第4話「野島依子」 4
闇にのまれそうな公園で、あたしはベンチに座っている。隣には何を考えているのか、さっぱり分からない友人、野島依子。
すぐ隣に病院がある事と、家からそう離れてはいない事をもう一度思い返しながら、あたしは野島さんに問いかけた。
「どうしてズルいの? あたし、何かしたかな?」
まだ野島さんはあたしの手首を離さない。
「やっぱりさ、月曜にお話ししよう? あたしも事故から色々……、まだ混乱してて……」
あたしは精一杯、心からの気持を出した。これで分かってくれないなら、強引にでも帰ろうと思う。けれども、まだ手首は捕まったまま。そのカギを解くには、野島さんの言う事を聞かねばならないようだけど、肝心の本人がだんまりなので、どうしようもない。
あたしは聞こえないように溜息をついたが――。
「鷲尾さん――。多分、月曜になったら前の鷲尾さんじゃなくなるから。鷲尾さんは私と違って、みんなから心配されてる。みんな、鷲尾さんを待ってる。私とは、違う……」
あたしは溜息の途中で、思わずむせた。野島さんは、白い顔のままで続ける。
「私はみんなから嫌われて、独り。鷲尾さんは、自分で選んで独り。鷲尾さんがいたから、私はなんとかやってこれました。でも、鷲尾さんは独りじゃなかった……」
「だから、ズルいの?」
あたしはつい、そう言ってしまった。こんな状態の人に、かけていい言葉じゃないとは分かっている。 けれど、あたしだってイラついていた。
(なに、これ? つき合いきれない――)
だけどまだ、拘束は解けない。
「鷲尾さん。うちも父親がいません。私も一人っ子。アパートに住んでて、バス通学で、部活もしないし友達もいない。いつも独り。私たちは似ています。私は鷲尾さん――。鷲尾さんは、私――。そう思ってきたのに、鷲尾さんは裏切りました。鷲尾さんの中には、私じゃなくて男の人が居る。鈴木田さん――。あのバス事故の、犠牲者の人ですよね。ニュースで見ました。多分、鷲尾さんを好きな男の人が、命がけで守って、それでその男の人の心が鷲尾さんに宿った。そうですよね……」
「……………………!?」
当たっている。鈴木田さんがあたしを好いていたかどうかは置いといて、当たっている。
どうして野島さんにそれが解ったのかよりも、その鈴木田さんがもういない事の方が、あたしにはこたえた。
いつの間にか、あたしの手首は自由になっている。もうこれ以上、野島さんに手間取る事は、あたしには許容できない事になりつつある。
つまり……。あたしは怒っている。
どうしようもなく、怒っている。
軽はずみにあたしの痛みに触れた野島さんへの怒りは、もう彼女の痛みなどどうでもいいほどにあたしを駆り立てる。だから口にする言葉は一つきり。
(いい加減にしてよっ!!)
でもその声は、無機質で小さな、それでいて無視できない音に負けてしまった。
『カチ、チチチ――』
(――――ッ!?)
野島さんが私の手首を自由にした理由を、その音は説明するかのようにか細く響いた。
(うそ……。カッターナイフとか……なにを……)
冷たい闇に浮かぶカッターナイフは、野島さんの白い手首をめがけてゆっくりと降りていく。あたしは声が出ない。怒りもなにも、消えてしまった。
「私がこれから鷲尾さんの中に入ります。いいですよね……? だって、鷲尾さんはもう、私だけの鷲尾さんじゃなくなった。これは、罰です。罪を、償ってください――」
野島さんはあたしの目を見ない。思い返せば、今までだってあたしと目が合った事は少なかった。たまに目が合うと、いつもすぐに逸らして謝る――。野島さんはそんな女の子だった。
でも、まさか、こんな――。
あたしに、何ができるのか。彼女に何をしてあげれるのか。あたしは罪を犯したのか。罰とはいったい何なんだろう。あたしは混乱の極みにあり、下を向いている野島さんをただ見つめていた、けれど――。
「野島さんっ!」
あたしの突然の大声に、野島さんはこっちを見た。
「ズルいのはどっち! そんなんじゃずっと独りだって!」
あたしがカッターを持つ野島さんの右手を掴むと、抵抗はほとんど感じなかった。
野島さんは呆けたようになって、そのままあたしの胸に倒れこむ――。
(よかった――。よかった、けど……今の……)
あたしは、泣いている野島さんには悪いけれど、たった今奇跡を体験している。その暖かみが冷めないように祈りながら、あたしは静かに心で問う。
「――鈴木田さん……だよね?」
「うん。思うところあってな……。それより――」
まずは野島さんが本当に落ち着いたかどうか、確かめるように鈴木田さんは言った。なにか特殊な事情があっての事だろうとも、教えてくれた。
再会、というか、奇跡を喜ぶことを、あたしは懸命にこらえながら野島さんに声をかける。
「――ね、野島さん?」
一呼吸あって、野島さんは小さく答えた。
「……いいなぁ……鷲尾さん――」
「…………えっ?」
「私……お母さんのつき合ってる人に……。抵抗したけど……。それから、お母さんはその人と別れました……」
「…………。」
「本当は私、その人を好きだった。あってはならない事。だから、その罰と思って、そう仕向けた。全部壊れて、残ったのは私の嘘――」
野島さんの語る事の辛さが、なんとなくあたしには分かる。
この未来――。
あたしと野島さんは、誰も好きになれないような気がする。
少なくとも現在は、身の内に宿してしまった愛情が消える日が信じられない。
その後――。
あたしと野島さんは、なんとなく別れた。月曜日に学校で会うと思うし、多分、野島さんはあたしの目を見てくれると思う。でも、野島さんにとってあたしは、何だったんだろう。
「ねえ、鈴木田さん? どう思う?」
話したいことは山ほどあるけど、あたしはまずその事を聞いてみた。
「どんな結果だったとしても、基準にできる愛を知っちゃったってのは、幸せかもな」
「うわあ! 照れるっ!? よく人の中でそんなこと言うよね!? 鈴木田さん?」
「馬鹿言え――」
久しぶりの会話をしながら、あたしはこうも思う。
鈴木田さんは『消えた』のではなく、自分から『消えて』いたのではないだろうか。
理由はだいたい見当がつく。
それについては、日を改めてじっくり聞こうと思いながら、あたしは自分の愛の基準を作ってくれた鈴木田さんに感謝してみたりした。