あなたへの贈り物
最近、兄さんの機嫌がいい。
家の階段を昇り降りする時は、ステップを刻むように楽しそうな音を立てているし、朝のひげ剃りは自分の肌を気持ち悪いくらい撫でつけているし、得意とは言い難い料理も鼻歌をふんふん歌いながら作っている。
原因ははっきりしている。
兄さんには最近、彼女ができた。
聞いてもいないのに本人が話してくれた内容によると、合コンをきっかけに仲良くなったミカさんに、その日のうちに交際を申し込んだら、あっさりOKをもらったらしい。
もともと、兄さんは物怖じしない性格だ。去年だって何度か告白しては「玉砕した」と言って、ベットでふてくされているのを僕は見ている。そんな性格だから、下手な鉄砲も数撃ちゃなんとかじゃないけれど、いつかは成功するんじゃないかとは思っていた。
そして二週間前、そんな素人猟師が小さな獲物を捕ってきた。
兄さんと同じ大学三年だという彼女は、痩せた体に、ケバい化粧で取り繕った顔を光らせながら、なんだか余裕のある顔で僕に自己紹介をした。
「これからけっこうここに来るかもしれないから、よろしく」
まるで品定めをするかのようなぎらぎらした大きな目で、彼女――ミカさんはそう言った。
それからこっちの都合などお構いなしに、ミカさんは家のインターフォンを押すようになった。いつも深夜にならないと帰ってこない父親と、兄さん、僕の三人しかいないことを聞かされたのだろう。ミカさんは夜のちょうど夕飯どきを狙うように上がりこんでは、僕と兄が交互に作った料理を食べていった。その度に「おいしい」とか「いまいち」とかいちいち評価をしてくるので、僕はうんざりさせられた。もっとも僕の料理の評価はおおむね「おいしい」で、ミカさんは笑ってくれるのだけれど。
うんざり、と言えば夕飯後に二人が兄さんの部屋にこもるのもそれに当てはまる。おとなしくやってればいいのに、時々僕が見るAVで聞く、んっ、とかはんっ、とかそんな声が一階のリビングまで聞こえてくるもんだから、デリカシーのかけらもない。だけど、それを聞きながら自分の欲求を満たそうとする僕も、情けないのに違いない。
そんな兄さんがある日唐突に大きなくまのぬいぐるみを持って帰って来た。その時僕はリビングの奥深く、台所で肉じゃがのイモの煮崩れ具合に辟易していたから、そんなものは全く見えていなくて、食卓に食器を置きに行ったときに初めてそのドデカイ存在に気づいた。
「UFOキャッチャーで取ったの?」
「いや、プレゼントにもらった」
「もらったって、こんな大きなものどうすんだよ」
図太い胴体に、ひずめまでちゃんと再現されたとてもリアルなクマの面長の顔には、ドーナッツをムリヤリ丸めたみたいな鼻と、妙に物悲しそうな大きな目がふたつひっついていた。近づいて触ってみると、驚くくらいさらさらな茶色の毛が、表面をびっしりと覆い尽くしていた。
ためしに食卓の椅子に座らせてみたら、僕や兄さんの座高よりも高くて、まるで大きな家族が一人増えたみたいに見える。
「新しい家族みたいだろ」
どうやら兄さんも同じことを考えたらしい。気のせいか、食卓の明かりに照らされたクマの顔も、どこか誇らしげに輝いているようだ。
「そうだね」
でも、はっきり言って邪魔だ。
「ところで誰からもらったのさ」
兄さんは恥ずかしそうに鼻をかいて「ミカ」と、予想通りの答えを返す。
「もしかしてアレ? 『わたしがいないときは、このクマちゃんをわたしのかわりだと思って大切にしてね』とか言われちゃったわけ?」
「当たり! よくわかったな」
なんて単純な……。
まあ、いい。お前の処分は保留だ。クマ。
僕はそう心の中で呟いて、椅子に腰かけたままの彼(?)をしり目に、すっかりどろどろに溶けてしまった肉じゃがを取りに台所へ戻った。
そいつはそれからしばらく同じ場所に居座った。
てっきり自分の部屋へ持っていくものだと思っていたら、兄さんは「ここが一番しっくりくるんだ」とか言って、食卓テーブルの四席のうちの一つをクマ専用席にしてしまった。
もちろんそれには僕だけじゃなくて、父さんも反論したのだけれど、兄さんはなぜか「それは言えない」と一切とりあわなかった。
ごく普通の食卓。
そこに並べられた椅子。
その一席に大柄な茶色の物体。
実際に食事していても、はたから見ていてもそれはひどくこっけいで、でも同時にまるで監視されているようでなんだか不気味だった。食べている間、兄の隣で僕をまっすぐ見つめる奥深い大きな瞳が、ときおり不気味に光って見えた。
ところで肝心のミカさんはそれを見て何も言わなかった。自分のあげたぬいぐるみが彼氏の部屋じゃなくて、居間の食卓にドカンと座っているのに、それをちらと一瞥して、すぐに兄さんとの会話に戻った。
おかしい。
僕は処分保留のヤツが、だんだんただのぬいぐるみとは思えなくなっていた。
ぬいぐるみが撤去されるまで、僕は一つの推論を立てた。
すなわちこのクマは、兄さんの見はり役なのではないか、ということだ。
クマは食卓の一席に置かれている。
僕と兄さんと父さん。三人ともまあまあ仲良くやっているので、男同士でもポツポツと食事中に話したりはする。うちは『食事中のテレビ禁止!』というわけでもないから、たいていはテレビの話題が多いのだけれど、たまに自分たちの話題を持ち出すこともある。
中でも兄さんは、最近ミカさんの話題を頻繁にする。「昨日ミカがさあ、オレにこの服が似合うってさあ」「そういやミカはさあ、いいとこの令嬢らしくてさあ」
要するに自慢しているわけで、それが昼夜問わずだから、僕や父さんはとても広い心で微笑んで聞いてあげている。もちろんどうせいつか別れるんだろうなあ、なんてことは思っていない。
とにかく、そんなふうに兄さんは食事どきにもミカさんの話をする。
ミカさんはそんな兄さんのクセみたいなものを予感して、ここにクマを置くように言ったのではないだろうか。
この異様な存在感のあるクマを食卓に置くことで、「いつでもわたしは聞いてるんだよ」みたいな、一種のアピールみたいに、兄さんの横で言っているのではないだろうか。
兄さんがその真意をわかっているかどうかは怪しいけれど、この前「ミカの友達がすごくかわいかった」みたいな話を持ち出した時は、このぬいぐるみをちらっと見て、急に口をつぐんでいたから、効果のほどはそれなりにあるようだ。
僕は、そのうち兄さんからきちんと訊き出さないとな、と、ねばり気のなくなった納豆をかきまぜながらぼんやりと思った。
『別れは突然に』なんて言うけれど、兄さんの恋はある日突然、我が家の居間で砕けた。
きっかけはとある日の夕方、ミカさんが言った「ちょっと携帯貸して」という一言だった。
料金オーバーで使えなくなったピンク色の携帯電話を印籠みたいに掲げたミカさんは、兄さんのストラップつき携帯電話を受け取ると、慣れた手つきでボタンを押して、そして急に黙り込んだ。
「なんでリコと電話してんの?」
『リコ』という名前に、兄さんだけじゃなくて、そばでマンガを読んでいた僕まで反応してしまった。
「なんでって……ちょっと用があったから」
「ちょっとって何よ、それ」
「だからちょっとだって」
「わたしよりリコのほうがかわいいんでしょ……」
「なんでそうなるんだよ! だから違うって言ってるだろ!」
「何が違うのよ!」
僕は内心「あーあ」と思いながら、だんだんヒートアップしていく口論を見ていた。例の『ミカのかわいい友達』がこんなトラブルを起こそうとは……。しばらくするといたたまれなくなって、僕は台所で火にかかっているやかんの様子を見にいくことにして、その場を離れた。
離れたと言っても、その距離数メートル。残念ながら耳を塞いでもまだ会話が聞こえる距離だ。
「あんたさ、そうやって他の女と付き合って、適当にヤったりしてたんでしょ?」
「は? ふざけんな。オレがいつ他の女とヤったって? だいたいこんなちっちゃいことでいつまでキンキン怒鳴ってるつもりだよ」
「好きで怒鳴ってんじゃねーよ!」
そんな感じで僕の貴重な修羅場体験は過ぎ去っていく。
視界の端っこに見えたクマは、どこ吹く風であらぬ方向を向いていた。その様子は傍観を決めた僕と重なって、なんだか少し親近感がわいた。
「もう別れよう」と半ば悲鳴みたいな声が上がったのは、やかんがピーと笛を吹く直前のことだった。ミカさんはそのまま、台所の傍観者である僕をちらと見て帰っていく。僕はなんだか少し笑ってしまった。
その後の兄さんは抜けがらみたいだった。
どうもフられたことそのものよりも、自分のことを信用してもらえなかったのがよっぽどショックだったらしい。これを機会に自分の性格を見直すなら、僕はそれはそれでいいんじゃないかと思うのだけれど。
我ながらずいぶんひどい弟だ。
そんなことを考えながら、僕はどうしても一つ納得のいかないことがあった。
それは『リコ』さんのこと。
あのケンカの後、しばらくしてから兄さんに『リコ』さんと何かあったのか訊いてみた。
兄さんはひとしきり僕の質問に首を振った後、「リコのことは一度もあいつに話したことはない」とうつむきがちに呟いた。
「そもそも話題にしたこともないのに」
あれ? と僕は頭をコツンと軽く叩かれたような気分になる。
じゃどうやってミカさんはリコさんのことを知ったのだろう。まさか本人から電話したことを訊きこむはずはないから、やっぱり兄さんの口からうっかりもれてしまったと思うのがフツーだ。
――わたしよりリコのほうがかわいいんでしょ
そういえば、と僕は思いだす。我が家の食卓で、兄さんが一度だけリコさんのことを話題にしてたっけ。
『ミカのかわいい友達』
僕は何だか薄ら寒い感覚に襲われて、「あのぬいぐるみってさ」と早口で切り出した。
「結局どうして食卓に置いてたのさ」
「頼まれたから」
兄さんはもう別れたからいいや、と投げやりに前置きしてから、そう言った。
「食卓の、あなたの席の隣に置くようにって。それからこのことは家族にも言わないでね、とも」
「理由は?」
「いや、とにかく置けって……そう言って聞かないんだよ。今思えば、あいつがあんなにごねたのはそのときくらいだったなあ。なのになんで……」
そのまま兄はうなだれて、自分のベットに突っ伏した。僕はそんな兄の様子を横目に見ながら、部屋を飛び出して、小走りで居間に向かっていた。
――まさか。そんな……。
食卓のクマはいつも通り、憎らしいほど悠然と座っていた。
僕はクマを乱暴にひっつかむと、ハサミを取り出し、無造作に背中を切り刻んだ。その途端に綿に混じって、白くて四角いものがこぼれ、床にカシャンと落ちた。
僕はそれを無表情に拾う。
とても軽いそれは、どこかの音楽プレーヤーに似ていて、小さな四角形のふたが二つ合わさったような形をしていた。僕はその片方のふたを外して中身を見る。意外なほど単純な電盤が一枚だけ見えて、その中心に丸い型の電池がはまっていた。
もうたぶん間違いなかった。
兄さんは文字通り「見張られていた」のだ。
このクマのぬいぐるみは、そのドデカイ腹の中にずっととんでもないものを抱えていた。きっと今も、ミカさんはどこかでこの家の音を聞いているに違いない。
そう思うと、早くどうにかしないといけない気がした。
でも不思議だった。
兄さんとミカさんは別れた。こうしてクマがその役目を終えた今、もうミカさんに盗聴の必要はない、はずだ。
ならここに置きっぱなしにしなくてもいいのに。
僕はそう思いながら、用済みになったクマの胴体を掴んで、椅子から持ちあげてみる。すると腹の中が丸見えになったクマの頭のほうに、何か黒いものが見えた。
その瞬間、僕は凍りついた。
どうしてミカさんがこのクマを持ち帰らなかったのか。
そしてどうしてこの席にクマが置かれていたのか。
そうだ。正面にいつも座っているのはこの僕だ。
その時、聞き覚えのあるパーカッションの音が鳴った。
僕は震える手で、ポケットから携帯電話を取り出す。
そこに表示された非通知の番号を見ると、僕は少しためらって、電話に出る。そしてこう告げた。
「僕と付き合いませんか」