忌まわしき過去
それからというもの、ラズリィはエーデルの元で、歌姫として指南を受ける毎日だった。
知らない歌をいくつも教えてもらい、歌を使い分けることによって、様々なことができるのだと教わった。
豊穣の歌、始まりの歌、生命の歌、安寧の歌、魅惑の歌、破滅の歌、慈愛の歌――など。いずれも、すべて外界の言葉で紡がれる歌だった。
詞が言魂となり、声が魔力となり、そして歌い手の想いが歌を運ぶ翼となると教えられた。
ラズリィが毎日自ら足しげくエーデルの元へ通うので、周囲からは仲睦まじく子作りにいそしんでいるのだと思われていたが、実際まったくそんなことはなく、ただただ歌姫としての修練を重ねているのだった。
ラズリィは意欲的に学び、その熱意に応えるように、エーデルもまた彼の良き師として指南した。
そんな中でもラズリィは日々ハービーの安否を気にかけていた。対面できずとも、彼の置かれている状況を、遠くからうかがい知ることはできた。今のところ、すぐ殺されるというわけではなさそうだった。
ラズリィが種の役目を免除されている分、ハービーがその役目を一手に担うしかないことが、幸か不幸か、彼の命を長く繋ぎ止めることとなった。セノーテホールには何百人という女たちがおり、子種を必要としている適齢期の女は、まだまだ尽きることはない様子だった。
その上ラズリィがエーデルに嘆願したことにより、ハービーの伽の回数は以前よりも大幅に減らされ、役目を完全に終えるまでは、相当な月日が必要と推察された。
それまでの間になんとしても、歌姫として十分な実力を身につけなければとラズリィは奮起した。
やる気に満ちあふれたラズリィに、エーデルは惜しむことなく自身の知識を授けた。
「いい? ラズリィ。単に詞を連ねていくだけでなく、自分がこうしたいと強くイメージしながら歌うの。雑念を排除して、歌うことだけに意識を向ける。持って生まれた能力の素質は変えられないけれど、集中力や歌の技能は本人次第でいくらでも上達するわ。訓練すれば、あなたも女の歌姫に引けを取らないくらいにはなれるはずよ」
歌の修練が一段落してから、ラズリィはふとエーデルに尋ねた。
「どうして、こんなに熱心に指南してくれるの? 僕、力の制御だけなら、もうかなりできるようになってきたと思うんだけど……」
「そうね。ラズリィは筋がいいし意欲的だから、ついあれもこれもと教えたくなってしまうのよね。それに、純粋に私も楽しいし」
楽しい。その気持ちは、ラズリィも同じだった。
ラズリィはいつもエーデルの歌を聴いて、外界の歌を一つずつ覚えていく。彼女の美しい歌声は何ものにも形容しがたく、聴く者の魂を揺さぶる至高のものだった。自分一人しか聴いていないのが、もったいないと思えるほど。
ラズリィに指南する以外では、エーデル自らがプリマ・ソリストとして歌うことを迫られる状況は、ほとんどないようだった。
彼女が出るまでもなく、大勢いる配下の歌姫たちが、重要な仕事はすべて片づけてくれる。特に「第一クワイヤ」と呼ばれるエーデル直属の歌姫たちは、非常に優れた精鋭の集まりだ。
このセノーテホールで一番の実力者であるエーデルが、余力を残して日々を悠然と過ごせるほど、セノーテホールは人材的にも豊かな集落なのだ。
そして、自分が元いた集落と比較して、その歴然とした差を思い知らされるばかりだった。
そもそも男だけの集落では、まず人を増やすことから難儀する。どれだけ男がいようが、母数となる女が一人しかいなければ、子供はその一人が産む人数分しか増えない。
その点このセノーテホールでは、男がたった一人いれば、数多にいる女が次々とその男の子供を産むことができるので、当然人口も容易に増やすことができる。
人口が増えれば自ずと労働力も増え生産性も上がり、その集落は栄える。おまけに歌姫たちの魔力があれば、食料や物資に困窮することもなく、男の集落ではおよそ考えられないような潤沢な暮らしが営める。ここの女たちはそれが当たり前すぎて、もはやどうとも思っていないようだが。
同じ大空洞で暮らしているのに、この差はなんなのか。ラズリィは、どうしても疑問に思わずにはいられなかった。
「ねえ、エーデル。考えたんだけど、このセノーテホールに僕の元いた集落の人たちを呼び寄せて、皆で一緒に住むことはできないんだろうか?」
「まあ、急にどうしたの? 元いた集落が恋しい?」
「いや……。あそこは生きていくだけで精一杯だったから。僕が戻るより、集落の人たちをここに呼んで、いっそ男も女も皆で一緒に暮らしたらどうかと思ったんだよ。君たちだって、男が必要だろう? 今みたいに個別に攫ってくるんじゃなくて、一緒に住めば、そんな面倒なことをする必要もなくなるじゃないか」
「そうね、それは名案だわ」
エーデルは穏やかに微笑む。「じゃあ……」と目を輝かせたラズリィだが、彼の唇はエーデルの細く白い人差し指によって遮られ、それ以上話すことを制されてしまった。
「――なんて、私が言うとでも思った?」
目を瞬かせるラズリィに、エーデルは笑顔のままで答えた。
「ラズリィ、勘違いをしてはいけないわ。私たちはたしかに男を必要としているけれど、何も有象無象の区別なく受け入れているわけではないのよ。女は種を選ぶことに関しては、特に慎重な生き物なの。命懸けで子供を産むんですもの、当然だわ。私たちの目に適った男だけが手に入れば、それで十分なの。それに男は本来、粗野で乱暴な生き物でしょう。下手に群れさせると、女にとってどんな脅威になるか。何をしでかすか、わかったものではないのよ」
「ずいぶん……ひどい言いぐさだね。エーデル、君は男のことを完全に誤解しているよ。男だって、君たち女と同じ人間だ。いろんな性格の者がいる。皆が皆、君が言ったような男ばかりじゃないんだよ」
「ええ、そうかもしれない。ラズリィの言っていることは、きっと正しいのだと思う。――でもね、私たちセノーテホールの民は、これからも考えを変えることはきっとない。男は卑怯で野蛮な生き物なの」
「どうしてそこまで……」
頑なまでに男は危険だと言い張るエーデルのことが、ラズリィはちっとも理解できなかった。エーデルだけではない、ここの女たちは、みな根本的に男を侮蔑している。
それはなぜか。自分も男として、純粋にわけを知りたかった。
エーデルがこんなことを口にした。
「ねえ、ラズリィ。あなたたちの集落には、どうして男しかいないのか、教えてあげましょうか」
「え……?」
「何百年も前に、呪いをかけられたのよ。あなたたちは、歌姫を怒らせたから」
そう語ったエーデルの口元は、いつものよう微笑んではいなかった。
「昔はね――それも大昔の話。女だけでなく、男にも歌の魔力は備わっていたの。皆が明るい太陽の下で、歌を歌って豊かに暮らしていた。でも、いつしか魔力を持たない人間が増えて、同じ人間同士でも、魔力のない者は魔力のある者を恐れ、迫害し、圧倒的な数でどんどん追い詰めて虐殺した。だから魔力持ちたちは洞窟に逃げ込み、そこで自分たちの新たな集落を築いた。魔力を持たない人間が襲ってこないように、洞窟の入口も塞いで、二度と太陽の光を浴びることもなくなった。それが、大空洞ができた経緯よ」
エーデルは、なおも淡々と語り続ける。
「けれども、やっと手に入れた安穏な暮らしも、長くは続かなかった。今度はその中の男たちが、時を重ねるごとにどんどん魔力を失い始めたの。もともと男は陽、女は陰の性質を持っているから、魔力は陰の女の方に現れやすくて、その力も強い傾向にある。魔力を失った男たちは女たちを恐れて、その力を剥奪しようとした。女の喉をつぶして、声が出せないようにしたの。
でもその女の中に、たった一人だけ、声が出ないふりをし続けた歌姫がいた。彼女はずっと耐えて時を待ち、男たちの隙をついて、洞窟中に響き渡る声で歌い上げ、彼らをこらしめた。それからは、女は男から逃れて、女だけの集落であるこのセノーテホールを作り、残された男たちが暮らすその土地には、男しか生まれない呪いをかけた。未来永劫、二度と女がひどい目に遭わないように。そして私たち女も、子供が女しか生まれないように、自らにも呪いをかけた。恐ろしい男を二度と生み出してしまわないように。
……わかった? あの集落に住む男たちが、今みじめに細々と暮らしているのは、受けるべき当然の報いを受けているからなの。これで、女と男が共に暮らすことなんて絶対に不可能だって、理解できたかしら」
「そんな……」