第4話「野島依子」 3
家に帰ると、もうお母さんはいなかった。テーブルには置手紙がある。
《お店の準備で急用ができました。何かあったら電話してね。》
「……『何か』あったけど、電話なんかできないよ……」
小根山先生には相談できたけど、お母さんにそうする気にはなれない。そうしたら、鈴木田さんは、ほんとのほんとに消えてしまうような気がした。
あたしは、常識を超えた出来事に、非常識にも順応していたのだ。そして、実は正常に戻っている現実を、到底受け入れることができそうにない。
テーブルには、三角のサンドイッチが可愛く並べられている。紅茶の準備も、湯を注ぐだけにしてあった。そして見慣れない紙袋が一つ。
その三つのなかで、なぜだろう。あたしは真っ先に紙袋へと手が伸びた。それは小さいくせに重みがあり、直感で携帯かと思えた。
(まさか――鈴木田さんの携帯?)
開けてみると、案の定だった。
(どうして? そういえば、(お母さんが)返すとこ見てないし、あたしも忘れてた……)
あたしはまるで自分の物のように手に取って、電源を入れてみる。
黒い携帯は、ごく普通に息を吹き返した。
(鈴木田さん――)
指の動きは、鈴木田さんの情報のありそうな方へとあたしを導く。
(写真だ――)
画面にはいつの間にか、鈴木田さんの笑い顔が映し出されている。
(ふふ……笑ってる。女の子を泣かせてることも知らないで――)
今夜、お母さんが帰るまでに、あたしは十分に泣いておこうと思った。
いつの間にか、眠っていたらしい。起こしたのは、あたしの携帯――。
着信は、野島依子――。
(また……か。野島さん、朝会ったのにどうしたのかな……)
スルーしようかとも思ったけど、秘密を知られたような感じでもあるし、正直なんの為の電話か気になった。悩んでいるうちに切れて欲しくもあるけど、彼女はしつこいから、それはない。
「はい。もしもし、鷲尾ですが――」
我ながら、いやらしい応答ぶりだけど、これを皮肉と受け取る相手ではない。
「鷲尾さん? 今、家ですか? 今から会えませんか?」
それみた事か。野島さんはどこまでもマイペースで、構わないでも話は進む。
「私は朝の公園に居ます。ベンチで待ってる――」
夕方とはいえ、もう暗い時刻。あの公園に、灯りが少ない事は前から知っているから、あたしは気乗りしなかった。もちろん、それ以前に気乗りしてないけど……。
「どうしても、話しておきたい事があります。聞いてもらえないと、私どうなるかわかりません……」
――そうきた。本人に分からないなら、あたしに分かろうはずがない。
「どうしたの、野島さん、変だよ? 月曜に学校でじゃ、だめかな?」
あたしなりに、少し強めに言ったつもりだけど、どうせ効果はない。
「いま聞いてほしいから、電話しました――」
(――ほらね。)
結局、あたしが折れた。あたし自身、それどころではないのに。
でも、学校ではほとんどしゃべらない野島さんがここまで押してくるのだから、余程の事があるのだろう。(鈴木田さんの事も知られていることだし……)
あたしは簡単な支度をすると、公園へと向かった。外は薄暗かったから、早く行って早く帰ろうとあたしは小走り。だから五分くらいで公園に着いた。それでもあたりは真っ暗になっている。
朝あたしが座っていたベンチに、野島さんはチョコンと座っていた。
いつも二つ結びの髪をほどいている野島さんは、どことなく違う人にも見える。
「野島さん、来たよ――」
「鷲尾さん……。ごめんなさい――」
野島さんはどういうわけか泣き声で、電話での強気が嘘のよう――。
「野島さん、どしたの? 何か……あった?」
野島さんはそれに首を振って答えると、小さな声で言った。
「これから、あるの……」
「…………ヒッ!?」
(す、鈴木田さん――。あたし、帰りたい――)
当然、鈴木田さんは答えない。あたしは、当たり前だけどあたし一人で考えて、行動しなければならない。ここは帰るのが順当だろうと思う。
でも逃げるように去っては危険だろう。面倒だけど、野島さんにはきちんと伝えなければ。
(毅然と、正直に、言えば、大丈夫……なはず)
あたしは、暗がりの中に白く浮かんだ、野島さんの横顔に向けて言った。
「野島さん? あたし帰るから。実は他人のお話を聞く余裕が無くて……。まずはお互い家に帰って、落ち着いて、考えよう? ね?」
自分でも百点の意思表示だと思った。現に、野島さんは首を縦にした。
だけど――。
「鷲尾さん、ずるい。今夜を逃したら、鷲尾さんは私には目もくれない。だから……」
あたしは手首をつかまれている。
冷たくも暖かくもない、哀しい感触だと、あたしは思った。