第1話「こんなの奇跡じゃない!」 4
トイレでも 一人になれた 気がしない(美弥子、こころの俳句)
あたしはこんなにおどおどと、用をたしたことは無かったし、こんなに慌ててパンツを上げたこともない。
でも、トイレで二人の気配は全くしなかった。気を遣って、息を潜めてくれたのかなあ。(それはそれで嫌だけど……)
ともあれ、あたしは洗面の鏡を見た。すごく久しぶりに、自分の顔を見たような気もする。
見慣れたショートカットの、少し不健康そうなあたしの顔。いつも不機嫌そうな、あたしの顔。一日に一度くらいは笑う、あたしの顔。さっき泣いた、あたしの顔。今、他人の二人を宿した、あたしの顔。
他人にはどう映るのだろう。あたしは、少しぎこちなくだけど、笑ってみた。
病室に戻ると、担当の看護師が仁王立ちで待っていた。
「鷲尾さん? あなたねえ……大事な時なんだから、勝手に出ちゃだめじゃない! 探したのよ? まさかタバコ吸いに行ったんじゃないでしょうね?」
「はあ……スミマセン……」
看護師は言葉ほどには怒っていなくて、あたしのおでこをツンと押した。
「お母様、来てるわよ。良かったわね。今、先生とお話しなさってるから、少し待ってね。その後、念のためにCT検査して、何もなかったら帰れるわよ? マスコミが来てるけど、相手しなくていいから。一つ答えるとどこまでも付いてくるから気をつけなさいね?」
看護師は、あたしがマスコミに捕まっているんじゃないかって、心配していた事がここで分かった。あたしは、やっぱり子供だ――。
そんな気付きが、不思議と心地いい。
それは――、お母さんが来てくれたから。
あたしは小さい頃から、お母さんと二人きり。お父さんは事故で亡くなったと聞いている。
でも、お母さんが居るから、少しも寂しくなかった。とても強くて、優しくて、かわいくて、まるで友達のようなお母さん。
そんなお母さんが、スナックを始めるってなった時は、小学生だったあたしでも反対した。お酒を飲むお母さんなんて、考えられなかった。
でも、お店を開くと、田舎町という事もあって、やってくるのは近所のおじさんばかり。
皆、いい人で、あたしも随分可愛がってもらったっけ。あたしが多少なり、おっさんに免疫があるのは、きっとこのせいだ。
そんな事を考えていると、ノックも無しにドアが開いた。
――お母さんだっ!!
「みやっ!? 美弥なのっ――!?」
「そっ!! あたしっ!! あたしだよっ――!!」
お母さんは、そのままあたしに突進してきて、抱きしめると頭を撫でたりほっぺたを手に包んだり、やりたい放題。涙でぐしゃぐしゃのお母さんは、さっきまで寝ていたような髪で、久しぶりに見るすっぴんだった。
「どこか痛いところない? こわかったでしょ? 遅くなってごめんねえ……」
そう言いながら、お母さんはあたしをじっと見つめると、一瞬、瞳が凍ったようになった。
「あらっ? こんな時だけど、美弥、感じが変わったわ? 大人びたっていうか――」
あたしは『ドキッ』と、その言葉に反応する。横で見ていた看護師も、母に続いた。
「そうそう! 私も美弥子さんは、高校生にしては大人びてるなって思ってたんですよ? 不安感と責任感が一緒になったような、大人の顔。そういえば出産前の人が、こんないい顔をするのよねえ――」
あたしはこれまた『ドキッ』とする。
「まあ! 美弥っ、あなたまさか……なーんてね? 看護師さん、この子には十年早いわ! まだまだお子ちゃまなんだから――」
――あたしだって、お子ちゃまで居たい。
でも、お母さんはあたしの中に知らない男女が二人いると知ったら、どんな顔をするだろう。赤ちゃんの方が、まだマシかも知れない。人知れず悩むあたしに、そろそろCT検査の準備ができたのだと看護師が告げる。
「お待たせしました。じゃあお母様は受付でお待ち下さい。鷲尾さん、行きましょうか?」
あたしは病院特有の、ひんやりした廊下を、慣れない検査服姿でトコトコ歩く。
歩きながら、ふと考えた。
(CTって、輪切りのレントゲン? もしかして鈴木田さんたち、映ったりしないかなあ? ねえ、聞いてる? 鈴木田さん?)
「ぷぷっ!? 聞いてたよ! 映るわけないっ! ぷぷっ! なあ、あんたもそう思うだろ?」
鈴木田さんは、アラサーに聞いているようだ。あたしは少し、イラっとしている。
「ふ……ん。映るはずないでしょ? それより、さっきのこと謝っておくから。私は大下。大下梨夏。二十八才。それ以外の事はいいでしょ? とにかく当面は厄介になるから――頼んだわ――」
「――は、はいっ」
さすがにアラサー、迫力がある。謝ると言いながら、ごめんの一言もないのが、アラサー(失礼か、さすがに)、大下さんの性格を現している。だけど名前を知った事で、あたしの心はすごく軽くなった。
「よかったな、美弥ちゃん!」
(美弥――ちゃん? もう、おっさん、馴れ馴れしいって!)
だけどあたしの足取りは、少し早くなっている。