奇跡の少年
ラズリィは、どうにかハービーを助けたいと強く思った。
「エーデル、その、ハービー……ハーベルトの役目を、僕が少しでも肩代わりすることはできないんだろうか」
「なんですって」
エーデルが驚いた顔で聞き返す。
「自分が何を言っているのかわかってるの? あなたみたいな子供に、彼の代わりが務まるわけないじゃない。それにラズリィ、あなた子作りの経験はあって? もしないのなら、口を挟むなんて百年と早いわよ」
容赦のないエーデルに、ラズリィがたじろぐ。しかし、ここで怯むわけにはいかない。
「た、たしかに、僕はその……未経験だ……。でもそれは、ハービー……ハーベルトも同じだったはず。彼はとてもじゃないけど、今みたいな状況に耐えられる人じゃない。ただでさえ、僕たちは女の人に免疫がないんだ。そのへんは、僕よりも彼のほうがよほど繊細だと思う。彼のことを少しでも助けたいんだ」
エーデルは、それを聞いてラズリィに冷たく言い放った。
「本気でやめておいたほうがいいわよ。あなたにどこまで知識があるのか知らないけれど。子供さえ授かれば、それで満足するような淡白な女ばかりではないの。女にもいろいろなタイプがいるわ。男に傷をつけることはさすがに禁止しているけれど、それ以外で寝所でのタブーはないのよ。そして何より、毎日何人もの相手をするのは、かなりの重労働になると思うわ。体力のない男――特にラズリィのような、まだ成長しきっていない子供では、すぐに身体を壊してしまう」
「それならなおのこと、彼を放っておけないよ。つまり、今まさにそんな苦痛を味わっているってことだろう? 彼が辛い目に遭っているって考えるだけで、僕も心臓がつぶれそうになるんだ。頼むよ、僕たちはここから逃げも隠れもしないから。彼一人だけに、苦しい思いをさせたくないんだ」
ラズリィはかなり食い下がった。しかし、どういうわけか、エーデルはますます意固地になるばかりだった。
「だめよ。あなたはもう私のものなの。他の女に抱かれることを、許すわけにはいかないわ」
「どうして、どうして僕なんかにそこまで執着するの。君がいいと言ってくれるまで、僕はいつまでだってお願いし続けるよ。それで君の怒りを買って殺されてしまうなら、それはもう仕方のないことだ」
終わらない平行線に、ついに音を上げたのはエーデルのほうだった。彼女はひどく不本意な様子で、ため息を吐いた。
「……わかったわ。そこまで言うなら、なんとかハーベルトの伽の頻度を減らすように掛け合ってみる。まったく無しにすることはできないから、どうかそれで納得してちょうだい。だからお願い、他の女に抱かれるなんて言わないで。私がラズリィを欲しがる理由も、きちんと話すから」
今まで余裕を崩さなかったエーデルが、自分のことでこんなにも取り乱している。それが、ラズリィには不思議でならなかった。
エーデルは渋々話し始めた。
「私、気づいちゃったのよ。ラズリィ、あなたは歌姫よ」
「え……?」
「あなたが男だということは、重々承知しているわ。でも、その上であなたは紛れもなく歌姫なのよ」
エーデルは懇切丁寧に、ラズリィに向けて語った。
「あなたが無自覚でも、あなたの声は間違いなく歌姫の声よ。これは、同じ歌姫にしかわからないことなの。それも、あなたのように魔力の波動が弱くて、まだ顕在化していない者の判別は難しいから、とりわけ高位の歌姫でないとわからない。おそらくは、歌姫として覚醒してから、まだ間もないんじゃないかしら」
「ま、待ってよ。いきなりそんなこと言われても、僕には何がなんだか……」
「まあ、そうよね。急にこんなことを言われたら、それは戸惑うわよね。私も最初は、男の歌姫だなんて信じられなかった。でもこうして目の前にいるのだから、事実を受けとめるしかない。そしてラズリィ、これからはあなたにも、そうしてもらわなくてはいけないの。歌姫は、自分の持つ力に無自覚ではいけないのよ。力を理解して、制御していかなくては。今までに、歌を歌って、何か不思議なことが起こったことはない?」
「不思議なこと……」
言われてみれば、思い当たる節がないわけではなかった。
ツチボタルの泉で歌ったとき、ツチボタルたちが一斉に輝きはじめたことを覚えている。つい、先日のことだ。
自分の歌とは関連がない事象だと思っていたが――。
「半信半疑、といった顔ね。いいわ。実際に、その目で確かめるのが一番ね。じゃあ試しに、今ここで歌ってみなさいな」
「い……今……ここで?」
「そうよ。私の話が信じられないのなら、まずは歌ってみればいいのよ」
ラズリィはしばらく目を泳がせたが、エーデルに急かされ、仕方なく歌うはめになった。
遠慮がちな小声しか出せなかったが、しばらく歌っていると、かえって恥ずかしいことに気づき、開き直って思う存分伸びやかに歌うことにした。
すると、足元の地面や周囲の壁に生い茂っていた植物たちが、どういうわけか一斉に伸び始めて、あっという間にラズリィの膝丈まで覆いかぶさってきた。驚いて、思わず歌うのをやめる。
その光景を見守っていたエーデルは、前のめりになってラズリィの両手を強く握りしめた。
「素晴らしいわ、なんて綺麗な歌声なの。これなら女の歌姫にも、十分引けは取らない」
「こ……これ、本当に僕のせいなの? 今まで何度も歌ってきたけど、こんなことは一度も……」
「もともと眠っていた力が、セノーテホールに来て、この聖地に宿る力に感化されて、目覚めたのかもしれないわね」
「信じられない。僕は……今まで普通の人間だったのに」
「歌姫だって、身体機能は普通の人間と変わらないのよ。ただ、歌で魔力を操れるだけ。私はね、初めてラズリィと話をして、あなたの声を聞いた瞬間に、歌姫だと気づいたの。そのときから、すぐにラズリィを自分のものにすると決めていたわ。あなたは今までの男とはわけが違う。歌姫の男なんて、今までに前例はなかった。
――いえ、厳密には、大昔にはいたはずだけれど、それももう何百年も前の話だもの。あなたが子供を作る相手と、あなたの血をひいて生まれてくる子供の数は、慎重に管理するべきだと思ったの。歌姫同士の両親を持って生まれてくる子供は、きっと歌姫としての血が濃いから、むやみに増やせばプリマ・ソリストの後継者争いを引き起こしかねない。これが、私がラズリィを手放さない理由よ。少しは納得してもらえたかしら」
エーデルの話は、ラズリィがすぐには付いていけそうにないものばかりだった。
しかし、それでもただ一つ、頭の片隅で冷静に考えられることがあった。
もしも、自分が歌姫としての力を使いこなすことができれば、セノーテホールから逃げて、別の場所で生き延びられるのかもしれない――と。
(僕にも、外界のものを召喚する力があれば……)
そう考えると、驚くほど頭の中はすっきりとした。自分に得体の知れない力が備わっていることは不安だったが、今の状況なら、むしろ、それはとても好都合なことではないか。
「エーデル、この力のことをもっと教えてくれないかな? 自分のことだし、ちゃんと理解しておきたいんだ」
「ええ、もともとそのつもりだったの。どの道、ある程度力を使いこなせなければ、制御することもできないから」
そして、エーデルはこんな話もした。
「念のために言うけれど、その力を使ってここから逃げようなんて馬鹿な考えは持たないでね。ここには強力な魔力を持った歌姫が大勢いるのだから、あなたなんか簡単に殺されるわよ」
「わ、わかってるよ。逃げたりなんてしない」
ラズリィは、やや声を上ずらせた。図星だったが、エーデルは、ラズリィが恐怖のせいで委縮していると解釈したようだった。
「心配しなくても大丈夫よ。男の歌姫はとても貴重だもの。おとなしくしていれば、あなたは殺されないわ。きっと、ずっと一緒にいられる」
「あなたは……って。じゃあハーベルトは、用が済んだら殺されてしまうの?」
ラズリィの問いに、エーデルは明確な返答をよこさなかった。
「話し込みすぎたわね。そろそろ迎えが来るはずだから、今日はもうこれでお開きにしましょうか」
エーデルはにっこりと微笑んで、もう一度ラズリィの両手を取った。
「ラズリィ、私は、あなたと子供を作るだけの関係になりたいわけじゃないの。もっとたくさんお話もしたいし、あなたのことももっと知っていきたい。今はまだ難しいかもしれないけれど、将来的には、ちゃんとした本物の夫婦になりたいと思っているのよ。だから、焦らずゆっくりお互いへの理解を深めていきましょう」
ラズリィはそれを聞いて、エーデルはまったく話の通じない相手ではないのかもしれない、と感じていた。――とはいえ、セノーテホールから逃げるという目標が覆ることはなかったが。
(やっぱり、いずれにしてもハービーは殺されてしまう。ここには、あまり長居しないほうがいいな)
ラズリィは、心密かにそう思っていた。