ひとりぼっち
あの子には感情というものがありませんでした。
彼は、下着だけ身に着けた骨ばった姿で、僕のことを見ていました。
それが僕と彼――フィーとの出会いです。
彼に食事を与えていたのは僕ではありません。
茄子とキノコを入れただけのマズそうなシチューを、フィーが淡々と口に運ぶのを僕はただ近くで眺めていました。ときおり「おいしい?」「しょっぱくない?」と訊いても、フィーは何も言わずにそれを食べていました。目の前のモノを体に入れていくだけの時間。フィーにとって、ご飯は生きるためのすべでしかないように感じました。
彼はどこか自分に似ていると、そこで僕は初めて思ったのです。
フィーにはどんな質問をしようと無駄でした。
「どこからきたの?」と言っても、僕に視線だけ合わせて。その目に感情は浮かんでいませんでした。
フィーは、僕よりも高い背を縮めるように、少し腰を曲げて歩いていました。黄色い顔にできた赤いにきびをしきりに触って「パ、ア、マ」と意味のない声を出すのが、フィーのクセでした。どうしてか、フィーはその言葉をしきりに使いたがりました。食事のときも、じっとしているときでも、フィーはその言葉を繰り返します。あいかわらず言葉に心はこもっていません。一つ一つ、まるで何か答えを探すように、誰に言うでもなく、呟くのです。
また、フィーは背中にいくつかの赤い傷痕をもっていました。黒いゴマ粒のような後頭部の下に一面点々と存在するそれは、ひどく目立っていて、誰かがそこを触るとフィーは「ん、ん」と呟いて、目をつぶるでもなく、痛そうにするでもなく、ただその場にしゃがみ込むのです。
そのとき目線の合った僕を、一ミリも動かない大きな黒目で、モノを見るかのようにただみつめる姿は、今でも僕の脳裏に焼きついています。
出会ってから何日かたったころ。僕は玄関先のポストから突き出た新聞にフィーの姿を見つけました。角っこが黒く汚れた全体的に暗い写真に、笑顔の二人が写っています。旅行先でしょうか。深い緑の森林に包まれた湖のほとりに、二人は写っていました。
きれいに散髪され、きれいな服装で写るフィーには、今の面影がほとんどありません。ただ一つ、その黒目を除いては。
僕はフィーに言いました。
「あいつは誰!?」
「どうして君の写真がのっているの!?」
少し乱暴な口調だったかもしれません。それでも僕はききたかったのです。けれどやはり、その黒目が動揺することはありませんでした。
一週間が経ちました。
その日はとても寒い日で、僕は暖炉の近くで寒さをしのいでいました。
叫び声がしたのは、僕がちょうどうとうとし始めたころです。
玄関から怒鳴り声とともに、見かけない人たちが何人か入って来ました。
その人たちは僕らの家の中を堂々と歩き回ると、フィーを乱暴に抱きあげ、外に連れていったのです。
「ねえ、どうしてフィーを連れていくの?」
「一緒に連れて行ってよ」
しかし、どんなに僕が追いかけて声を張り上げても、彼らは僕を無視するだけでした。怒号を響かせる彼らはやがて、家中の人、全員を連れて去っていきました。
「どうして……」
僕は一人になりました。
そして、それがどうしてなのか考えました。
どうしてフィーは連れていかれたのか。
どうしてご主人は連れていかれたのか。
「どうして僕はひとりぼっちなの?」
それは僕が猫という獣だからなのでしょうか。
ドンという音と、痛みが頭に走ります。僕が机の脚に頭をぶつけると、目の前に何かが落ちてきました。置き去りにされた、あの新聞でした。
フィーの写真。横に立つ大きな男。
しかしどれだけ見ても、そこに何が書いてあるのか、僕にはわかりません。
部屋に取り残されたまま、僕はフィーが抜けがらになった理由を、永遠と考えるのでした。