第1話「こんなの奇跡じゃない!」 2
目が覚めたら、どこか分からないなんて経験は初めてと思う。
自分が誰なのかも思い出せない。
ものすごい近くに人が居て、ひそひそ声が聞こえてくる。でも、あたしは聞けない。
(あたしは誰ですか? なんでここに居るんですか?)
聞くのが無性に怖かった。自分の名前を忘れてしまうという事が、こんなに怖い事なんて知らなかった。目を覚ましたことを隠しておかなきゃとも思ったし、逆に叫びだしたくもあった。
ひそひそは看護師と思う。遠くにがやがやしているのは誰だろう。その中に知った声は、ひとつも無かった。恐怖の中、よみがえってくる記憶のかけらはろくなものじゃない。
(あたし、多分事故にあって、助かったんだ……。あんな火の中をよく――)
おぞましいけれど、何でもいいから思い出したくて、だけど呼び起こす場面はあたしの味方ではなくて、誰でもいいから抱きしめて欲しかった。「大丈夫だ」って言って欲しかった。
(このままだと不安で死んじゃうよ――!? 誰かぁ!?)
「うん。大丈夫だ。目、覚めたか?」
「えっ!?」
「多分……きみは鷲尾美弥子……さん。さっき看護師がそう言ってた。もうやがてお母さんが来る。ケガは大したことないようだから、きっと家に帰れるさ。良かったな」
「えぇっ!?」
「ああ、俺の事なら気にするな。もう死んで灰になってるさ。この目で――違うか、君の目で見たから諦めもついた。せめてきみが助かって良かった。いやマジで」
「は……あ!?」
「思い出せないか? ま、その方がいい。俺も忘れたいよ……。でも安心してくれ。あんなぐちゃぐちゃだったけど、即死だったから痛みも何もなかった。いやあ、びっくりしたなあ! 二度とあんな目には遭いたくないもんだ。って、もう死んだから二度はないけどね……? ハハッ」
「う……そ……?」
「――真実だよ。俺は、ほら、バス停のおっさん。生活指導の。口うるさい。あの四十がらみの。なんでか分からないけど、きみの中に入っちゃったみたいで……。ご迷惑をかけます……」
「えっと……?」
あたしは、とにかく整理がつかない。
そのくせあの事故を、本格的に思い出し始めている。
いつものつまらない朝。つまらない道を歩いて、つまらない学校へ向かうバスに乗った。一緒に乗ったのはつまらないおっさんと女性。
そして、最初の交差点で飛び出してきた車と激突し、電柱か何かにぶつかって、バスはひっくり返って、他の車も突っ込んできて……。
まるで拡散と炎上とを繰り返すSNSのような事故だった。騒ぎのわりに、どこか他人ごとのようなところが、である。
正直、あれがほんとだったのかどうか、信じられない。
けれど、もっと信じられない事が、あたしの身の上にふりかかっている。
(――あたしの中に、あのおっさんが居る!?)
映画や小説じゃあるまいし、そんな事あり得ないはずなのに、耳を澄ますとおっさんの息遣いが聞こえてきそうだ。
「あの――」
あたしと同時に、おっさんも声を出した。もちろん、どちらの声も心の声。そんな共有が、かなり気持ち悪い。あたしはおっさんに発言権を譲ったような形になった。
「えっと、鷲尾美弥子さん? きみにはお礼を言わなくちゃいけない。まずはこうして、心の俺を生かしてくれた事。迷惑だろうけど、俺にも原因がさっぱりだ。すまない」
あたしはおっさんを『生かした』つもりはさらさらない。逆に、おっさんに命を救われたと思っている。そして、おっさんが心から謝っていることが、痛いほど伝わってきたから黙っていた。
同時に、あたしが言いたかった事――よかったら出て行ってください――も言えなくなった。
先手を打たれたのかも知れないけど。
「それと、携帯。きみがバスから飛び出す前に、とっさに拾ってくれた俺の携帯。ありがとう。おかげできみに、俺が何者なのかを証明することができる。俺は鈴木田。三十九才で独身。会社員。電話番号は××××××××。嘘じゃないか確認してくれてもいい」
そう言って笑う、このおっさん――鈴木田さん?――に、あたしはなんと返せばいいのか。
確かにあたしは、あの時おっさんの携帯を拾い上げている。あのパニックの中でだ。意識下の行動ではなかった。なにか、不思議な義務感のような気持ちだったと思う。ひょっとしたら、それはおっさんがそうさせたのかも知れない。
ともあれ「ああそうですか。よろしくお願いします」なんて――言えない。
おっさんは、次はあたしの発言の番とばかりに、待っている。見透かされたような、嫌な『間』だ。
「あの、見てもいいですか? その携帯?」
「もちろんだとも。ああ、携帯は今ここには無い。看護師が保管してると思う」
その言葉で、あたしはセーラーじゃなくて、ピンク色の病院の検査服を着ていることに気づいた。何カ所か包帯も巻いてある。ごそごそするあたしの様子に、看護師の一人が声を上げた。看護師は一通り喜びの言葉を並べたけれど、あたしは素直に喜べない。
やがて母が来るだろう事。少し頭を打っているから、CT検査を受けなければいけない事。そして、マスコミが押しかけている事を、少し迷惑そうに告げると看護師は病室を出ようとする。
「あの、あたしの服とか、携帯とか、ください」
「ああ、お母様に渡しておくわね。あと、タバコはだめよ? あなた吸うでしょ?」
看護師のちょっとしたお小言は、あたしの容態がそう心配いらない事の裏返しだろう。まあいいきっかけだから、これを機にタバコはやめようと思った。そもそも美味しくもなかったし、肌に悪い。
けれども、あたしはそんなにタバコ臭いのだろうか。タバコ臭いと言えば、あの女性はどうなっただろう。無事だったのだろうか。
「ね……、あの女性の事、分かる?」
あたしはつい、おっさんに聞いてみた。
「あ、うん、多分生存者はきみだけだろう――。外でマスコミが騒いでたよ……」
「そう……」
名前も何も知らないけれど、あの女性が亡くなった事は、なぜか心を打ちのめした。いつも寂しそうで、やる気のない歩き方で、タバコを吸っていた女性が、今はもう居ない。実は、何年後かの自分のような親近感を感じていたのに――。
そんな寂しさと同時に、あたしは少しもよおしてきた。
――トイレ行きたい。
生きてるんだから、当たり前の事だけど、これには困った。なぜなら。
――おっさんが居る。
不幸にも事故で亡くなって、だけどあたしの中に心だけ生きてて、それは百歩も二百歩も譲る。今更出てけなんて、言えない。でも。だけど……。
おっさんが、あたしと同じものを見ているだろう事は、なんとなく分かっている。
(じゃあ、目を閉じていてもらう? 音は? それだけじゃないし!? やっぱ無理)
あたしがこんなに悩んでもじもじしているのに、おっさんはまるで分っていないようだ。微妙におっさんの落ち着きすら感じる。あたしの焦りはイラ立ちに変わって、それは不意に漂ってきたタバコの匂いで爆発した。
「ちょっとっ!? あたしの中でタバコ吸わないでっ!! あたし禁煙すんだからっ!? 今すぐ消して!! できたら出てってっ!!」
あたしの言葉の後、ちょっと沈黙ができた。おかげで少し落ち着いた。おっさんは申し訳なさそうに呟く。
「いや、俺じゃあない。俺は吸わないし……。どうやら、もう一人居るみたいだ?」
「ええ!!??」
あたしは、二つ目の心の存在を、タバコの匂いで確信した。
(この匂い――知ってる。あの女性のタバコの匂い――)
一つと思っていた赤ん坊の命が、双子だった時の気持ちはどんなものだろう。
あたしは二つ目のこころの存在を知り、絶望した。