第3話「愛わかつもの」 4
「夢を見てたわ……」
大下さんの口は、確かにそう言ったと思う。大下さんの生の声を、初めて聞く事が出来て、あたしはただ嬉しかった。
「あなたの――中に――入った夢よ。いつもバス停で一緒ってだけの間柄なのに、不思議よねえ……」
喋っている大下さんより、聞いているこっちの方が息を整えている。そんなあたしに、大下さんは目で微笑んでくれた。
「あの事故であなたを助けた時、思ったわ。――あなたと違って私は助かっても先が知れてる。ふふ……馬鹿よねえ」
言いながら大下さんは手を伸ばし、その手の平を上岡さんが黙って握りしめる。
それから大下さんの視線は、上岡さんだけを見ていた。あたしは精一杯の気持で、それを見守りたく思った。
「文也……。私――目覚めることができて、良かったと思ってる。あとどのくらい生きられるかとか、先の見えない治療が辛いとか、そんな事ばかり考えてたけど、この子の中に入った夢をみたおかげで、考えが変わったの……」
「鷲尾、美弥子さんだ――。ずっと君を心配していた」
「――そう。美弥子さん。前から知ってたみたい……」
そう言うと、大下さんは目を閉じて、とても安らかな表情になった。
(たった何日だけど、あたしの中に居てくれた大下さん。もう、すっかり忘れてるんだ……)
あたしは別に不満もないし、寂しさもない。あるのは安心と、これからの大下さんへ向けた祈りだけ。もし神様がいるのなら、どうしても大下さんの事を、助けて欲しかった。でないと、大下さんは事故から折角助かった事が、なんだかうまく言えないけど、不公平なように感じる。
そして、大下さんが再び口を開いた。
「そうね。不公平――。それも正直、思った。なんで私は二度も死ぬ目に合わなきゃならないのかって。だから私は、あなたの手を、取らなかった……」
大下さんは、あのバス事故であたしが抱いていたわだかまりをぬぐい取った。
――けれども。
「ねえ――美弥子さん? 愛をわかつのは、何だと思う?」
まるでその代りにとでもいうように新しい難問を、あたしに投げかけてくれた。
大下さんが、あのバスにとどまった瞬間に、もうこの質問を受ける事は決まっていたように思う。大下さんの声には弾みがあって、あたしは不謹慎にも、それにのっかるように明るく答えた。
「愛をわかつのは……すごく難しいです! んーと、ちょっと考えていいですか? あたしも今、愛に悩んでて――」
口にして「しまった!」とすぐに思えるおバカな答えだったけど、大下さんは興味深そうにこちらを見ている。
「ふーん。美弥子さんは多分、一直線よね。私が聞いたのは愛を分け隔てるもの。美弥子さんには、『分かち合う』ものと聞こえたみたい。じゃあ、それが答えよ」
「――はあ」
あたしは分かったような分からないような返事が出た。
「分かち合う事が出来なくなった時が、愛が隔たった時。私は死が愛を分かつのだと、こだわってたの。でも、違ってた。文也が私を覚えている限り、私の愛は消えない。死が二人を隔てても、愛は分かつことができる……もう少しで間違えるところだった――」
口には出さなかったけれど、大下さんはきっと病気に打ち克つのだと誓ったと思う。同時にあたしは、この病室にいる事がなんだかお邪魔に思えてきて、きっかけを作って帰ろうと思った。
「あ、あたし、本当に、安心って言うと変だけど、良かったって思ってます。大下さん――」
こんな時、何と言えばいいんだろう。その後が続かずに、あたしはいつもの如く鈴木田さんに助け舟をお願いした。でも、次の言葉は大下さんの方が早かった。
「そういえば、バス停のもう一人。あの中年男。美弥子さん、知ってる? 無事だったのかしら?」
「は、はいっ!? 元気ですよ!?」(ここにいるし!?)
「そう。よく二人で話してたわよね? これから私は治療に専念するから、もうバス停には立てないけど、あんまり夢を見せない方がいい。かえって可哀そうよ? それに中年はしつこいから」
「えっ……!? そ、そうなんですか!?」(って言うか、四六時中一緒なんですけど――)
「実はね――。美弥子さんの中に入る夢。私より先に、あの中年が入っててさあ? 気味悪いし、うざいし、なんであんな夢見たんだろう? ま、夢で良かった。勝手な夢見てごめんなさいね?」
「は、はい――」(いや、夢じゃないし――!?)
やっぱり、鈴木田さんと大下さんは相性が悪そうだ。あたしは退室しながらそんな事を考えたら妙におかしくなって、一応、鈴木田さんにも確認をとってみた。
「ねえ、大下さんの事、どう思ってたの?」
鈴木田さんはたった一言。
「嫌いだよ」
あたしは思わず吹き出して、だけど待っていたお母さんに変な顔を見せるわけにもいかず、唇をかんだりした。
――それにしても。
大下さんが無事に自分の体に帰れて、本当に良かった。でも、そもそも大下さんはあたしの中に居たのだろうか。済んでしまえばあまりにその思い出は希薄で、夢だったような気がしないでもない。
「鈴木田さんはどう?」
そう聞いたのは、実は鈴木田さんも夢ではないかと疑ってしまったせいだ。
「うーん、確かにおれよりは薄かったかな? ひょっとしたら、彼女はほんと夢だったかも知れないよ? おれは本物だけど――」
「本物とかあるんですか? まじウケるんですけど!?」
あたしはやっぱり笑みをこらえきれない。だけど、心の奥底に、どうしても届かないガラスの破片のような心配事が一つ、鈍く光を放っている。
(鈴木田さんは、あたしをどう思ってるんだろう――?)
実はその事を、今まで考えてもみなかった。
あたしは若いし、容姿もそこそこだろう(?)。性格はちょっと投げやりになるところが欠点かも知れない。あと、勉強は普通。一応、進学先は看護専門学校に絞っている。だから、夢は看護師――。一度はあきらめた夢だけど、事故に遭った経験を活かし(?)て、もう一度チャレンジする気持ちがわいてきたのだ。そしていつかは、素敵な人と結婚したい。お酒は呑まない人がいいなあ。飲んべだとお母さんに取られるかも知れないから――。
そこまで考えて、あたしは一つ溜息。
こうなった以上、あたしは鈴木田さんと結婚――というか一生一緒って意味――する。
だけど、もし鈴木田さんが体に戻れていたら、あたしたちは結婚しただろうか? いや、しない。多分。
――それはさておき。
あたしはこの先、恋人と手をつなぐとか、それ以上のコトをしたい時、どうすればいいんだろう。そういう事にはこの先まるで役立たずの鈴木田さんに、あたしは少し腹が立った。
「もう! 少しは感謝してください!」
「えっ!? してるさ。でも仕方ない。おれはなんとかならないものかと、いつも考えてるんだが……」
「いいんです!! もう、どうにもなりませんから! そのかわり……ですね?」
「そのかわり……どうした?」
あたしはさっき感じた不安を今、消しておこうと思う。
「鈴木田さんは、あたしを好きですか……?」
一応、声が震えた。
「嫌いってのは、無しの問いだな……」
鈴木田さんが、的確だかなんだか分からない返事をする。
「嫌い、でも、いいですよ? その場合、すぐに出て行ってもらいますが?」
「じゃあ、好きだ。それしかない!」
「ずるい――!?」
(やっぱり、鈴木田さんだって選ぶ権利あるよね……。あたしは自分目線でばっかり、考えてた……)
変なやり取りをしながら歩いていたから、あたしは病院の外に出ている事に今更気づいて、大きな病院の建物を見上げてみる。
「大きい――」と、あたし。
「でかいな――」と、鈴木田さん。
こんな風にいつも気持ちを分かち合えるのなら、体なんか無くたっていいかとも、あたしは思ったりした。