最終回 卒業
それから瞬く間に月日は過ぎた。
卒業式はいよいよ明日――。
看護専門学校に進学が決まり、そのつながりで友人もできた。
あの依子とも、知らずのうちに近くなって、家や学校をつまらなく思っていたあたしは、もういない。
思えばあの事故からこうまで落ち着くには、いろんな人とのつながり無しにはたどれなかったと思う。
――特に。
(鈴木田さんのお陰だよ? ねえ、たまには聞いてよ?)
――返事はない。
(でも、聞いてるよね? 鈴木田さん。)
あたしは今日は歩いて帰ろうと決めた。
今は返事をくれない鈴木田さんだけど、語りかけるのは歩きながらがいい。
(じっとしてると、つい暗くなっちゃうもんね――)
顔を上げると、桜が咲いている。
歩きながら過ぎ行く桜に見惚れて、くるりと一回転すると、そこには依子が立っていた。
「驚かすつもりが、驚かされました……」
いつもながら、言葉使いが丁寧な依子に、あたしは自然と顔がほころんだ。
「一緒に歩いても、いいかな?」と、神妙な依子。
「いいともー!」と、おどけるあたし。
「ぷっ、何ですか、それ?」
あたしたちはそのまま、春目前の陽気の中を、ただ歩いた。
「闇深な私たちにも、春は来るんですね……」
依子は相変わらず、ドキリとすることを平気で言う。
「闇深っ――!? そんなに闇深いかなあ? 依子は知らないけど――」
あたしがやり返すと、依子は更に真顔で返すべく目を輝かせた。
「私はもう、とっくに吹っ切れてます。きっと私には素敵な出会いが待ってる。母にも。基準があんな男だから、ハードルは低いですよ? 美弥さんと違って」
依子はあれから、信じられない程に前向きになっている。
「そういえば、鈴木田さん。まだ寝ているんですか? 今度は随分長いみたい……」
依子は鈴木田さんが『消えた』ではなく、『眠っている』のだと表現してくれた。
そう。鈴木田さんはあの後、一日おき、二日おき、数日おきと、周期的に出てこなくなって、今はひと月以上も出ていない。
でも、初めて消えた時と違って、あたしは不思議に落ち着いていた。
「うん。多分、明日くらい起きると思う。卒業式だし――」
あたしはその言葉を、鈴木田さんに向けて言ったつもりである。反応は無かったけれど、きっと聞いてくれていると思う。
「でも、鈴木田さんって幸せですよね。おっさんなのに、こんな女子高生をしばって……」
『しばる』という言葉に、あたしは苦笑したけど、実は逆である。
「しばってるのは、こっちの方なんだよね――」
あたしは初めて素直に、その事を認めることができたと思う。
気が付くと、風景は病院の隣りの公園に差しかかっていた。タンゴの聞こえてきた、あの公園。鈴木田さんが不意に消えた、公園。今、笑いあっている依子ともめた、公園。
「じゃあ、明日また学校で会いましょう。美弥さん……元気出して!」
依子はあたしの返事を待たずに駆けて行った。
そしてあたしは、これまでの事をすべて、お母さんに話しておこうと決心した。
家に帰ると、お母さんはちょうどお店に出るところ。
「お母さん! 聞いてほしいことがあって――。時間取らせないから!」
あたしは慌てて、お母さんを呼び止めた。
「いいわよ。時間なんて。美弥の納得いくまで聞くわ」
「お母さん……」
思い返すと、今までのあたしは、こんな風に真剣に話を切り出したことがなかった。それが、家がつまらなかった理由かもしれない。
あたしは立ったまま、事故から以後の全てをお母さんにあかそうと、息を呑んだ。
鈴木田さんだけじゃない。大下さんや上岡さん。小根山先生。依子。たくさんの出会いと出来事は語る前から熱を帯びて、あたしの中ではまるでさっき起きた事のように、映像が押し寄せてくる。
お母さんは黙って、あたしの話を待ってくれていた。
「お母さん――? 今、好きな人とか、いないの?」
あたしはいざとなったら、考えもしていない事が口をついて驚いた。
お母さんは、困っているかも知れない。けれど、表情はいつもと変わらず、目だけが答えを探すかのように動いていた。あたしは答えより、そんな風に一生懸命考えてくれるお母さんに甘えたくなって、しがみついてしまった。
「あたし、愛してる人が居ます」
自然と口に出た言葉の哀しさは、涙が洗い流してくれる。
「でも、その人もう死んでて。絶対に遭う事は出来なくて……」
お母さんはあたしの頭を優しく撫でてくれる。目を閉じていると、その手の平がお母さんから鈴木田さんに変わって、その後、記憶の底にあったお父さんのものになった。
そういえば、鈴木田さんはどことなく、お父さんと感じが似ている。
「ねえ、お母さん。お父さんの事、まだ好き?」
あたしは答えを、ようやく見つけたと思う。きっと鈴木田さんも、同じことを考えていると思う。そしてそれは、きっとお母さんも同じ――。
「お父さんが居たから今があるの――。好きよ。今も愛してる。それ以上の言葉があるなら、一番にお父さんに捧げるわ」
(お母さん、ありがとう……)
あたしは、母の腕の中から抜け出ると、初めて立った赤子のように、ちっぽけながらも世界の全てを手にしたような気持になった。
「鈴木田さん――。あたし、あなたが喜んでくれるような人になります!」
(「ああ、美弥ちゃんならできるさ――」)
鈴木田さんならきっとそう言うだろうと、あたしは少し微笑んだ。