールの住民の装いぶりだ。もっとも、ラズリィも今では、毎日ハービーと似たような服装をしているので、はたから見れば、自分も十分よそ者ではなくなっているのかもしれない。
ハービーに続いて、天幕から一人女が現れた。女はハービーと一言二言何かやりとりをしたあと、彼がかがんだふいをついて、飛びつくように口づけをした。
それを見て思わずぎょっとしたラズリィだったが、ラズリィ以上にハービーのほうが慌てふためき、周囲の目を気にして辺りをきょろきょろと見回していた。
そして、一部始終を見ていたラズリィと目が合ったのだった。
そのときのハービーの愕然とするような顔は、ラズリィの目にひどく焼きついた。
ハービーと見知らぬ女の口づけを目撃してしまったことより、ハービーのそんな顔を見てしまったことのほうが、ラズリィには衝撃が強かった。
口づけを見たとき、ハービーがまるで遠い世界の人のように見えた。しかし、ハービーの傷ついた顔を見たラズリィは、ハービーが自分の知っていた頃の彼と少しも変わってはいないのだということを、そこではっきりと認識した。