第4話「野島依子」 2
「鈴木田さんっ!? すぐだからね!? すぐ着くから、がんばってっ――」
慌てて病院の自動ドアに飛び込むと、受付には担当の看護師さんが居て、すぐに気づいてくれた。
「あら? 鷲尾さんね、どうしたの? どっか痛くなった?」
「い、いえ、その……」
――痛くは無い。怖いのだ。
「それじゃ、座ってて? 順番が来たら呼ぶから」
「あのっ、できたら急いでっ――」
――悠長にしてる暇なんかない。
あたしは一方的に、看護師さんにお願いした。
「先生いますか!? あたしの、あの、おじいちゃん先生!?」
我ながら失礼な呼び方だけど、咄嗟に先生の名前が思い出せなかったから仕方がない。
「小根山先生ね。今日は休診なのよ。今日は違う先生だけど、大丈夫だから」
「えっ……」
あの小根山先生じゃないと、大丈夫ではない。あたしの今の症状は、小根山先生にしか理解できないとも思った。逆に言えば、小根山先生なら、なんとかして下さると思っている。あたしは、もう一度、無理押しした。
「先生、いつならいますか? あたし本当に急いでて。もしいいなら、先生の居るところに行きますっ!!」
あまりの強引さに、他の看護師さんたちもこちらを見ている。
(あーもうっ!? こうしてる間にも、鈴木田さんはどんどん消えて行っちゃうよ!? 誰か助けて――)
あたしはもう、なにも構ってはいられない程にこんがらがっている。その時、廊下の奥からパタパタとサンダルの音が近づいてきた。ずんぐりした体型の、おっとりした歩き方で、白髪頭のその人は――。
「あ、あ、先生っ!? 助けてくださいっ!! 今にも消えそうなんですっ!! さっきまで話してたのに……もう、返事もしてくれないっ!!」
必死にすがるあたしを見て、先生は言った。
「うん。なんかわからんけど、ちょっと先生の診察室で聞こか。鷲尾美弥子さん……やったか?」
先生は外出するところだったらしく、外には車も待たせてあったらしい。それをキャンセルする事を看護師さんに伝える様子に、あたしはただただホッとした。
診察室では、つい数日前座った椅子が、まるであたしを待っていたかのように見えた。
「じゃあ、聞こ。でも先生はなあ、たいていの事では、驚かんからなあ」
小根山先生は、自分の事を『先生』と呼ぶ。そんな先生をあたしは本気で信頼している。だから隠さず、正直に吐き出した。
「あの事故のとき、あたしを命がけで助けてくれた男の人、鈴木田さんって言います。その人、実はあたしの中に生きてて、でも、なぜかさっき消えちゃって……」
「うん、うん。鈴木田さん、いうのか。どんな男かいな?」
「はい。三十九才独身の、さえない、いつも作業服の、おじさんです!」
「ほう、ほう。ほかには?」
「えっ……? 他には……大家族でした! 両親とお兄さん、妹が二人、弟一人。みんな社会人で――」
なんだか国勢調査のようなことを、あたしは答えた。
「すると、きみとはどんな関係なんや?」
先生はズバリと核心に迫る。病院特有のひんやりした空気が、あたしの背中を震わせた。
「あの、えっと、それは……」
「答えようもない関係、いうわけやなあ。その鈴木田さんいうたか、幸せな男や。それが、消えた。運のない男でもあるなあ――」
「――先生! あたしいったいどうすれば!? 小根山先生!?」
先生はもったいぶるような人ではない。優しくも冷たくもない視線が、あたしを見ている。
「うんうん、割とな、あるんや。そうゆう、なんちゅうか、命の恩人が宿るような――」
言葉は答えでは無かったけど、あたしにとっては命綱的な情報だ。
「えっ!? そうなんですか!? 先生、診たことあるんですか!?」
興奮するあたしに、先生は一言。
「あるで」
一気に希望の光が射す。前例があるというだけで、なんと心強いことか。
「やった……良かったあ!? じゃあ助けてください!! あたしの鈴木田さんを今すぐ、起こしてっ!!」
あたしは、鈴木田さんが今、意識を失っているのだと思っている。きっと先生なら、鈴木田さんを起こす方法を知っている。期待通り、先生は看護師さんを呼んで指示を出した。
「ああ、きみ(看護師さん)な。この鷲尾美弥子さんに砂糖水飲ませ。ああ、甘くしてな」
(砂糖水? 薬じゃないの? まあ効くなら何でもいいけど……)
看護師さんはすぐにコップを持ってきた。あたしは先生に促されるままに、その甘いのを飲んだ。滅茶苦茶に甘くて、のどがおかしくなる。
「甘いかあ?」
「――はい。すっごく」
「うん。そうやろそうやろ。ほかには?」
「――はい?」
「その、鈴木田君言うたか? 今のとこ、その男は砂糖水なんや。甘くて、忘れ難い。でも、人間それだけやないで。辛い、酸い、苦い……色々ある。鈴木田君が戻るには、そういう色んな味を、君が知ってからやなあ……」
「……え?」
「そうや。先生はそれしか言えん。きみを最初診た時、そうやないかと、思っとったよ」
「そんな……だって……あたし……」
もう、あとは言葉が出ない。
わかった事は、鈴木田さんが帰らないという現実。夢を見ていたのだろうか。鈴木田さんの事は、ただの思い込みだったのか。あたしは何かに沈むような感覚にとらわれて、なぜか大下さんとの会話を思い出す。
――愛とは、分かつもの。
今にして思えば、あたしはいったいどれほどの愛を、鈴木田さんと分かち合っただろう。
(ただの、女の子の、愛へのあこがれだったんじゃ……)
あたしは椅子から立ち上がった。帰ろうとするあたしの意思を感じ取って、先生も立つ。
「あのな、先生、きみならまた会えると思うなあ。気、しっかりするんやで」
そしてあたしは、一人で病院を出た。
ぼっちの秋は肌寒くて、歩き出すのに掛け声が要る。
「鈴木田さんのバカ――」
砂糖水の味は、いつのまに口から消えていた。